第24話 蒼一の戸惑い②
その場から去ろうとした彼女を、私は思い出して引き止めた。
「あ、山下さん!」
「はあい?」
「あの、母は相変わらずですか?」
ぼんやりした質問だが、彼女は言いたいことを感じ取ってくれたようだった。やや困ったような表情になったのに気がついたのだ。
あのパーティー以降、両親には会えていない。咲良との結婚が決まってからずっと納得のいかない顔をしているのは母だ。父は初めこそ苦い顔をしていたが、少しして受け入れてくれたように感じた。だが母は違う。
パーティーでも見てわかるように、咲良にはあまり話しかけず目も合わせない。是みよがしに他の女と仲良く見せつけるのは我が親ながら性格が悪い。あの人はああいうところがある。
外でああなのだから、家ではもっとストレートに咲良の愚痴を言っているのだろうと安易に想像がつく。山下さんの耳に入るくらい。そしてそれは未だに続いているようだ。
山下さんは困ったように俯いた。
「そうですねえ、奥様は思い込みが激しいところがありますからね」
「未だ咲良のことを言っていますか……」
「時々、ですけどね? 私もフォローしたいですが、庇うと逆にヒートアップすることもあるし」
「ええ、そういうタイプです。まちがってません」
呆れてため息をついた。頭が冷えるまで時間を置こうと思っていたが、いい加減なんとかしなくてはならないのだろうか。いっそ綾乃の逃亡劇の裏側を全て話してやろうかと思う。
彼女が逃げることを私は知っていた、と。咲良を想い続けていた私も共謀したのだと。
「まあ、もう少しそっとしておくのが一番かと思いますよ。咲良さんは素直で可愛らしい人ですから、必ず奥様にもいつか伝わるはずです」
「はい……ありがとうございます」
山下さんは私に頭を下げると、今度こそ目の前から立ち去った。その後ろ姿を見送りながら、一人想いに耽る。
仕方ない、山下さんもああ言っていたのでとりあえずもう少し様子を見るか。今はなるべく母と咲良は接しないように気をつけねば。
そして同時に、頭の中に浮かぶのは誕生日のことだった。
先ほど自分で思い浮かべた仮説を思い出して顔が熱くなる。咲良が私を好いていてくれたら、なんてとんでもない話だ。それでも状況的にその考えはゼロではないかもしれないとも思う。
胸の中がウズウズと痒くなる。恥ずかしくて、嬉しくて、でも間違いだった時のためにショックが小さく済むよう予防線も張りたい。
(誕生日の日に……いい加減話そうか)
私たちの書類上の夫婦という関係の今後について。
玄関の扉を開けるといつも通り咲良が走ってきた。私はこの光景を見るのがとても好きだった。笑顔でこちらにくる彼女はまるで子犬のようだった。
決して馬鹿にしているわけではない、人懐こくて可愛らしい笑顔をそう例えてしまっただけだ。この顔を見ると、私自身幸福に包まれて仕方がない。
「お帰りなさい!」
「ただいま。あれ、今日カレー?」
「あは、鼻いいですね。キーマカレーです」
「やったね」
「好物なんですか?」
「生姜焼きと同点くらい。一位はハンバーグかな」
咲良は声を上げて笑った。そんな顔を見るだけでこちらも笑ってしまう。咲良はなんだか楽しそうに言った。
「蒼一さんって意外と小学生男子っぽい味覚なんですね」
「言ったね、小学生か」
「あは、ごめんなさい。蒼一さんは大人っぽくていつも落ち着いてるのに、そういうところもあるのって可愛いなって」
そう言っている最中、咲良は自分で口を抑えた。可愛い、だなんて呼んだことを私に対して失礼かと思ったようだった。
「ごめんなさい、男性に可愛いとか」
「可愛いのは咲良ちゃんだよね」
「そ、そんなことないですもう、からかわないでください」
恥ずかしそうに俯く彼女に、これ以上ない本心なのになあと心で呟く。可愛らしくて、癒される、温かな人なのに。
靴を脱いでリビングへ向かう。しかしそこでふと、足を止めて気になっていたことを彼女に尋ねた。
「どうだった、ランチ」
「え」
「今日だったよね? 蓮也くんとのご飯」
先日咲良から予告されていたことだった。誘われたのだがどうしよう、と彼女に相談されたのだ。言いたいことは分かっていた、形だけとは言え既婚者である彼女が男と二人で外出はよくないだろうかという相談だったのだ。
本当ならば二人でなんて行って欲しくなかった。誰か他の友達も誘ってほしい、できれば会って欲しくないと言いそうになったのを懸命に堪えた。私は咲良に自由を約束している、無理に嫁がせてしまったのでせめて楽しく暮らしてほしいと。
余裕のあるふりをして行っておいで、と告げた。だが夜だけはやめて欲しかったのでせめて昼間に、という条件だけつけた。
北野蓮也が私に咲良が好きだと宣戦布告してから少し経つが、あれ以来彼は何も動きはない。私は咲良と話し合うと彼に約束したのだが、未だにそれを果たせていない情けない男だ。
彼は咲良に一体何を話したのだろう。こんな風に気になって探りを入れるくらいなら、初めから咲良を止めておけばよかったのに。
私の質問に、彼女は一瞬だけ表情を固まらせたのに気がついた。だがしかし、すぐに微笑み返してくる。
「はい、買い物してご飯食べてきました、楽しかったです」
楽しかった、という言葉になぜか胸を痛める。私との外出はいつも楽しんでくれているのだろうか、と余計なことばかり考えて。
「……そうか。よかった」
私はそれ以上何も聞かなかった。聞ける立場にないと思った。
蓮也は最近の咲良の様子を見るために誘ったのだろうか。それとも、彼から何か聞いただろうか?
少なくとも咲良は私にそれを報告しようとはしていない。
話が途切れそのままリビングへ入った。見慣れた私たちのリビングだ。今日はカレーの香りが充満している。
「先に食べちゃおうかな」
「温めますね」
鞄をソファの上に置いてキッチンの方を盗み見る。夕飯の準備をしている咲良の姿を見ながら、今日山下さんが言っていたことを思い出す。
『練習してるんですよ、プレゼントするケーキ。愛されてますね』
思い出し一人馬鹿みたいに赤面した。もしこの自惚が事実だったら。
いやでも流石に図々しいか。初夜の時、あれだけ顔をこわばらせていたのだ、きっと嫌だったに違いないんだ。
しかし万が一、共に生活するようになってそう意識してくれるようになったとしたら? そんな幸運な話あるだろうか。他に好きな男がいたけれど諦め、私を見てくれるようになったなどと。あまりに都合がいい気がする、でも山下さんの言う言葉では、
「蒼一さん?」
「えっ!?」
頭の中で必死に考え事をしている時に突然話しかけられ、驚きから自分の声はやや裏返った。咲良もキョトン、としている。
「どうしたんですか、なんか顔が赤いですけど。体調不良ですか?」
「い、いや違う。ちょっと仕事のこと必死に考えてて。難しいことだから」
「難しいんですか。大変ですね」
料理をテーブルに並べながら咲良は感心するように言った。世界一難しいと思うのが彼女の心の中だなんて笑ってしまう。大人っぽくていつも落ち着いている? どこがだ。
私はなるべく平然を装ってダイニングテーブルに座った。咲良も向いに腰掛ける。
「おかわりいっぱいありますよ」
「はは、ありがとう」
二人で手を合わせて挨拶をする。好物である食事は、なんだか今日は味がよくわからなかった。
毎年どうでもいい自分の誕生日が、これほど待ち遠しくなる日がくるだなんて夢にも思っていなかった。
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