第5話 蒼一の憂鬱③




 家に帰ると、ひょこっとリビングから咲良の顔が見えて頬が緩んだ。昨日よりは早く帰ってこれたためか、まだ眠そうな感じもない。


「ただいま」


「おかえりなさい!」


 彼女は笑顔で迎えてくれた。私がリビングに入ると、咲良が急いだ様子で食事を温め直してくれた。


「ごめん、ありがとう」


「いいえ!」


 そこでふと、テーブルの上にある食事が二人分だということに気がついた。時計を見上げればもう時刻は二十二時。驚いて咲良に問う。


「まだ咲良ちゃん食べてないの?」


「え、あ、はい」


「食べてて良いんだよ、こんな遅くまで待ってなくたって!」


 慌ててそう言った。まさか彼女が夕食を待ってくれているとは。今朝も食べててと念を押すべきだったか。

 

 だが咲良は柔らかく笑って言った。


「一人より、誰かと食べたかったんです。お腹すいて我慢できない時は食べておきますね」


 まるで子供のような、それでいてどこか女性らしいその笑い顔に、悔しいことに胸を鷲掴みにされたようだった。


 誰だ。彼女を地味だなんて言った奴は。確かに綾乃とはまるでタイプが違うが、これほど癒しのオーラを持った女性もいないだろうに。


 そんな自分の気持ちを隠すように俯き、とりあえず椅子に座る。


「遅くなることも多いから、そう言う時は本当に我慢しなくていいんだよ」


「はい、ありがとうございます」


 いくつか料理がテーブルの上に置かれる。私が幼い頃から家に来て料理してくれている山下さんの手料理だ。母の味より山下さんの味の方がずっと記憶に残っている。


 咲良と二人手を合わせて挨拶をし食事を始める。


 ちらりと視線を動かす。美味しそうにご飯を食べる様子に、頬が緩むのを自覚した。


「美味しいですね」


「そうだね」


「えっと、厚揚げとか……」


 一番隅に置かれた小鉢に入ったものを見る。私が好きなものだった。箸で一つつまみあげて食べると、慣れた味が舌の上に広がる。


「美味しいね。昔からこれが好きなんだよね」


 何気なく言うと、なぜか咲良はふわっと笑った。だが何も言わず、いそいそと食事を続けている。少し気になったが特に何も言わなかった。


 二人で沈黙のまま食事を続けた。でもそれが私にとってはとても居心地のいい時間だった。今度はもう少しゆっくり時間を取って夕食を取りたいと思った。


 もくもくと食事を続けて終盤に差し掛かった頃、私は思い出して咲良に言った。


「そうだ、今度の土曜日。咲良ちゃん何か予定ある?」


「え? 特にありませんが」


「ちょっと出かけない?」


 私がそう言うと、彼女はみるみる顔を明るくさせた。まるで動物園にいくと告げられた子供のようだった。


「はい、大丈夫です……!」


「よかった。映画とか、買い物でも。何か見たいものある?」


「ええと、調べてみます。蒼一さんは何かあります?」


「僕は基本何でも見るの好きだから。あ、ホラー以外でね」


「苦手なんですか」


「実はね」


 咲良が笑う。つられて自分も笑みをこぼしながら続けた。


「あとは生活用品も、咲良ちゃんが足りないなと思うもの揃えよう。食器とかも適当に揃えたもので種類少ないから」


「あ、はい!」


「そして、家具屋も」


「え? 家具、ですか?」


 キョトンとして不思議がる彼女に、私は告げた。


「ベッド。咲良ちゃんの分、買おう」


 今日一日考えていたことだった。


 実を言うとこの家のものを買い揃えた時、まだ綾乃とあの結婚式を企てる前だった。適当に買っておいたベッドで、まさかそこで咲良と寝ることになるとは思ってもみなかった。


 二日一緒に寝てみて、大変よくないとわかった。咲良は隣に私がいることでなかなか寝付けないようだし、私も同じだ。毎晩自分の理性と戦うのはかなり根気がいることで困る。


 部屋は余裕がある。そこを咲良の部屋にして、完全に別室にしたほうが気が楽になると思ったのだ。多分、咲良はほっとするに違いない。


 私たちは書類上だけの夫婦だ。そんな男女が一つの寝具で寝るのはおかしいのだから。


「空いてる部屋を咲良ちゃんの部屋にしよう。ベッド好きなやつ買えばいいからさ」


 グラスに入ったお茶を飲んで、正面の咲良の顔をみた。そこで意外なものを目にする。てっきり、安心して喜ぶかと思っていたのに、彼女の表情は翳っているように見えた。


 口を固く結び、眉を少し下げてじっと私をみている。


「咲良ちゃん?」


「……いや、私……別にこのままでもいいかなあ、って」


 困ったようにそう言った彼女に驚かされた。あんなに寝にくそうにしているのに、なぜそんなことを言うのか。


「いや、でも咲良ちゃんあまり寝れてないでしょ。一人の方がいいんじゃない」


「そ、れは、そうですけど」


「ああ、ベッド買うのに遠慮してるの? 全然大丈夫だよ、気にする必要ないよ」


 私は彼女に触れることはない、と初日に断言してるが、それでもきっと咲良は警戒しているんだとわかっている。それが当然の反応だと思う。安心感を得るには、もう部屋を分ける他ない。


 咲良は黙ってどこか一点を見つめていた。小さな口を開く。


「蒼一さんは、そうした方がいいですか……」


「え? まあ、そうだね……」


 ずっと想いを寄せてる女性が隣にいて触れないという苦痛は男にしかわからない。多分、今の私の立場は世界中の男性に賞賛されると思う。そりゃ幸せでもあるが、いつ自分の理性が吹っ飛ぶかわからない。


 咲良は少し考えたように黙り込んだが、次には笑って顔を上げた。


「分かりました、じゃあそうします! 新しいの買います」


「うん、だよね。そうしよう」


 ほっと安心して答えた。新しいものが来るまではなんとか耐え抜いて、届いたら寝るのは別にしよう。


 それがきっと、お互いのためでもある。


「ごちそうさま。僕お風呂入ってくるね」


「片付けはやります」


「ありがとう」


 食事を終えて、そのままリビングを出る。完全に同居人だけど、これが私の望んだ形なのだと思い知った。


 戸籍上だけの夫婦。無理矢理嫁がされた彼女。


 それでも、書類上だけでも、どうしても咲良を自分のものにしたかった自分の独占欲だ。







 風呂を出て少しゆっくりし日付が変わる頃、すでに寝室で休んでいた咲良の元へと移動した。


 薄暗くなった寝室で、彼女はもう横になっていた。私は静かにベッドサイドへ行き、そうっと布団をめくって自分の体を入れる。


 その時、ふわりと甘い香りが鼻についた。同じシャンプーを使っているはずなのに、それが咲良の香りだと気づいて苛立った。そんなことにすら戸惑いを覚える自分に、だ。


 無音でため息をつくと、早く寝てしまおうと枕に頭をおく。すると、てっきり寝ているのかと思っていた隣から咲良の声が聞こえたのだ。


「蒼一さん」


 寝起きなのだろうか、その声は掠れていた。


「どうしたの?」


「もし、お姉ちゃんが見つかったらどうしますか」


 暗闇の中で聞こえた言葉にどきりと胸が鳴った。


 綾乃が今どこにいるのかは自分ですら知らない。ただ定期的に彼女に資金を振り込む約束だけしている。あの電話以降連絡は取っていないし、何をしているのか分からない。


「どうしてそんなこと聞くの?」


「まだ、私の両親は必死にお姉ちゃんを探してますから……もし見つかったらどうするのかなって。蒼一さん、私との結婚をなしにしてお姉ちゃんと結婚しますか?」


 悲しげに聞こえたその声に、言葉が詰まった。


 ぐるぐると頭が混乱する。どう答えていいかわからなかったからだ。


 もしかして、と考える。咲良は綾乃さえ戻ってくれば、また自分が自由になれると夢見ているのだろうか? 子供の頃からの婚約者は綾乃なのだ、本来なら綾乃と私が結婚するのが正しい。


 どう答えるのが正解なんだ。言葉が出ない。


 もちろん自分の中でそれはありえないと思っている。でもそれは私個人の勝手な想いだ。咲良をそばに置いておきたいが故の感情。


「……さあ、どうだろう。綾乃は他に好きな人がいるって言っていたし」


「……そう、ですね」


「分からない。まあ、見つかってから考えればいいんじゃないかな」


 逃げのアンサー。情けなくてたまらなかった。


 婚約者の妹を、それも七歳も年下の咲良をずっと想っていたなんて、言えるわけがない。言ったところで咲良を困らせるのは目に見えている。きっとそこそこ良好なこの関係すら崩れる。


 綾乃が戻れば自由になれる——そんな夢を持っている咲良の期待を壊すことも、できない。


「……咲良ちゃんは」


「え?」


「こんな形で僕と結婚してしまったけど。やっぱり、好きな子とかいたんじゃないの?」


 聞かなくてもいいことをなぜ聞くのか。自分で聞いて呆れた。いないです、と言われれば安心するからだ。

 

 少し闇に目が慣れてきた。咲良はあちらを向いたままで後頭部しか見えない。彼女が今どんな顔をしているのか。


「好きな人は、 

 います」


 そうキッパリと言い切った言葉を聞いて、私の頭の中は停止した。


 正直なところ、予想外の言葉だった。いや、彼女の年齢を考えてもそりゃ好きな異性ぐらいいて当然だ。けれど『いました』ではなく、『います』という言葉は私に絶望を与えた。


 現在進行形。そういうことだ。


 今更ながら、自分が犯した罪の大きさに後悔し吐きそうになった。わかっていたはずだ、咲良の人生を狂わせたのは自分だと。でも改めてそれを突きつけられ、私はどうしていいのか分からなくなった。


 彼女の心の中には他の男がいる。


「……ごめん」


「蒼一さんが謝ることじゃないんです」


「いや、僕のせいだ。ごめん」


 暗闇に小さな謝罪の声が消えていった。咲良はそれ以上何も返さなかった。




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