第1話 咲良の憂鬱①
朝目が覚めた時、隣のベッドが空っぽになっていることに気がついた。
はっとして時計を見る。今朝は早起きして蒼一さんに朝食を作ろうと張り切っていたと言うのに、予定していた起床時間はとっくに過ぎていた。私は飛び上がってベッドから降りる。
寝室のドアを開けると、いい匂いがほのかに鼻についた。もしやと思い、急いでキッチンへ走っていく。
「あ、咲良ちゃん、おはよう」
やはりそこには、蒼一さんが笑って立っていた。ダイニングテーブルには朝食が置かれている。トーストにサラダや目玉焼き。知らなかった、蒼一さんって料理もできるんだ。
……ってそうじゃない! 私は一気に青ざめた。
「ご、ごめんなさい私寝坊して……! 朝食を作ろうと思っていたのに!」
形だけとはいえ嫁いだ身。それなのに、引っ越して早々寝坊し夫に調理させるだなんて。蒼一さんはもう今日から会社の勤めがある。そんな人に何をさせているんだろう私は!
彼はあははっと柔らかく笑った。
「昨日引っ越してきて疲れてるのは咲良ちゃんでしょ。今日は洋食にしちゃったけど、和食派だったかな?」
「い、いえ、どちらでも!」
「そう? 僕もどっちでもいいんだよね。冷めないうちに食べようか、顔洗っておいで」
そう言われ、まだ顔すら洗っていない状態で駆け込んでしまったことを恥ずかしく思う。私はなんとか頷くと、そのまま急いで洗面室へ向かった。
見知らぬ廊下を走り、見知らぬ洗面室で顔を洗う。違和感だらけだった。私は昨日初めてこの家に来たばかりで、家の作りすらうまく把握できていない。蒼一さんは私よりしばらく前から住んでいるらしいし、彼の家の離れなので私よりはわかっているだろう。
急いで簡単に身支度を整えると、蒼一さんが待っているリビングへ戻った。彼は食事を始めることなく私を待ってくれていた。こちらを見て優しく笑う。
その優しさだけでできているような笑顔にときめくと同時に、昨晩本当にただ隣で寝ただけで終わってしまったことを思い出した。一応結婚した男女が、同じベッドで寝てただ睡眠をとった、だなんて。
「食べようか」
言われてハッとする。慌てて彼の前に座り込んだ。
「すみません、私がやらなきゃいけないのに」
「いいんだって。はいいただきます」
手を合わせて丁寧に挨拶する彼の美しさに一瞬見惚れながら私も倣った。少し冷めてしまった朝食を口に運ぶ。まさか朝から蒼一さんの手料理を食べる日が来るだなんて。
ちらりと前を見れば、彼は何も意識していないようで涼しい顔してパンを食べていた。格好はすでにスーツを着ている。白いシャツが眩しいほどだった。私はすっぴんでパジャマだというのに。
「お、美味しいです」
「そう? よかった」
「蒼一さん料理も上手なんですね」
「やだな、目玉焼きぐらいで料理って」
目を細めて彼は笑った。何となくほっとして食事を進める。なんか変な感じだな、蒼一さんと二人きりで食事をするなんて。
「まだ咲良ちゃんは荷物片付け切れてないでしょ? 今日ゆっくりやればいいから」
「は、はい」
「もし僕の母とか来ても出なくていいから。今日は咲良ちゃんがゆっくりすること」
「は、はい……」
蒼一さんのお母様には昨日挨拶だけした。どこか冷たい視線で見られているのに気がついていた。蒼一さんがうまく場を切り上げてくれて少しの時間だったけれど、あれがお母様と二人きりとなれば辛すぎる。
私はきっと天海家の嫁として相応しくないって思われているんだろうなあ……。
「あ! あの蒼一さん、夕飯は何か食べたいものとかありますか? 私そんなに料理上手くないけど、それくらい……」
私が尋ねると、彼は少しだけ眉を下げた。サラダを食べながらいう。
「無理しなくていいよ。そうだ、うちの家政婦できてる人に、夕方あたりこっちにも来てもらうように言っておくよ。料理はその人に任せればいい。夕飯はそうしていこう」
「え、でも……」
「無理に働こうとしなくていいよ。咲良ちゃんは別に家にいるだけでいいから」
柔らかな声で言ったその言葉に、私はただ打ちひしがれた。
それはつまり、妻としてなんて何も動かなくていい。ただお飾りとしてそこにいればいい。
そういう、こと。
パンを持っている手が震える。わかっていたんだ、書類上だけ夫婦になったけど、私たちはまるで他人だってこと。家族になんてなれるはずがない。
「咲良ちゃんは自由にしてていいんだよ。やりたいことをやればいい。まだ若いんだし、友達と遊んだり買い物をしたり習い事をしたり。何でもしていいから」
「……はい」
「カードを渡しておくから好きなものは何でも買い揃えておいで。新生活で必要なものだってあるだろうから」
そう言って蒼一さんはカードをテーブルの上に置いた。私はそれをただぼんやりと眺め、もう喉を通りそうにないパンを持ったまま固まった。
「僕は今日残業があるから、帰り遅くなると思うから」
「……はい」
「先寝ててね」
そういうと、いつのまにか食べ終わっていた蒼一さんは食器をキッチンまで運んでその場から立ち去った。私はまだほとんど残っている食材を見つめながら虚しさに溺れる。
美味しい食事、好きな人と向かい合う朝。状況的には最高に幸せなのに、心の中には侘しさしか残らないよ。
これじゃ夫婦じゃなくて、同居人みたい。
お姉ちゃんのことが好きな蒼一さんが、すぐに他の女と夫婦になる方が難しいとは思う。それは彼の誠実さを物語っているとも言える。
でもそれでも……それにしても……
「じゃあ咲良ちゃん。僕行ってくるから、ゆっくりしててね」
「あ! は、はいいってらっしゃい!」
蒼一さんは軽く手を振ると、そのまま玄関へと向かっていった。追いかけて玄関まで送ろうかと一瞬思ったが、きっと彼は断るだろうなと思ってやめた。
遠くで鍵を施錠する音が聞こえる。ああ、出ていったんだな、とぼんやり思った。
もう冷めた食事たちを、私は一人食べた。先に寝てていいってことは、夕飯も一緒には食べないんだろう。
「……寂しい、なあ……」
自分の小声が、小さく響いた。
一通り部屋の掃除などを終えた私は、それでもたっぷり時間が余ってしまったため、一旦外へと外出した。蒼一さんがくれたカードで買い物をする気なんてなかったが、見知らぬ家で一人過ごすのはどうしても気が引けたのだ。
天海家からこっそり出た私は、いくあてもないまま歩き出した。実家に帰るのもしたくない。私と蒼一さんの結婚を、お母さんは後悔してるようで、お父さんと未だよく喧嘩しているのだ。母から見れば、姉の身代わりにさせられた可哀想な妹、になっているんだろう。
空は晴れて真っ白な雲がわたあめみたいで美味しそうに見えた。肌寒い春の風は、心地いいけど一人で感じるには辛い。
妻としても中途半端で、一体これからどうやって過ごしていけばいいのかわからなかった。夕飯すら作る役割もない。……だが今思えば、私は料理は得意じゃないから正解だったのかも。微妙な料理を蒼一さんに食べさせるの気が引ける。
お姉ちゃんならなあ。料理もぱぱっとできるのになあ。
蒼一さんの元へ嫁ぐことが決まっていたお姉ちゃんは、料理教室とかも習わされてしっかり花嫁修行していた。私はといえば、「いい相手ができたら通えばいいわよね」とか母に言われて何もしていなかった。おかげさまで腕前は微妙なものである。
せめて。美味しいご飯を作れるようになれば……借りたカードで料理教室の予約でもしようかな。
一人ぼんやりと散歩していた時だった。
「咲良?」
聞き慣れた声がして振り返る。短髪の黒髪、日に焼けた肌は健康的だ。がっしりした肩幅に高い身長は目を引く。立っていたのは友人の北野蓮也だった。
蓮也は私と中学の頃からの友人だった。高校、大学と一緒で、腐れ縁とも言える。スポーツが万能で、話すとちょっとアホっぽいけどとてもいい友人だ。異性の友達なんてほとんどいない私の、唯一の友達だった。
「蓮也! 偶然だね!」
私は笑顔で名前を呼んだが、彼は険しい顔をしていた。つかつかとこちらに歩み寄ってくる。その気迫に、ちょっと後ずさってしまった。
蓮也は厳しい表情で私に言った。
「なんかすげー噂聞いたんだけど」
「え?」
「咲良が結婚したって」
確信をついたことを言われておしだまってしまった。
自分が姉の代わりに結婚したことを、友人の誰かに伝えることはできなかった。落ち着いたらいつか話そう、というくらいで、この結婚はまだ私の胸に秘めていた。
姉の代わりに結婚しただなんて……なかなか説明できることじゃないからだ。
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