第2話 咲良の憂鬱②

 それでも、どこからか噂が回っているらしい。それもそうだ、あれだけ大きな式で当日花嫁の名前が変わっただなんて珍しいエピソード、勝手に噂は回っていくだろう。


「咲良に連絡しても全然返ってこないし」


「あ、ごめん、最近忙しくてそれどころじゃなかったっていうか……」


 蒼一さんとの新生活の準備や私のパニックで、友人からの連絡は目を通してもいなかった。そんな余裕なかったのだ。


 私は俯いて少し笑った。


「あーうん、そうなんだよね実は」


「は、はあ? なんで。だってお前結婚するなんて一言も」


「急に決まったの。その、本当はお姉ちゃんが結婚するはずだったから」


 私は正直に蓮也に伝えた。隠してもしょうがないことだし、彼は長い付き合いのいい友人。周りから伝わるよりは私の口から真実を伝えたいと思ったのだ。


 蓮也は目を見開いて停止した。瞬きすらせず、驚きで完全に脳内停止しているらしかった。そんな蓮也を見たのは初めてのことで、私はつい笑った。


「……え、急って。お姉さんの?」


「結婚当日にお姉ちゃんが失踪しちゃって。元々家同士の政略結婚だったから白紙にもできなかったから、私が」


「身代わりになったってことかよ!」


 突然荒げられた蓮也の声にびくっと反応してしまう。見たこともないほど蓮也は目を釣り上げて怒っていた。


 そんなに怒りをあらわにした蓮也に驚いたが、冷静に自分で考えた。話だけきけば、確かにちょっと酷い流れだもんな。私は蒼一さんのことが好きだったから自分から立候補したわけだけど、そうじゃなかったらと考えると……。


 私は慌てて蓮也に言った。


「わ、私が立候補したの!」


「なんでそんなことしたんだよ!」


「だ、だって」


 『お姉ちゃんの婚約者のことがずっと好きだったから』


…………なんて、さすがに言えないよ


 誰にも言ったことがない感情は、口に出すことすら恐ろしく罪に思える。


「……あ、家同士それで穏便に済むし……」


「そんなん別にいいじゃん、咲良の人生を懸けることか? 今からでも破談にした方がいい、咲良、よく考えろよ!」


 蓮也は私の肩をしっかり掴んで必死にそう言った。あまりの剣幕に驚くと同時に、これほど友人のために怒ってくれる彼はとてもいい人だなあなんて、そんなことを考えてしまう自分がいる。


 中学の頃からもう十年近い付き合い。彼はいつだって真面目で優しい。


「……ありがとう、蓮也」


「い、いやお礼言われることじゃないけど……」


「でも、大丈夫。私なんて、全然奥さん扱いされてないんだから」


 あえて明るく言い放った。笑っていないと、私の心の奥底にある恋心を悟られてしまいそうだったからだ。


 好きな人と結婚できたくせに、形だけの夫婦でいいよなんて言われて、指一本触れて貰えない女、なんて。


「え?」


「蒼一さんは、お姉ちゃんのことが本当に好きだったから。私なんて妹としか見えてないよ。形だけの夫婦でいいって言われてるから」


「形だけって」


 蓮也の唇が震える。私は頷いた。


「自由にしてていいよって。今日なんて寝坊して朝ごはんすら作ってないから!」


 私は笑ったのに、蓮也は笑わなかった。ずっと思い詰めたように黙って私を見ている。その真っ直ぐな視線が痛くて、つい目を逸らした。


「でも……他に好きな女がいるのに咲良と結婚するなんて、いい加減じゃん。自由っていったって咲良を縛り付けてるんだろ。ロクなやつじゃない」


 低い声でそう言ったのを聞いて、私は即座に否定した。


「結婚するって言ったのは私なんだよ。無理矢理強いられたわけじゃない。蒼一さんだって、家のこととか色々考えてしょうがなくしたんだよ。

 それに……形だけの結婚だけど、それでも私はいいから。私にできることはやって、楽しくやっていきたいって思ってる。この話を無かったことにするつもりなんて全然ないから」


 自分の口からするすると出てきた言葉に、自分でも驚いた。でもそれが私の本心なんだと、今再確認できる。


 そうだ、結婚するって言ったのは私だ。ちゃんとした夫婦になれそうにないのは悲しいこと。それでも、私は蒼一さんと一緒にいれることは幸せであることは間違いない。


 私にできることはやって、彼と楽しく過ごしていけたなら。そしてもしかしたらいつかは本当の夫婦になれたら———そんな希望を、かすかに抱いている。


 蓮也は黙ったまま何も言わなかった。


 しばらく沈黙を流したあと、彼は顔を背けるようにして小さく呟く。


「でも、俺は……」


「心配してくれてありがとう。ちゃんと友達にもみんな説明するつもりだったんだけど、まだバタバタしてるから。落ち着いたらみんなにも言う。蓮也、ありがとう」


「…………」


 蓮也は何も返さなかった。その黒い瞳を少し揺らして戸惑っている様子が伝わってきたが、それでも私の決意に黙り込んでいた。


「ごめんね、ちょっと買い物に行こうと思ってて。会えてよかった、ちゃんと連絡も返すからね」


 私はそう言ってその場から立ち去ろうと彼に手をふった。数歩進んだところで、蓮也が私の名前を呼ぶ。振り返ると、どこか悲しそうな顔で彼は言った。


「辛いことあったら……いつでも話聞くから、無理すんな」


「ふふ、優しいなあ。ありがとね」


 私は笑い返すと、今度こそその場から離れていった。





 そうだ、そうだよね。


 蒼一さんはお姉ちゃんが好きなんだから、すぐに私を奥さんとして受け入れることなんてできないよ。


 すごく寂しいけど、蒼一さんらしい。


 私はこの生活を頑張ろう。妻としてじゃなくて、同居人として。


 できることは頑張って、少しでも蒼一さんの支えになれるように。






 


 帰宅すると、少しして家のインターホンが鳴った。のぞいてみると、エプロンをつけた中年の女性が立っていた。私も見覚えのあるその人は、朝蒼一さんが言っていた家政婦の人だとわかった。


 お姉ちゃんと一緒に蒼一さんの家に遊びに行った時何度も会っている。優しくて気のいいおばちゃんって感じの人で、とても話しやすい人だ。昔から天海家の家政婦として通っている。


 私は急いでドアを開けた。私の顔を見て、その人はにっこり笑った。丸い顔でショートカット、笑うと目がなくなるその顔は人懐こくて安心感がある。


「こんにちは! 蒼一さんから聞いてやってきました、山下といいます!」


「こ、こんにちは、藤田咲良です」


「あははは、やですねえ。もう天海でしょうー!」


 大きな口を開けて笑う山下さんに、私も釣られて笑った。彼女は両手にビニール袋を持っている。そして中へと入って靴を脱いだ。


「蒼一さんから夕飯を作るようにって言われてきたんですよ」


「はい、伺っています。その、すみませんお手数をお掛けして」


「いいえー! 私の仕事ですもの。それに、あんな小さかったお二人が結婚してるなんてなんか嬉しくて」


 山下さんはふふっと肩をすくめて笑った。私は苦笑する。


「あは、本当はお姉ちゃんのはずでしたけど……」


「大変だったようですね。咲良さんは大丈夫? 困ってることあったら私に言ってくれていいんですよ。まあ、あっちには行きにくいと思いますが……」


 やや言葉を濁らせた山下さんが何を言いたいのかわかった。本邸の方には蒼一さんのご両親がいる。家政婦の山下さんでさえ、私に対する冷めた目を理解しているのだ。


 少し返答に困っていると、山下さんが思い付いた、というように顔を明るくした。


「あとで私の携帯の番号を書いておきますから! ね、困ったこととかはなんでも電話して。そうしましょう!」


 優しい気遣いに頭を下げた。蒼一さんが山下さんを呼ぶようにしたのも、彼女のこういう性格を理解しているからかもしれないと思った。


「よろしくお願いします」


「さあじゃあ夕飯をさっと作っちゃいましょうかね」


 両手に荷物を持ったままさっさとキッチンへ歩いていく山下さんの背中を慌てて追いかけながら、私は彼女に言った。


「あの山下さん」


「はい?」


「その、恥ずかしながら私あんまり料理とか得意じゃなくて」


「まだお若いですから」


「教えていただけませんか、蒼一さんの好きな料理」


 キッチンについて台に荷物を置いた山下さんは、驚いたように私を見た。私は再び頭を下げる。


「できれば基礎から……あの、お忙しい中申し訳ないんですけど……少しでいいので。慣れたら私が夕飯を作るようになりたくて」


 料理教室へ申し込もうかと思ったが、それよりこれが一番いい手だと思ったのだ。


 幼少期から蒼一さんを知っている家政婦さんなら、蒼一さんの好みもわかっているはず。味付けはそこから覚えるのが一番いい。


 山下さんは少しの間目を丸くして私を見ていたが、すぐににっこり笑った。


「ええ、そうしましょう。一緒にやりますか!」


「あ! ありがとうございます!」


 私はその言葉を聞いて急いで自分もエプロンをつけた。まずはできることから少しずつ。


 例え心も体も繋がっていない形だけの夫婦でも、私は頑張りたいと思った。








 夜も更けたころ。玄関の鍵が開く音がした。


 ベッドで横になっていた私は飛び起きる。蒼一さんが帰ってきたのだと思った瞬間、心臓が爆発するんじゃないかと思った。


 廊下を歩く足音が響く。そんな僅かな物音さえ、私の緊張を高めるだけだ。


 私はそっとベッドから足を下ろして寝室を出た。寝てていい、なんて言われたけれどそんなことできるわけがない。足音を立てないようにそうっとリビングへ移動していった。


 キッチンでガサガサと物音がする。どうしようか迷った末、どうしても確認したいことがあったためひょこっと顔を出した。まだスーツを着ている蒼一さんが、夕飯をとるところだった。私を見て目を丸くする。


「咲良ちゃん。起きてたの」


「お、おかえりなさい」


「ただいま」


 なんてことない挨拶が私の心を揺さぶる。でもそれを悟られないよう冷静を装って私は言った。


「寝てたんですけど、さっきちょうどトイレに起きてしまって」


「そうなの」


「ホットミルクでも飲もうかと思って……いいですか?」


「はは、なんで聞くの。いいに決まってるでしょ、咲良ちゃんの家でもあるんだから」


 笑いながら言った蒼一さんの笑顔に息苦しさを覚えながら、私は冷蔵庫に向かった。牛乳をレンジで温めて、食事している蒼一さんの正面に腰掛ける。


 山下さんが作っておいてくれた多くのおかずを、蒼一さんは丁寧な箸使いで食べていた。私はホットミルクに無駄に息を吹きかけて時間をかけながらゆっくりと飲んでいく。


「お仕事、遅くまでお疲れ様です」


「ああ、今週は特に忙しいだけで、いつもはこんなにじゃないから」


「そうなんですか、毎日こんなに働いてたら体壊しちゃうって心配でした」


「父はスパルタだけどね。休みはちゃんとあるから大丈夫」


 蒼一さんは天海家の跡取りなので、会社経営するお父様の下で働いている。正直私は経営だとかまるでわからない素人なので、仕事内容に関しては聞いても理解できないだろう。


「咲良ちゃんは今日何してたの」


「えっと、荷物を整理して、ちょっと買い物に行ったり」


「うん、そっか。それでいいよ。自由にやってくれればいいからね」


 そう言いながら、彼の持っている黒い箸が、一番隅に置いてあるきんぴらごぼうを掴んだ時、私は少しだけマグカップを持つ手に力を入れた。


 パクリと口に運ばれ咀嚼される。蒼一さんは何も言わず、そのまま次の二口目を食べた。


「山下さんはどうだった?」


「あ、なんかあったらいつでも頼ってって、電話番号教えてもらいました」


「そうか、よかった。あの人は昔からうちに来てて、僕も散々お世話になってる家政婦さんだけど、気が良くていい人だからね」


「はい、わからないこととか山下さんに聞こうと思います」


「それがいいね」


 優しく笑ってくれる蒼一さんに笑い返す。彼はそのまま食事を続けた。みるみるおかずたちは減っていき、全てが彼の胃袋へと収まる。


 きんぴらごぼうが入っていた小皿も、綺麗になっていた。


 それをチラリと眺め、ほっと息をつく。


「ごちそうさまでした」


「あ! お皿は洗います、それくらいさせてください」


「ほんと? じゃあ甘えて、僕はお風呂に行ってこようかな」


 蒼一さんはそう言ってリビングから出て行った。残された食器たちを片付けながら、私は一人頬を緩めた。


 山下さんに教わりながら、私が唯一作った料理はきんぴらごぼうだった。


 ちょっと形とか歪だったけど、蒼一さんは完食してくれた。多分、美味しくできていたんだな。


 今まで知らなかった。大切な人に作った料理を完食されることが、こんなに嬉しいことだなんて。


 嬉しさに笑い、部屋の隅にしまっておいたノートを取り出す。今日教わったレシピがそこには書かれていた。


 少しずつ。少しずつでいいから頑張ろう。まだ私自身奥さんと呼ばれるにはあまりに不出来。これから頑張って立派な女性になろう。


 そしていつか、蒼一さんがお姉ちゃんを忘れてくれる日を待って。


 私はノートを仕舞い込むと、からになったお皿たちを洗うために腕まくりをした。




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