序章
「だ、大丈夫、かな……」
肌触りのいいシルクのパジャマに袖を通し、私はベッドに腰掛けて一人震えていた。
無事式は終わり、その後も姉のことでバタバタと忙しい時間を過ごした。結局姉の行方はわからないままだ。蒼一さんのご両親にもお詫びし私について改めて挨拶をした。
ご両親はいい顔をしなかった。本来ならば嫁いで来るはずの娘は逃げ出し、その妹の、しかも二十二という小娘が嫁にくるなど不快に思っても仕方ないと思う。
特に蒼一さんのお母様は、姉をすごく気に入っていた。彼女の視線は冷たいものに感じた。
それでも、やはり両家のために結婚を白紙にはしなかった。あれだけ盛大な式をあげてしまったのだから当然とも言える。
あれよあれよと慌ただしい時間を過ごし、私は今日ようやく蒼一さんとの新しい生活を始めようとしていた。
式以降、彼と会話を交わしてはいなかった。交わす時間がなかったと表現するのが正しいかもしれない。
蒼一さんはいつでも私を心配そうに見つめ、しかしすぐに苦しそうに視線を落とした。結婚相手が逃げ出したなんて、そうそう簡単に立ち直れるわけがない。
それに私は知っていた。
蒼一さんは、昔から本当にお姉ちゃんを好きだったということ。
彼はお姉ちゃんと一緒にいると、まるで少年のように笑う。楽しそうで、子供っぽくて、それは私の前では決して見せてくれない顔だった。きっとお姉ちゃんに本当に心を許していたんだと思う。
だから彼が落ち込んでしまうのは無理もなかったのだ。私に掛ける言葉など見当たらない。
……それでも。蒼一さんの気持ちをしっていながらでも、私はあなたと結婚したかった。
お姉ちゃんがいつもいるあなたの隣の席が、欲しかった。
私がこんなことを内心思っているなんて、あなたが知ったら幻滅するだろうか。
「お、落ち着いて……深呼吸……」
蒼一さんの実家のすぐそばにある離れが、私たちの新しい家になった。落ち着いたらいずれ新居を構えるつもりだったらしい。とりあえずはしばらくここで過ごすとのことだった。
そんな場所へ越してきたのが今日の朝。荷物をまとめ、整理しなんとか1日を終えた私に訪れたのは、彼と過ごす初めての夜だった。
ずっと蒼一さんに片想いをしてきた自分はもちろん誰とも付き合ったことがなく、手すら握ったことがない。あ、学校のフォークダンスくらいかも。
それでも紛れもなく夫婦になったのだから、こうなることは当たり前だと覚悟していた。いや、覚悟だなんて。どんな形でも、ずっと好きだった人とこうなることは幸せなことなのだ。
広々とした風呂に浸かり念入りに体を磨いた。緊張で震える手を懸命に抑えながら、寝室へと辿り着き今にいたる。
自分が腰掛けている真っ白なシーツのベッドを触る。ここで毎日、蒼一さんと二人で眠るんだ。
……いけない! 恥ずかしさで顔を覆う。
叶うはずもないと思っていた片思いの相手と急にこんなことになって、パニックもいいところだった。こんなことなら、もっとダイエットを頑張っておくべきだったのでは? 腹筋とか、スクワットとか! 胸はどうしようもない、手遅れだ。
爆発しそうな頭で悶えている時、突然寝室の扉が開かれた。ビクッと反応する。
蒼一さんだった。風呂上がりの髪はまだ完全に乾いていないのか、ややしめっているように見える。彼は私を見、優しく笑った。その温かな顔を見ただけで、胸が苦しいほどに鳴ってしまう。
「まだ起きていたの、寝ててよかったのに」
彼はそう笑った。サラリと言われたその言葉をきき、戸惑いを覚える。
だって、そんな。先に寝てるだなんて、そんなこと、できっこない。
「い、いいえ……そんなことできないです」
「…………」
俯いて言った私の隣に彼は腰掛けた。ベッドのスプリングが揺れる。再び心臓がうるさいほどに高鳴る。緊張で横にいる蒼一さんの顔を見上げることが出来なかった。
どうすればいいのだろう、いや、待ってるしかできない。蒼一さんから……
「……ごめんね、こんなことになって」
ポツンと言った声が聞こえる。はっとして顔を上げた。
蒼一さんは寂しげに微笑んでいた。それは見ているこちらが苦しくなってしまうほどで、彼が何に対して謝っているのだろうと戸惑う。
「え?」
「まだ二十二の咲良ちゃんが、年の離れた僕と結婚することになるだなんて。あの時、お互いの家のことを考えて君が立候補したのはとても勇気がいったと思う」
「そんな、私」
「安心して。僕たちは形だけの夫婦でいいんだよ。無理に咲良ちゃんに触ったりなんかしない。だからそんなに緊張しなくていい」
心が、止まった。
優しいと見えて残酷な言葉を吐く。私は息をするのすら忘れて蒼一さんを見つめた。
彼は大丈夫だよ、とばかりに私の頭を撫でた。子供の頃からよくそう可愛がってくれて、その行為が今まではとても好きだったのに、今はただただ悲しい行為に思えた。結婚相手にではなく、それは妹に対して行う行為だ。
胸にぽっかり穴が空いたような感覚に包まれる。全身が重く、心が痛い。緊張で熱くなっていた体は急に冷え込んだように感じた。
結婚したのに、私は彼に触れては貰えない。
やっぱり彼は私を妹としか見ていないんだ。痛感させられる。こんな子供っぽい私なんて、彼には何の魅力もないのだろう。それにきっと、この人の胸の中にはまだお姉ちゃんがいるから。
目に涙が浮かぶ。あなたの胸の中にお姉ちゃんがいたとしても、それでも側にいたかったとなぜ言えないのだろう。お姉ちゃんの代わりでもいいからどうかちゃんと夫婦になりたい、とどうして言えないんだろう。
それはこの気持ちが蒼一さんに知られて拒絶されるのが怖いから。
涙を流した私を見て、彼は笑った。私が安心して涙したと勘違いしているようだった。
「形だけの夫婦でいい。咲良ちゃんは好きにやっていけばいいんだから」
「わ、たし……」
「君はまだ若くて素敵な子だから。なのに、こんな形になってごめんね」
苦しそうに何度も何度も蒼一さんは私に謝った。謝る必要なんてないのに、繰り返す。
「大丈夫だから。咲良ちゃんは何も心配しないでね」
その広い胸に飛び込んで行けたらどれほど楽だろうか。
あなたがどうしても欲しかった。でも、形だけの夫婦となっても心も体も手に入らない。
彼のために磨き抜いた肌は虚しく、どこか寒く感じた。一人緊張してドキドキしながら座っていたこのベッドもひどく滑稽に思える。
私たちは書類上だけの夫婦となったのだ。
夜も更けて、外には満月が出ていた。
時刻はとっくに日付が変わっている。眠れない目を開き隣を見れば、気持ちよさそうな寝息が聞こえた。
まだ幼さの残る女性は、つい先ほどまで眠れないとばかりに寝返りを繰り返していたが、ようやく眠りについたらしい。男と同じベッドで寝るだなんて緊張でなかなか寝付けなかったのだろう。
私は起こさないようにゆっくり上半身を起こし、その安らかな寝顔を見て微笑んだ。子供の頃から変わらない顔立ちに、懐かしさを覚えた。
突然の展開で私の妻となり、今日こちらへ嫁入りした。先日大学を卒業したばかりの彼女は、緊張した面持ちでうちに入り、夜はガチガチに固まってベッドの上で私を迎えた。
その姿を見て胸が痛んだ。ああ、好きでもない男に抱かれることに酷く緊張していたのだなと嫌でも感づく。
元々優しく周りに気を遣う彼女だったが、自分の家と姉のために結婚を立候補するだなんて、勇気のいることだったろう。
ふと隣を見ると、音を切っていた私のスマートフォンが光っていた。それをそっと手に取り、ベッドから降りる。すやすやと眠っている顔を今一度確認し、私は寝室から出た。
そのまま玄関まで向かい、さらに外へ出た。やや冷える肌寒い夜だったが、そんなことすら気にならなかった。
握りしめた電話を片手に庭へ出、満月の下にある木陰にもたれかかる。
機器を操作し、耳に当てる。先ほどこちらに電話をかけてきていた相手は、すぐに反応した。
『もしもし? ごめん、寝てた?』
聞き覚えのある声が耳に届く。私は小さくため息をついて答えた。
「起きていたよ。寝れるわけもない」
『初夜だったものね』
「くだらないことを言うな。
綾乃」
私の元・婚約者だった。
電話を持つ手に力が入る。
あたりに人がいないことを今一度確認した。こんな真夜中の庭に人などいないのは当たり前だと言うのに、私は目を光らせて何度も見る。
風が吹いて木々が揺れ葉が擦れる。自分の髪も巻き上がり、その先端が目に入り鬱陶しく髪をかき上げた。
先ほど隣で寝ていた咲良の顔を思い出す。
『ね? あの子、ちゃんと式の日立候補したでしょ?』
勝ち誇ったように綾乃が言う。私は答えなかった。
耳に入る幼馴染の声み身を任せるように、幹の太い木に更に体を預ける。背中に冷たい感覚が広がった。
「……それは想定内だった」
『晴れてあの子を妻に出来たってわけ。作戦大成功ね』
「綾乃」
『楽しい新婚生活の始まりね』
自分と綾乃はとても気の合う二人だった。ただそれは、本当に友人として仲がよかっただけだ。
性別も違い、年も三つ離れていたというのに、彼女とはただ虫を捕まえて遊んだり、流行りのゲームをしたりしてはしゃぐだけの関係だったのだ。
こんなものかと思っていた。婚約者との関係など。幼い頃からずっとそばにいれば、今更恋愛感情など湧いてこないのだと。
そんな私を覆したのは、まさかの婚約者の妹だった。
無論、はじめはただの妹としか見ていなかった。おぼつかない足で私たちの後ろを追い、姉と違って怖がりで慎重な彼女の面倒を見ているだけの日々。
それでも、成長を重ねるにつれて咲良の美しさは増していった。
咲良はとにかく優しい子だった。いつでも周りに気を遣い、そのせいで自分を蔑ろにしてしまうほど。私はその優しい彼女の性格に惹かれていたのだ。
無邪気に笑う顔を見て、どんどん伸びる背や大人びていく表情をみて、自分が綾乃には抱いていない気持ちを持っていると気づいた時は愕然とした。
婚約者の妹を愛するなど。その上、咲良は私よりも七つも年下なのに。
ただ面倒見のいい兄を演じ続け、秘めた想いを抱えていた。そんな頃、ついに綾乃との結婚話が具体的に持ち上がってしまった。
叶うはずのない気持ちの行き場はなかった。私は苦しみ、愚かな自分に辟易していた。
『あのさ、私、結婚式行かない方がいいんじゃない?』
綾乃が突然そんなことを言い出した日、目を丸くして彼女を見た。どこか妖艶な表情で、綾乃は笑った。
『気づかないわけないでしょう? 何年蒼一の隣にいると思ってるの』
『綾乃』
『私別に結婚するのはいいんだけどさ、あの固いお家には愛想尽かしているの。家から解放されたいってずっと思ってた。正直、蒼一は好きだけど異性としてじゃないし。どう思う? 私、結婚式行かない方がいいんじゃない?』
意味深に笑う彼女を見て、自分の胸が大きく鳴り響いた。
もし、綾乃が当日来なければ。
優しく周りに気を遣う咲良が、私の結婚相手に立候補する可能性は非常に高いと思っていた。破談になれば両家が大きな損害を被るからだ。おそらくほぼ間違いなくそうなるだろう。
そこまで考えて額に汗をかく。
咲良が私の妻になる? ずっと昔から秘めた想いを抱いてきた相手が、私の妻に?
それは喜びと同時にひどく良心を痛めた。好きでもない男と、しかも七つも年上の男と結婚させられる彼女の立場を思うと哀れでならなかったからだ。
ただ、それでも。
咲良がいつか他の男の元へ嫁ぐ姿を想像した瞬間、自分の良心は打ち砕かれた。私は自分のエゴで、綾乃と共謀し咲良が妻になるように仕向けた。ただただ、愛する女性をそばにおきたいというだけの身勝手な愛だけで、動いたのだ。
綾乃は電話口で笑う。その笑い声は、子供の頃から聴き慣れている声だ。
彼女は物心がついた頃から婚約者だと親に紹介された幼馴染だ。時間があれば互いの家に行き来をする仲で、幸運なことにとても気の合う女性だった。
いつも明るく眩しく、どこか奔放な性格をしていて、妹とは正反対と言える。
「それで、どうした。綾乃と連絡を取ってるなどと周りにバレると厄介だから連絡はなるべく控えてほしい」
結婚式を逃げ出した彼女は、その後も消息が掴めない存在だった。それでも、彼女の両親は未だ血眼になってその行方を追っている。
『いや、咲良とどうなったかなあって心配になっちゃって』
「大きなお世話」
私がぶっきらぼうに答えると、綾乃は意地悪く囁いた。
『そんな口聞いていいの?
あんたの報われない想いを叶えてやったのに』
私は一つ大きなため息を漏らした。
「新婚、だなんて形だけだ。こんな形で無理矢理嫁がされた彼女に、触れられると思うか」
『え? 何もしてないの?』
「するつもりもない。ただ、隣で寝ているというだけでいい」
罪悪感に押しつぶされそうな胸を押さえた。あの肌に触れられたらどれほどいいか。そんな資格は自分にはない。
手を緊張で震わせながら体を小さくしてる人にどうして触れることができるか。そんな立場にしたのは紛れもなく私だというのに。
『……あら、結構鈍いのね蒼一』
「え?」
『んーん、まあいいや。結婚したんだからあとは二人に任せるよー。私は楽しくやってくから、振り込みお願いね』
「分かってる」
短く答えて電話を切った。それをポケットに仕舞い込み、ため息をついて空を見上げた。
心やさしいお兄ちゃん、と咲良に思われているだろうに、そんなお兄ちゃんがこんなことを裏でしていると知ったら彼女はどんな顔をするだろう。
どんな手を使ってでも君をそばに置きたかった。他の誰かに渡したくなかった。
でも、形だけの夫婦となっても心も体も手に入らない。
好きな人を妻に出来た喜びと、自分の犯した罪の重さ。あの子の人生を狂わせてしまったのは紛れもなく私だ。
こんな黒い感情が自分にあるだなんて思わなかった。咲良、ごめん。君をどうしても誰にも渡したくなかったんだ。
許して欲しいとは言わない。愛してほしいとも言わない。
ただ、私のそばにいてほしい。
秘めた二つの恋心。
すれ違う男と女。
知るのは輝く満月のみ。
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