第25話 蒼一の戸惑い③
私は必死にパソコンに齧り付いていた。
時計を見上げるのはこれで何回目だろうか、切れる集中力をなんとか繋ぎ止め、とにかく仕事を早く終わらせることに夢中になっていた。
私が今日、普段よりだいぶ気合が入っていることを、職場の人間も感じ取っているようだった。いつもより視線を感じる。不思議そうにこちらを眺めてくる人間にも気がついていたがどうでもいい。今日のために仕事もちゃんとコントロールしてきた。
待ちにまった自分の誕生日だった。この年になって誕生日にワクワクしているなんて、小学生と変わらない。だが高鳴る胸が抑えきれないでいた。
仕事なんて休んでしまおうか、と実は思っていた。だがそうなれば、咲良が私のためにこっそりケーキを焼くことができなくなってしまう。私は何も気づかないフリをして普段通り出社し、とにかく定時に上がれるように全力を尽くしていた。
流れは順調だった。一分一秒も無駄にしたくない、上がれる時間になったらすぐに立ち上がってここをでる。私はそう強く心に決めていた。
(さて、もうそろそろか)
時計を見上げて一人頷く。パソコンをシャットダウンしようとした時、こちらに近づいてくる人影に気がついた。
スーツを着こなし、髪もしっかり手入れされたその人は新田茉莉子だった。彼女は私のデスクまで近づくと声をかけてくる。
「天海さん」
「どうしたの?」
「本日これから時間ありますか?」
「ないね」
即答した。普段の私なら多少の用事ぐらいなら『どうかした?』と聞いていただろうが今日は違う。
新田さんは困ったように眉を下げた。
「実は、企画部の木村さんがどうしても今日中に相談したいと」
それを聞いて、今度は私が眉を下げる番だった。
「明日にしよう」
「明日から木村さん出張なんですって。今進行中のプロジェクトについて一刻も早くお話したいとのことで」
私は困り視線を泳がせた。今手がけているプロジェクトは重要なもので、とても力を入れているものだ。もちろん新田茉莉子も携わっている。木村という人は仕事もでき人望ある、私も一目置いている相手だった。
新田さんは付け足す。
「あまり時間は取らせない、とのことでした」
「…………」
仕方ない。私はため息をついた。
「分かった、短時間でなら付き合う。呼んでもらっていいよ」
「外の店を予約してあるそうです」
「なんでわざわざ? 社内でいいんじゃないか」
「社内で話しにくいことみたいです」
やや声をひそめた彼女に、一体どんな話が飛び出すのかと不安が募る。あのプロジェクトは絶対成功させなければならないものなのだが。
私は立ち上がり身の回りの支度を始めた。
「分かった、そうということならすぐに行こう。僕もあまり時間を取られたくない」
「わかりました」
新田さんは踵を返し素早く動いた。私はポケットからスマホを取り出し、咲良に連絡する。仕事で職場の人たちと少し飲むこと、でもなるべく早く終わらせて帰ることを告げる。
すぐに返事は返ってきた。『大丈夫です、待っています。頑張ってくださいね』と、機嫌を損ねた様子のない文面に少しだけ安心した。
ついてないな。なぜ昨日言ってくれなかったんだ、よりにもよって今日そんな話をしてくるなんて。私は一刻も早く帰りたくて仕方ないというのに。
スマホを再びポケットにしまい込むと、私は鞄を持ってその場から去った。
場所は会社からすぐにある個室のある和食屋だった。新田さんに連れられ中へ入ると、やや狭めの個室に通される。木村さんの姿はまだ見えていなかった。私が座ると、新田さんも隣に腰掛ける。
彼女はメニューを取り出し私の前で開いてくれた。
「何か飲まれますか」
「いや、今はいいよ、木村さんがきてから」
腕時計を眺める。本来ならもう家に向かっているはずなのに、とため息をついた。
そんな私の様子に気がついているのか、新田さんが言う。
「何かご予定があったんですね」
「まあね」
「急いでいる天海さん珍しいから」
「今日だけはなるべく早く上がりたいんだ」
「お誕生日だからですか」
ストレートに言われて苦笑した。どこでそんなことを知ったんだこの人は。いい年にもなって誕生日を楽しみにしてる男だとバレてしまった。
「そう。木村さんがなんの話かわからないけど、できれば早めに切り上げたい」
「分かりました」
彼女は頷いて納得した。少し安心する。新田さんは基本仕事もできるし、こう言う時上手く立ち回れるタイプだ。色々と器用、といえばいいか。
新田さんはスマホを取り出し覗き込む。少し操作した後私に言った。
「木村さん、少しだけ遅れるそうです」
「……わかった」
苛立ちをなるべく抑えるようにして返事を返した。彼も仕事か何かですぐに来れないんだろう、仕方ない。
私は自分のスマホも取り出し咲良から連絡がないか確認する。さっきのメッセージ以降何も来ていないようだった。ふうとそのままスマホを置く。
家に帰れば食事も用意してある、ここで腹を膨らませるわけにはいかない。少し烏龍茶でも飲んであとは二人で食事をとってもらおう。
咲良がケーキを焼いている姿を想像する。山下さんの指導の元、きっと必死になってやったに違いない。どんなものが仕上がっているのか思い浮かべるだけで頬が緩みそうだった。
きっと砂糖の代わりに塩が使ってあったとしても、私は美味しいと完食する自信がある。
ソワソワしながら木村さんの到着を待った。
ところが、だ。
彼はなかなか店に現れなかった。
私と新田さんはずっと注文をしないのも店に悪いと思いドリンクだけ先に飲んでいた。チラチラと時計を眺めては来ない約束の相手を待った。
新田さんも不思議そうに首を傾げながら『来ませんねえ』と呟く。焦る気持ちをなんとか隠しながら待つも、今日ばかりは気持ちの余裕がない。
一度トイレに立ち、戻ってきた時には店へ来てから三十分以上が経過していた。それでも席に戻っても座っているのは新田さん一人だ。最初に注文した烏龍茶はすでにほとんど無くなっていた。再度時計をみた私はついに痺れを切らす。
「何か連絡あった?」
「もうすぐ着くかと」
普段の自分ならいくらでも待つだろう。仕事をしていると上手くそれを切り上げられない時があることを知っている。それでも今日だけは勘弁してほしかった、あとの364日なら文句言わず待つというのに。
私は新田さんの隣に腰掛けた後、柄にもなく苛立ちながら言った。
「僕から連絡しよう」
テーブルの上に置いてあるスマホに手を伸ばした。しかしそれを、柔らかな手が包んで止めたことに気がつく。私の手を新田さんが握っていた。
驚きで隣を見る。彼女はじっとこちらを見つめ、しっかりリップの塗られた唇から言葉を漏らした。
「すみません」
「え?」
「木村さんが話したいなんて言ってるの、嘘です」
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