第19話『戦いに備えて』

 一方その頃、(本体の) 井氷鹿は滝に身を打たれ、体を清めていた。泥によって穢された身を浄化する為の禊ぎである。

 かれこれ朝から三時間ほども滝に打たれていた彼女だったが、


「……ふぅ、終わった」


 不意にそう呟くと、彼女は白蛇の姿から人型へと戻った。

 そしてそのまま滝壺を泳ぎ切って岸へ上がり、全身を震わせて水を弾き飛ばす。      

 神聖な滝の水を浴びる事で、力はもう十分なほどに溜まっている。


「そろそろお昼。帰る」


 足取り軽やかに己が住処へと戻っていると、偶然にも木製の橋の上を通り掛かった。橋の下から着物姿の女性が井氷鹿のことを見上げている。

 頭に巻かれたロウソク付きの鉢巻が特徴的な女神――その名は橋姫はしひめ、古代より橋の守護神として崇められてきた女神だ。

 彼女は、気づかず素通りしようとする井氷鹿の尾をギュッと掴む。


「井氷鹿ちゃん。ここ一ヶ月ほど姿見せてくれてないけど、何かあったの? もしかして私のことが嫌いになった? だから? だからなの?」


 橋姫は高圧的な態度で井氷鹿をじっと睨みつける。

 彼女は嫉妬深い神とも呼ばれるゆえ、生じるものなのか。


「違う。最近、用があって遠くにいた。嫌いになった、わけじゃない」


 井氷鹿の屈託のない様子に、橋姫の顔には笑みが浮かぶ。

 橋姫は井氷鹿の尾から手を離し、一度水面に飛び込んだ後、今度は水面から飛び出して欄干の上に身を乗せた。

 その際、受けた水飛沫に井氷鹿は目を瞑った。


「それなら良かったわ! じゃあ、今日は夜通しお話しましょ!」

「ごめんなさい。これから、やらなきゃいけない、ことある」

「……やらなきゃいけないこと?」


 嬉々としていた橋姫の表情が曇る。

 ソレと同時に頭に巻かれた鉢巻のロウソクに青い炎が灯った。


「うん。わたし、これから戦いが、待ってる。だから、修行、今日はお話できない。また今度に、お話したい」

「分かった。井氷鹿ちゃん、約束ね。約束だよ?」


 ロウソクに灯した青い炎が瞬時に消える。

 すると橋姫は水面に飛び込んだかと思うと、しばらくして木の板を一枚持参してきた。ソレをキョトンとした様子の井氷鹿に手渡す。


「これは?」

「お守りだよ。井氷鹿ちゃんのことを守ってくれる」

「ありがとう」


 井氷鹿は橋姫より板を受け取ると、ソレを大事そうに担いだ。

 そこで彼女は橋姫に向き直し、別れを告げる。

 大きく手を振る橋姫の姿を背にして、井氷鹿は歩き出した。


 ◇◇◇ 


 風を纏った槍が空を切りながら迫る。

 槍はある高さを超えた瞬間、まるで見えない力に引き寄せられたかのように弧を描いて急降下し、やがて人一人分の大きさがある藁人形を貫いた。

 命中と同時に生じた衝撃波が人形の全身を駆け巡る。

 直後、藁人形はバラバラに崩れ落ちた。


「最善の限りを尽くせたが、やはりまだ改善の余地があるな」


 高天原、隹部の宮殿の中庭にて。

 地に転がる槍を手にしたヒナは独り言を呟く。

 額の汗を腕で拭い、もう何度目になるかも分からない槍の鍛錬に戻ろうととするが――、


「……?」


 空から届いた羽音がそれを遮る。

 音のしてきた方を見上げるとそこには一匹の雉の姿があった。雉はそのまま翼を大きく広げて降り立つなり、ヒナを真っ直ぐに見据えてくる。


「貴様は機織部はたおりべの使いだな。私に何の用だ」


 雉は嘴を器用に使い、懐から手紙を取り出した。

 彼女はその紙を受け取り、中身を開く。


『機織部の宮殿に来られたし』 


 書かれていたのは、短い文章。

 だが、差出人の名を見て彼女は目を大きく見開いた。

 その隙に雉は飛び去っていく。彼女は手紙を畳んで懐にしまった後、翼を広げて羽ばたいていった。



 間もなくしてヒナが辿り着いたのは、辺境に位置する機織部の宮殿だ。

 隹部が回収した擦り切れた衣を受け取った後、再び使える状態までに繕うといった役割を持つ、機織部。手紙の差出人は、その機織部の長を務める天棚機姫あめのたなばたひめだった。


「ようこそおいでくださいました」


 ヒナが宮殿の入り口に降り立つと、一人の少女が出迎えた。

 年齢は十代半ばほどか。少女に案内されて宮殿内に入ったヒナは、とある部屋へと通された。


 天井が高く広々とした部屋で、床には色鮮やかな織物が敷かれている。

 部屋の中央にある椅子に座っていたのは、着物を着飾った黒髪の少女だ。彼女は静かに立ち上がると、優雅にお辞儀をした。

 彼女こそ天棚機姫、機織部の長である。


「ヒナ様。突然のお呼び出し、申し訳ございません。この度は例の衣の件でお呼び立て致しました」

「何か手掛かりが見つかったのか?」

「えぇ。ヒナ様が仰っていた通り、あの衣を調べ上げてみたところ、不可解な点が幾つも見つかりまして」 


 天棚機姫は穏やかな口調で言う。

 以前より、ルリの身体を乗っ取った魂にどこか違和感を覚えていたヒナは、その衣を天棚機姫に手渡し、調査するよう密かに依頼していたのだ。


「聞かせてくれ」

「はい。元よりその移行で」


 ヒナは彼女の言葉を聞き逃さないように耳を傾けた。


「ヒナ様御一行が行方を追っている魂――彼は恐らくですが、この世の者はない可能性が十分にあるのです」 


 天棚機姫の言葉を受けて、ヒナは眉間にシワを寄せる。

 と云うのも、彼女が口にした内容は余りにも突拍子もないものだったからだ。


「人ならざる者だと? なぜその結論に至った」


「構造からでしょうか。この衣はなぜだか一部、神の衣と近い特徴を捉えている。加えてこの衣は本来、衣に含むことのできる穢れの限界量を超えていた。それと、この衣はとある不思議な性質を持っているのです」

「……不思議な性質? なんだ、言ってみろ」


「空気中に漂う穢れを吸い取るといった性質でしょうか。この衣をヒナ様より受け取った私たちは手始めに穢れのの浄化を行おうとしました。しかし、いくら祓っても祓っても一向に含まれる穢れの量は減少せず。どうやら、浄化によって空気中に発散されせられた穢れを執念深く吸い取っていたようなのです」


 天棚機姫は顔を曇らせてみせた。


「ヒバリ様の手元にあった際、異常なほどの穢れを含んでいたのは穢れ病でヒバリ様に発生していた穢れを吸い取っていたからなのでしょう。そして、こんな不可解な衣は前代未聞だ、と。長年衣に携わってきた私もこのような衣は初めて目にしました。一つ言えることは私たちの管轄外である衣を持つ者は、少なくともこの世の者ではない。つまり、結論でくくれば――」


 そこで天棚機姫は一度言葉を切った。

 ややあってから、再び口を開く。


「彼自体が、この世の者はないとしか言いまとめようがないのです」

「……!!」



 ◇◇◇


 ウルフ先輩とウルフはここら一帯を治める土地神である。

 何か地域絡みの事件が起これば、解決のためにその力を貸すこともある。

 今回の事件に関しても、ヒナより協力を頼まれた彼らは日々欠かさず、地域の見回りを行っていた。たとえ、ヒバリ達が遠出していようとそれに変わりはない。


「ワフッ!」

「どうした、ウルフ」


 今夜も日課の見回りをしていたところ、ウルフは突如走り出した。

 暗い夜道、リードに引かれるようにして突き進むと、辿り着いた場所は人気のない公園だった。砂場やブランコが設置された至って普通の公園。

 静寂が漂う。街灯もなく、月明かりだけが頼りだ。

 

「この辺りから臭いを嗅ぎ取った、か」


 ウルフ先輩を見つめるウルフの顔がそう物語っていた。

 ただ公園内を見渡しても人影一つない。すると――、


 ――バキッ! 二人の背後の茂みから物音が聞こえてきた。

 音の出どころは背後。二人は咄嵯に振り返って、臨戦態勢を取る。


「――!!」


 彼らの視界が捉えたのは、虚ろな瞳で眼差す少年の姿だった。

 片手には札を握りしめている。ウルフ先輩は少年を片足で薙ぎ払い、遠くへ弾き飛ばした。その一瞬、少年の背に貼られた札が垣間見えた。


「札に操られし者か」


 一方で少年は怯むことなく、受け身をとって体勢を整える。

 そして再度二人に飛びかかってきた。


「油断も隙もない。行くぞ、ウルフ」


 ウルフ先輩の姿がみるみる変じていく。

 学生帽からは獣耳が貫き、瞳は獰猛な獣の瞳に。剥がれた毛皮のマフラーの下からは尖った牙が現れた。


 獣人ともいえる変貌を遂げた彼らは、ウルフと共に瞬く間に少年の背後に廻る。

 そうして鋭い爪を構え、貼られていた札を切り裂いた――。


 札の支配から開放された少年は弱々しく、その場に倒れ込む。


「……以前よりも多くなったとはな、まさか」


 ウルフ先輩はマフラーをし直し、空を見上げて独り言つ。

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