第23話 蒼一の戸惑い①
自分は昔から、計画性のある人間だと自負していた。何かを後回しにするのは嫌いだった。例えば夏休みの宿題だって、始めの方に終わらせて後半は休みを謳歌するタイプの人間だった。
仕事だってもちろんそうだ。プライベートでも。できることは早め早めに進めるのが自分のやり方。
そんな私が、一番大事なことはずっと後回しにしている。
北野蓮也と話した日、衝動を抑えきれず咲良を抱きしめてしまった後、結局私はまだ彼女と話せていない。これからどうするか、この形だけの夫婦関係をどうしたいのか答えを聞けていないのだ。
あの日彼女を抱きしめてしまった時、咲良は私を抱きしめ返した。混乱の末『立ちくらみがした』だなんて笑えるほど下手くそな嘘をついたわけだが、あんなの流石に咲良も嘘だと気づいているはず。
なぜ私を抱きしめ返してくれたのか。その答えも聞かねばならないのに。
それでも、この穏やかな関係が終わる可能性があるのだと思うと私の勇気は萎んで消える。彼女と夕食を取るとき、今日こそは今日こそはと思いつつ愛しい笑顔を前に何も言えなくなる。
話し合った末、『離婚したい』『好きな人と結ばれたい』『あの抱擁はなんとなく応えただけ』なんて言われたら。そんなことばかり想像している。
こんな生活が永遠に続いてくれないだろうか。咲良がずっとそばにいてくれれば。
……なんて、身勝手なことばかり祈っている。
まだ外も明るい時間に、私は自宅へ向かっていた。
咲良と暮らし始めた頃は仕事も忙しく帰りは夜遅かったのだが、ここ最近は少し落ち着いてきている。同時に私自身早く帰りたいと思う気持ちが強く仕事に入る力が違うのか、以前より早く帰宅できる日が増えていた。遅くなる日もあるが、早く帰る日もある、という感じだ。
さすがに二人の生活に慣れてきた私たちは特に問題なく暮らしていた。休日はそれぞれ好きなことをしたり、時には一緒に買い物をしたりして過ごしている。咲良の方はまだこちらの様子を伺っている感じはあるが、それでも最初の頃に比べれば肩の力が抜けているようだ。
片手にお菓子を持ちすぐ目の前になった家を目指す。仕事の関係者から貰ったバームクーヘンだった。今までの私なら子供がいる同僚などに適当にあげていたが、今日は違う。咲良が喜ぶかもしれないと思ってそのままもらってきた。
なんとなく浮き足立つのを自覚しながら歩いていると、目の前に見覚えのある顔が見えた。久しく会っていなかった家政婦の山下さんだった。
元々私の実家に昔から通う家政婦さんだ。気さくで優しく、母の味より山下さんの味の方が舌も慣れている。今はこちらの家にも昼間少しきてもらい、夕飯を作ってもらっていた。
「山下さん」
うちの実家からの帰りだろうか、彼女は私に気づくと顔を明るくさせた。少し増えた顔の皺に、なんだか切なさを覚えた。
「あらあらお久しぶりです蒼一さん!」
昔から変わらない明るい笑顔で私に寄ってきた。私も笑顔で応える。
「お久しぶりです、お元気そうで」
「元気ですよ、この通り!」
「いつもこっちまで来てもらってすみません、実家の方もあるのに」
「大丈夫ですよ、そんなに長い時間じゃないですし」
家に帰ると咲良はよく山下さんの名前を出す。たわいもない話で、山下さんのお子さんの話だとか、彼女から聞いた私の幼少期の話だとか、楽しそうに話している。きっと二人は仲良くやっているだろうと安易に想像がつく。
それは私の希望だったのでほっとしている。料理をしてもらうのと同時に、突然嫁がされた咲良の精神的フォローになってくれればという願いがあったからだ。
山下さんはふふふっと思い出し笑いするように言う。
「初めは心配してたけど、咲良さんも慣れてきたみたいですね」
「よかったです、山下さんもフォローしてくださって」
「いいえ私は何も。もう、咲良さんって本当に可愛らしいからこっちも微笑ましくて! ふふ、ケーキもあんなに練習して」
そこまで言った時、彼女はあっという顔をした。私はキョトン、として首を傾げる。
「ケーキ?」
聞き返すと、彼女はしまったとばかりに頭を掻いたが、すぐに私に言った。
「ここで言うべきじゃないのに言っちゃったわ。私ったら。でもだってね、必死にケーキを焼く咲良さんが本当に恋する女の子って感じで微笑ましくて」
「……え」
恋する、という言葉が聞いて止まる。山下さんは私の様子に気がついていないようで、嬉しそうに話し続けた。
「練習してるんですよ、プレゼントするケーキ。愛されてますね」
目を細めて私に言う彼女の顔を見て、体が停止した。
プレゼントとケーキ、という単語を聞いて思い浮かぶことがある。それは数日前、咲良から出された話題だった。
もう少しすると私の誕生日が来る。当日は予定があるのかと尋ねられた。今まで誕生日は、友人や綾乃と飲むか、時には特別なこともせず一人で過ごすこともあった。いい大人になれば親だってわざわざ誕生日を祝うことはないのだ。
だから自分の誕生日など特別視したことがなく頭からすっぽり抜けていた。正直に予定などない、と告げると、家でお祝いをしようと咲良は嬉しそうに言ってくれたのだ。
それだけで自分でも呆れるほど心が躍り、あんなにどうでもよかった誕生日が特別な日に感じられた。
このタイミングでケーキなどと言われれば、期待しない方が無理なのだ。
(私のために? ケーキを練習している)
頭の中がぐるぐると回る。それは山下さんが発した『恋する女の子』という言葉が一番私を混乱させた。
好きな人がいる、といつだったか咲良は言っていた。私はそんな相手がいるのに結婚させてしまったことに罪悪感を覚え苦しんでいた。彼女に愛される男が羨ましくてたまらなかった。
(……待て、自惚な考えが消えない)
自分の頭を抱えた。そんな馬鹿な、という考えと、もしかしたら、という希望が自分の中でせめぎ合っている。
咲良の好きな人が、私だったら??
そんな馬鹿な話あるわけない、元は姉の婚約者だった私を、七も年が離れている私を、彼女がそんな風に想っているだなんて。
でもいくら咲良が優しい努力家だからといって、好きでもない男のためにケーキを焼く練習までしてくれるのだろうか。
考えれば考えるほどパニックになって答えは出ない。額に汗をかいてしまったのを手のひらで拭き取った。そんな私に気づいていないのか山下さんは笑いながら続ける。
「あ、でも当日はびっくりしたフリしてくださいよ! もう私ったらここでバラしちゃうなんてほんとだめですよね、反省します」
「い、いえ。ありがとうございます」
「ふふ、いいお誕生日を。はあ、ときめきを分けてもらえて私も楽しいです、若返った気分! 上手くいってるみたいで安心しました」
ほっとしたように言った山下さんに頭を下げる。もちろん結婚の経緯を知っている彼女は色々心配してくれたのだろう。
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