片想い婚
橘しづき
序章
私の初恋は、姉の婚約者だった。
祖父の代から続く会社を経営するうちの家の長女だった姉には、生まれた時から婚約者が存在していたという。それは私たちのおじいちゃんが昔から親しくしていた友人と交わした約束。
『お互いの孫たちを結婚させ、家をさらに大きいものとしよう』
どうやらその友人とやらもうちと同じような規模の会社経営で、おじいちゃんたちはお互い助け合いながら辛い時も乗り越えてきたらしい。それが天海家と、藤田家だった。
簡単な口約束だったそうだが、それは長いこと固く守られていた。なんせ確かにその二つの家が結ばれればお互いに利益しかもたらされない。だから私の母も父も、その約束をずっと守ってきた。
小さな姉とその婚約者には『将来の結婚相手だよ』と紹介し合い、仲良くなるように遊ばせた。姉と彼は三歳年が離れていたが、幸運なことに二人とも気が合って楽しく遊んでいたらしい。
姉と四歳の離れた私が物心ついた頃には、天海蒼一さん———つまりは義兄となるはずの人は当然のように家に遊びにきていた。いつも姉と仲良さそうに笑いながら過ごし、私はただその背中を必死に追いかけた。
姉は華やかで明るく、臆病な私とは正反対の人だった。二人はとってもお似合いのカップルだと思っている。
蒼一さんは優しい人だった。そして文句の付け所がないほど綺麗な人だった。
幼い私にいつでも気遣って声をかけ面倒を見てくれた。おやつを分け、女向けのおもちゃで長く相手をし、屈託のない笑顔で私を見てくれていた。
成長した後も彼は美しさと優しさを失わずむしろ増していくばかり。陶器のように白く美しい肌に色素の薄い瞳、長い睫毛。異国の血が入っていそうなほど儚く綺麗な蒼一さんは私の憧れだった。
頭がよく、特に数学をよく私に教えてくれた。本当はわかる数学の方程式も、蒼一さんに質問したいがためにわからないふりをして何度も尋ねた。
物心ついた頃から、彼は私にとって特別な人だった。姉の婚約者でも、そう思う気持ちに歯止めは効かない。
私は彼がすきだった。ずっとずっと、彼が好きだった。
でも昔から決められていた姉と蒼一さんの結婚は今更なかったことにはならなかった。私が丁度大学を卒業した時、とうとう二人の結婚話が具体的になってしまった。
愚かな恋、悲しい片想い。
「おめでとう、お姉ちゃん、蒼一さん」
張り付いた笑顔で祝いの言葉を述べる練習を鏡の前で繰り返し、何度も泣いた。こうなることはずっと前から分かっていたのに。蒼一さんはもう二十九の年だ、こんな歳の離れた私を妹としか見えていないことだって承知していたのに。
いつか彼が私を見てくれることを夢見ていた馬鹿な自分に辟易していた。
「綾乃はどこへ行ったの? もうこんな時間なのよ! 咲良、知らない!?」
母が鬼のような形相で私に尋ねた。綾乃とは、本日結婚式を挙げるはずの私の姉だった。本来ならばとっくにお姉ちゃんはドレスに着替え、化粧も施し式に向けて準備を整えている時刻だったのだ。
それが音沙汰なく約束の時刻はとっくに過ぎ去った。うちの家はみんな大慌ててで姉を探し回っていた。
会場にはお互いの両親たちがここぞとばかりに呼んだ有名な人々が顔を揃えていた。青ざめた顔で両親は走り回っている。
実際、姉がなぜここにいないのか見当もつかなかった。昨日の夜は普通通り過ごし、笑顔で私におやすみなさいを言った彼女は一体どこへ行ったというのか。
お母さんが唇を震わせながら言った。
「まさか、何か誘拐か、事故でも……!」
その言葉に周囲が凍りついた瞬間だった。控え室のノックの音が響き渡った。
誰かが返事をする前にその扉が開かれる。
「……あ、蒼一さん……」
私の声が漏れる。すでに正装していた蒼一さんだった。こんな状況だというのに、その美しさと凛々しさに一瞬見惚れてしまう。
彼はどこか神妙な顔立ちで私たちを見据えた。
「今先ほど、私の携帯に綾乃から連絡が来ました」
「な。なんて?」
お母さんが悟さんに飛びつくようにして尋ねる。蒼一さんの目がすっと細くなった。長い睫毛が揺れる。
「……
『他に好きな人がいる、結婚式はごめんなさい』」
お母さんの悲鳴に近い声が響き渡った。お父さんは倒れ込むように近くの椅子にどしんと座り込む。二人とも青ざめて死人のような顔色になっていた。
私はただ愕然として動けなくなってしまった。
まさか。お姉ちゃんが、逃げた??
信じられない出来事だった。いつだって明るくて優しくて、蒼一さんにも文句を言ったことがない人なのに。他に好きな人だなんて、聞いたこともないし感じたことだってない。
ワナワナと震えるお母さんが両手で顔を覆いながらいう。
「そんな……! どれだけの招待客がいると思っているの、まさか娘が逃げ出しましたなんて言えるわけがない……!」
「……でも綾乃がいないのでは正直に言ってお帰りいただくしかない」
「そんなことできるわけがない!! どうするの、あなた、どうするのよ!」
両親の声が控え室に響き渡った。厳しい声で言い争いが始まる。辛そうに、蒼一さんが視線を下ろした。
その光景に胸が詰まる。花嫁に逃げらた、だなんて。蒼一さんは素敵な人で彼に非は何もない。
心が痛む。だがそれと同時に、自分の中に言いようのない不思議な感情が生まれた。邪で、恥ずかしくて、どこか嬉しさを混ぜたような心。
こんな時なのに。
私という醜い心は、
喜んでいるのだ。
「私が……蒼一さんと結婚します」
気がつけば自分の喉から漏れていた言葉に、自分で驚いた。
周りの視線が私に集まる。そこには、茶色の瞳を持った蒼一さんのものもあった。私はつい俯く。
「いや、あの……蒼一さんが、よければ、ですけど……」
今更おこがましいと感じ小声で言った。太陽のような姉と比べ、私なんて妹としか思われていないはずなのに、蒼一さんが許可するのだろうか。
長い沈黙が流れた後、お父さんがいう。
「そ、そうだ……キャンセルしてお客様を帰すよりマシだ、会場の名前を急いで変更させて……!」
「待ってください、咲良はまだ二十二で、大学卒業したばかりですよ!」
「でも成人している、両家を結ばせれば結婚なんて誰でもいいんだ。咲良でも、綾乃でも!」
「あなた、そんな言い方……」
「咲良、いいのか? 蒼一くんは?」
額に汗を浮かべたお父さんの気迫に押されながら、私はなんとか頷いた。恐る恐る蒼一さんを見る。彼は苦しそうな表情をしながらも、頷いた。
「咲良ちゃんがいいならば……」
お互いの家のことを考えれば、蒼一さんだってそう言うしかない。
その言葉に、場は慌ただしく一気に動き出した。私はスタッフや母に連れられ化粧だの髪のセットなどを行った。幸い姉とは体型が似ていたので、衣装はピッタリ着ることができた。母は私の準備を手伝いながら、何度も何度も私に謝った。
会場にある姉の名前は式場のスタッフが急いで変更し、その様子に気づいた来賓者は訝しげに思う者もいたようだった。招待状はすでに姉の名前で発送されていたので、突然私の名前に変わったことに気がつかないわけがない。
数多くのスタッフに囲まれ、私も最短で支度を仕上げる。その日姉が着るはずだったドレスに腕を通し、髪を結った自分を鏡で見れば、どこか違和感を感じた。どちらかといえば童顔な私に、姉が選んだドレスは合わない気がしたのだ。
気がつけば、背後に蒼一さんが立っていた。びくりと反応し振り返る。
「あ、の、蒼一さん……私……」
「本当にいいの、咲良ちゃんの気持ちは」
「は、はい」
だって、私の初恋の人はあなたなんです、ずっと好きだったんです。
……そんなことをこの場で言えるはずもなく、私はただ必死に頷いた。蒼一さんが無言で手を差し出してくれる。
大きく綺麗な肌をした手のひらに、そっと自分の手を乗せた。
どこかひんやりした手のひらに、私の指先が包まれる。
「無理、しないで」
「は、はい」
「行けますか」
「は、はい!」
その手を握っただけで、私は幸福感に満たされた。ずっと見つめ続けていた人が、私の隣にいてくれている。絶対に叶わない夢だったはずなのに、今現実に起こっている。
姉と結婚するはずだった婚約者はその日、
私の夫となった。
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