第16話 蒼一の想い④





 頭上から、何やら変な音が聞こえたのが私の目覚ましだった。ぼんやりと目を開けたとき、体の痛みを覚える。同時に、普段見慣れている寝室とは違うことに気がついた。


 寝ぼけ眼のまま顔を上げてみれば、ベッドの上に座り両手で頬を包んでいる咲良と目が合った。そこでようやく思い出す。


 あのあと自分自身もささっと夕飯を食べ風呂に入った後、何度か咲良の部屋を訪ねて様子を見たり頭を冷やしてあげたりとしている間、そのまま自分も傍で眠っていたらしい。固い床の上で座ったまま寝ていたため体が痛むはずだ。


「あ……おはよ咲良ちゃん」


「そ、蒼一さん、ずっと付いててくれたんですか!?」


「ずっとっていうか……いつのまにか寝ちゃってたな」


 ほとんど咲良の寝顔に見惚れていたから、なんてことは口が裂けても言えない。そういえば手をずっと握ったまま寝てしまった気がするが、咲良に気づかれただろうか。


 咲良はあわあわと慌てながらベッドの上で頭を下げる。


「すみませんご迷惑を!」


「え? 全然迷惑じゃないよ。パーティーの疲れとか溜まってたんでしょう。熱はどうかな」


 私が差し出した右手を、咲良はのけぞって逃れた。すごい形相でいう。


「ダメですまだ顔も洗ってません!!」


「……ぶはっ。すごい表情」


「わわ、笑い事じゃないです! 体温計で測ります!!」


 私は笑いながら咲良を見ていた。恥ずかしそうにベッドの上でゴソゴソと動く様子が面白い。昨日と比べるにだいぶ体調はよさそうだった。


 彼女は熱のせいではなさそうな赤面した顔でチラチラと私を見る。


「私……寝言とか、いびきとか、大丈夫でしたか……」


「え? 大丈夫だよ、よだれくらい」


「ひぇ!」


「ごめんうそうそ」


「もう! やめてください!」


 必死に口元を拭く咲良にまた笑ってしまった。そんな時咲良が挟んでいた体温計が鳴る。取り出したのを覗いてみると、微熱ぐらいまでは下がっていた。


 咲良はほっとしたようにいう。


「よかった、だいぶ下がってます、蒼一さんありがとうございます。うつってないですか?」


「今のところ元気だよ」


「よかった。私ももう大丈夫」


「今日は僕は仕事休むから。朝食作ってくるね」


 立ち上がって体を伸ばした私を、彼女は驚いたように見上げた。


「え! おやすみですか? 私のせいですか?」


「違うよ。たまには有給使ってゆっくりしたいの。咲良ちゃんも一緒にゆっくりしよ」


「でも」


「まだ寝てなきゃだめだよ。あ、シャワーぐらい入ってくる? 朝食持ってくるから、この部屋で一緒に食べようか」


 私の提案におずおずと頷いた。微笑んでその光景を見た後、ようやく部屋を出る。自分も簡単に身だしなみを整え、キッチンで朝食を作る。


 まだ病み上がりなので和食にしよう、と簡単なものを用意する。咲良もその間、シャワーを浴びて着替えているようだった。水分や薬なども用意し、再び咲良の部屋へと向かっていく。


 一度ノックし声をかけた。


「咲良ちゃん、入っても大丈夫?」


「はい、大丈夫です」


 扉を開けるとふわりと石鹸の香りがした。前髪の一部を少し濡らした咲良が座っている。なぜか恥ずかしそうにしている彼女にどきりと胸を鳴らしながら、それでも平然を装って持ってきたものを机の上に置いた。


「食欲はあるかな?」


「昨日よりだいぶよくなったので」


「そっか、無理しないで食べれるものを食べよう」


 近くにあったドレッサーの椅子を引いてきて自分も腰掛ける。咲良はベッドにもたれたまま申し訳なさそうに頭を下げた。


「本当にご迷惑をおかけしてすみません、私」


「迷惑だなんて思わないで。こういう時は助け合いだよ、僕が寝込んだら咲良ちゃんによろしく頼むから」


「! も、もちろんです任せてください!」


 突然鼻息荒くして言った彼女に面食らいながらも笑う。


「勢いいいね」


「お、恩返しをせねばと思いまして!」


「鶴みたいだね」


「機織りはちょっと……」


「あはは、もうなんの話。さ、食べよう」


 二人で手を合わせて簡単な朝食を食べていく。咲良は言っていた通りだいぶ体調が戻ってきたようだった。私が用意したものをほとんど完食し、薬も水分もしっかりとっている。


「よかった、食べれてるね」


「はい、きっと明日にはよくなります」


「咲良ちゃんはこういう時一人で頑張ろうとするけど、頼ってもらったほうが嬉しいよ。夫婦なんだから」


 そう言った瞬間、しまったと思った。夫婦、なんて単語を軽々しく使った自分に呆れる。


 形だけの夫婦でいいとこちらから言ったくせに。パーティーに参加させたり、夫婦だからと説得したり。自分の言動が矛盾していることは十分に承知していた。


 都合がいいんだ。


 それでも、咲良は怒らずに優しく笑った。柔らかな笑みで、嬉しそうにさえ見えた。その表情に自分はほっとした。夫婦、と呼ばれて嫌がられるかもしれないと思ったからだ。


「完治するまでゆっくりするんだよ。無理して動いたらぶり返すから」


「はい、ありがとうございます」


 咲良は柔らかく笑って僕にお礼を言った。ついこちらの頬が緩んでしまうぐらいの優しい笑顔だった。









 翌日、咲良の体調はすっかり良くなったので私は出勤した。


 昨日はほとんど寝込んでいる咲良に時々飲み物などを差し入れしたりするだけの日で、自分自身ゆっくり過ごせたのはよかった。夜には彼女の熱は完全に下がり、今朝はすっかり元気そうに笑っていた。


 それでも無理しないようにだけ強く言い、会社に来て溜まった仕事をこなしている。


 一晩咲良のそばにいた自分だが、幸い風邪はうつってないようだった。それどころか、昨日休んでゆっくりしたせいか、かなり仕事が捗っていた。もしかしたら初めて咲良の役に立てたような気がして嬉しかったせいかもしれない。


 一日集中して仕事をこなし、時計を見ると思ったより早く片付いていた。咲良の体調もまだ心配なので、今日は早く帰ろう。そう思い帰る準備を行う。


 外はすでに暗くなっていた。私は周りの人に適当に挨拶を交わすと、すぐに席を立った。


 帰りに何か買って帰った方がいいだろうか。欲しいものなどがないか、スマホを取り出して咲良にメッセージを送ってみる。すぐに返ってきた。『ありがとうございます、大丈夫ですよ 気をつけてください』


 短い文に少し顔を緩ませながらエレベーターに乗り込む。一階に到着した箱から出、足を速めて進んでいく。


 こんなに家に早く帰りたいと思ったことはこれまでなかった。咲良と暮らし始めてからだ。家なんて、食事をして寝れればいいと思っていた。でも今は違う。私の帰る家には咲良が待っている。


 会社の正面玄関をくぐり抜ける。車が停めてある駐車場に向かおうとした時、背後から低い声が聞こえた。


「天海さん」


 振り返る。そこに立っていた青年を見て一瞬息が止まった。健康的な肌色に少しがっしりした体つき。短髪で端正な顔立ちをしているのは、あの日街中で咲良に紹介された北野蓮也という子だった。


 彼はまっすぐに私を見ている。


「あ、ああ、蓮也くん、だよね」


 戸惑いながらもなんとか声を出した。彼は以前会った時とは違い、丁寧に頭を下げた。


「こんばんは」


「こんばんは。どうしたの」


「あなたを待ってました」


 ごくりと唾を飲み込む。いや、そうだろうと思っていた。会社の目の前で会うだなんて、偶然ではないのは明白だ。彼は真剣な目で私を見ていた。そのまっすぐな瞳に見つめられるだけで息苦しくなるほどだった。


 私は平然を装って尋ねる。


「僕を? 待っててくれたの」


「はい、どうしても話したくて。どこの会社かは分かってたんで、ここで待ってれば会えるかなと」


 恐らくだいぶ長い時間待ち続けていたはずだ。その根性と執念に素直に感心しつつ、私は続ける。


「場所を変えようか」




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