第四章
第16話『後日談と展望』
「田中、悪い人じゃない。本当。私を、助けてくれた」
井氷鹿は青く澄んだ水槽に顔を反射させて言う。
虚ろだった瞳はすっかり元通りになっており、ついさきほど変えたばかりの水槽を眺めている。そんな彼女の頭の天辺には大きなたんこぶができていた。
一同はあれから、アスカの家に集い、田中さんから直接話を聞いていた。
いくら彼がアスカの信用のある人物だとはいえ、一方的な口車に乗せられることを恐れていたヒナだったが、その心配は不要だったらしい。
目を覚ますなり、井氷鹿はそう言い放った。
「では、その泥を手繰る能力を持つ"
「うん。嘘じゃない。逃げようと思った。でも間に合わなかった」
「……ふむ。八田間といい、泥といい、奴には忠実な部下がいるようだな」
ヒナは顎に手を当て深く考え込む。
彼女のその困惑の表情が伝わり、場の雰囲気も次第に重くなっていく。
…………。静寂に響くのは、水槽の水が流れる音だけだ。
「そうだ」
しかしそれも束の間、井氷鹿は不意に何かを思い出したような表情で椅子から立ち上がった。そして田中さんの元へスタスタと歩いていく。
「助けてくれて、ありがとう」
井氷鹿はぺこりと頭を下げた。
視線の注がれた先、田中さんは元の姿だ。
「……僕からは何も言えません。貴方が巻き込まれたのも僕の所為な上、助けることさえも。挙句の果てには、傷つけてしまったんですから。ましてやお礼なんて」
「それでも、いい。ありがとう」
目線を逸らした田中さんの様子を彼女は不思議そうに見つめていたが、やがて椅子に戻っていった。再び、水槽を眺める。
それからしばらく沈黙が続いた後、田中さんが口を開いた。
「皆さん、この度は本当に申し訳ありませんでした。僕の所為で皆さんに多大な迷惑をかけることとなってしまって」
「その話は……うん」
「同じく。その話はもうやめにしよう」
ヒナがアスカの発言に覆い被せた。
田中さんは事の全貌を話してからというものの、ずっとこの調子だ。
交通事故に逢い、死ぬはずだった彼は男に助けられたこと。そこで彼は男に忠誠を誓うこととなり、その指示に絶えず従っていたこと。
彼は皆を巻き込んでしまったことを心の底から悔やんでいた。
「攻め立てるつもりはない。ただ、できることなら貴様の知る限りの情報を我々に伝えてほしい。頼めるか」
「はい。分かりました」
腹を割って田中さんは話を始めた。
少女によって変わり果てた自身の身体や生き物を操ることのできる札について。男の配下にいる人物に、彼らの活動拠点となっている倉庫跡地についてなどなど。
そしてこの頃、街で人が相次いで行方不明になる事件に関与していたことも。
「ありがとう。奴らの動向が少し掴めてきたな」
彼の話を聞き終えたところで、ヒナは感謝の言葉を告げる。
掴めなかった敵の正体が段々と見えてきた。
「これより皆に数日の猶予を与える。この期間中に各自、今後の戦闘に備えて支度をしておくように。奴らの本拠地に直接乗り込むぞ!」
そこで彼女は意を決したように宣言した。
◇◇◇
翌日。早朝からベランダには、それぞれの荷物を持ったヒバリ達の姿があった。
まだ日が昇って間もない空。そんな空の麓を見るなり、意気込むようにヒバリは備え付けの荷物を背負う。
「しばらく不便させちゃうかもしれないけどごめんね、アスカ」
「ううん、私は大丈夫だから。じゃあ、みんな気をつけて行ってきてね」
「うん、じゃあね!」
ヒバリとヒナは翼を広げて別々の空に羽ばたいていき、井氷鹿は水紋を浮かべながら地中に沈んでいく。やがて完全に姿が見えなくなるまで見送った後、アスカは室内へと戻るのであった。
各自に与えられたこの期間中、ヒバリは神札集めに専念することにしていた。
やはり強敵との戦いになってくると神札は欠かせない。
今に至るまで彼女が所持していた神札は、隹部として全国を飛び回っていたときに各地の神様を助けたお礼として貰ったものだ。
しかし、今現在ヒバリが持っている神札だけでは強敵との戦闘を有利に進めることは難しいだろう。井氷鹿との戦闘を通しても、特に戦力不足が顕著だった。
彼女が今手にしている地図には、『御岩神社』までの道順が書かれている。
御岩神社――そこは日本で唯一" 188 "人の神様が祀られている国内有数のパワースポットだ。その所為で神社一帯に相当なエネルギーが集まっているのか、かつて宇宙から御岩神社が光って見えたという逸話まであるほどだ。
空を旅すること数時間。
ようやく目的地へ辿り着いたヒバリは、地面に降り立った。
パワースポットというだけあって神聖な空気で満ちている。太く立派な古樹が辺り一面に立ち並び、木漏れ日が差し込んでいた。
周囲からは澄んだ緑の匂いが。
「すうぅー……」
深呼吸すると肺いっぱいに空気が入り込み、全身に染み渡っていく。
身体に活力がみなぎっていくのを感じたのか、ヒバリは口角をつり上げて満足そうな笑みを浮かべた。
「そなた、旅の者か?」
「……?」
突如、背後から声をかけられた。
振り返ると彼女の目の前には、見上げるばかりの背丈の少女がいた。
一メートル半は優に超してしまうだろう高下駄を履き、六センチほどの鼻が特長的な天狗の面を被った少女――、腰には小太刀を携えている。
出で立ちは明らかに常人のそれではなかった。
高下駄で足された分の背丈を引けば、ヒバリより背が低いかもしれない。
「ええっと……はい」
「そうか。わざわざ遠くからご苦労だった。歓迎しよう」
「…………」
ヒバリは異質な雰囲気を放つ少女に気圧されていた。
はたまた少女は、そんな彼女の様子を気にする素振りを見せない。
「我は旅人の神こそ! 名は
ズルっ。
猿田彦は話に夢中だったせいで、足元に転がっていた石ころに気づかず転んでしまった。やはり、下駄の歯が高いだけあって転ぶリスクが伴うようだ。
彼女は顔面から地面に激突し、倒れ込んだ。
「だっ、大丈夫!?」
顔面から大胆にいった猿田彦を心配して、慌てて駆け寄るヒバリ。
猿田彦はヒバリの手を借りて起き上がる。彼女のお面は、転んだ弾みで外れ、地面に落ちてしまっていた。
「怪我はない?」
「ううっ……」
ヒバリと目が合った瞬間、猿田彦の紅い瞳から大粒の涙が溢れ出す。
そしてそのまま、ヒバリにしがみつくようにして抱きついてきた。
「ふえぇぇぇん! 痛かったよぉぉぉぉ!!」
先ほどまでの威厳ある雰囲気は消え失せ、年相応の少女のような泣き顔を見せる猿田彦。突然泣き出した彼女に戸惑いながらも、ヒバリは背中をさすってあげた。
やがて落ち着いてきたのを見届けた後、足元に転がっていたお面を手渡すと、猿田彦は泣く泣くソレを顔に被り――、
「今のは見なかったことにせい」
泣きじゃくっていたのが嘘のように、冷静沈着に言い放った。
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