第17話 蒼一の想い⑤
提案に、彼は素直に頷いた。困った挙句、私は近くにある喫茶店に彼と二人で入った。時間も時間だけに中は客人は少ない。一番奥の座席に腰掛け、適当にコーヒーを頼むと、改めて正面から青年をみる。
どこか緊張した、それでいて決意を固めたような表情。街で会った時とはどこか違った。さてどう話題を切り出そうか、と迷っていると、あちらから声を出してくれた。
「すみません突然」
「いや、別に。それでどうしたの、何か話したいことがあって来たんだよね?」
私がそう言うと、彼は一層まっすぐな目でこちらを見た。つい私がたじろいでしまいそうなほどの目だった。そして力強く、彼は言う。
「咲良を解放してあげてください」
予想していた通りの言葉に、それでも私は何も言えなかった。
分かっていた。彼が言うことを。あの日街中で会った時、私に向けられた敵意に満ちた目を忘れてはいない。綾乃の身代わりに咲良を嫁がせた私への憎しみが燃えていた。
運ばれてきたホットコーヒーをそのまま飲んだ。決して余裕があるわけではなく、むしろ自分を落ち着かせるために飲んだホットだった。
蓮也は続ける。
「聞きました。咲良の姉ちゃんが当日逃げて、政略結婚だったから穴を開けるわけにもいかなくて、それで咲良が立候補したこと」
「合ってるね」
「そして本当にそれが受け入れられてしまった。そのまま咲良はあなたの妻として今もいる」
「その通りだよ」
「家のためだと言っても、なんでそんなことができるんですか」
怒りの声がぶつけられる。私の返事も聞かず彼はなお続ける。
「咲良はあの性格ですから、自分からあなたに離婚なんて言い出せないです。だからあなたから解放してあげてくれませんか、それともこのまま一生咲良を縛り付けていくつもりですか?」
返す言葉が無かった。
ずっと年下の彼が言うことは正論だ。咲良が周りに気を使う子だと分かっていながら綾乃を逃した。案の定当日咲良は私の相手に立候補した。そのまま逃げることなく今に至る。
綾乃が見つかれば解放される。きっとそんな希望を持って今私のそばにいてくれる。形だけでも妻として努力してくれている。
そんな優しさにつけ込み、甘えている自分。
「会社とかの問題はあるでしょうけど。天海さんならきっと他に相手はいっぱいいるでしょう?」
「いない!」
自分の口から強い言葉が出た。
ずっと黙って聞いていたが、これだけは黙って聞いていられなかった。
違う相手なんて。私は結婚したいと思う相手は咲良しかいない。他の人間なんて、誰もいらないんだ。
私の剣幕に蓮也はやや驚いた顔をしたが、すぐにまた真顔になった。
「子供の頃からずっと婚約してた相手じゃなくて、当日その妹と結婚できるなら、誰とでも結婚できるじゃないですか」
「……咲良ちゃんとは幼い頃から知ってる仲だから。だからできた。彼女のいいところはよく知ってる」
「俺はずっと咲良のことが好きです」
キッパリと断言したセリフを聞いて固まった。目の前の青年は揺るぎのない目を私に向けている。
「昔からずっと。咲良が好きです」
「…………」
「いつか本人にも言おうと思ってました。それで振られたとしても別にいいんです。でも、姉の身代わりに無理矢理結婚したなんて話はどうしても納得できないんです!」
何かいおうとして、自分の口から漏れたのは空気だけだった。音は何もこぼれてはくれない。
誰かの前で堂々と咲良が好きだと言えるこの青年が羨ましかった。眩しくて、そして敵わないと思った。
私がずっと抱いてきた咲良への気持ちを漏らしたら? 本人に伝わったら? 綾乃と共謀していることがバレたら? 咲良は必ず失望し私から離れてしまう。
そんなことが恐ろしくて私は何も言えないんだ。七歳も離れた婚約者の妹をずっと好いていたなんて。そんなこと、誰が口に出来る?
彼のように咲良が好きなんだと正直に言えたならどれほど楽なんだろう。私も咲良と同級生だったら、綾乃と婚約してなかったら、なんて。言い訳ばかり並べるのは全て自分の弱さだと分かっている。
「……咲良ちゃんのこと、本当に好きなんだね」
「好きですよ。正直、異性の中で一番仲がいい自信はあります。ずっとそばで見てきました。あいつはちょっと人に気を遣いすぎるところがあります。そんな優しいところが不器用で、それでいていいところだとも思っています。
お願いしますから、なんとか咲良を解放することはできませんか」
懇願するように言い、彼は私に頭を下げた。短い髪が垂れているのを見て、私は情けなくも何も言葉が出なかった。コーヒーを啜って自分を落ち着かせることすらできない。
蓮也の正直さ。自分の情けなさ。それは頭を思い切りぶん殴られたかのような衝撃が私を襲った。
「……頭を上げて」
私の言葉に、蓮也がゆっくり顔をあげる。彼の目と合う。私はぐるぐる回る頭を必死に働かせ、彼に言う。
「咲良ちゃんには申し訳ないと思っている」
「なら」
「でも、これは僕たちの問題だ。もちろん蓮也くんの気持ちも分かるし怒りを持つのももっとも。
しかし、頼まれたからと言って僕からすぐ終わりにはできない。ゆっくり咲良ちゃんと色々話していかなきゃ」
私の言葉に彼は不服そうに口を強く閉じる。私はそれ以上、蓮也の目に見られることが辛くて耐えられなかった。すぐに伝票を手に取って立ち上がる。
「あの!」
「君の言いたいことはよく分かった。ありがとう。でも今すぐに返事はできない。これでも僕と咲良ちゃんは夫婦だから、ちゃんと二人で話し合って決めないといけないから」
早口にそれだけ言いすてると、私は彼の方をチラリとも見ずに背を向けた。伝票と共に財布から出した札を置いてお釣りも受け取らずそのままドアを開けて外に出た。もう真っ暗な中を、逃げるように歩いた。
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