第14話『どこか虚ろな神』

 時は少し前に遡る――


 ヒバリは水中生物コーナーで水流で畝るイソギンチャクを眺めていた。

 そのお値段は一個あたり五千円ほどと、それだけ珍しいものを見ていると何か心を動かされるような感覚があったようだ。

 その水槽にはカクレクマノミも入っている。旋回を何度も繰り返し、水槽に目が釘付けになった彼女の目の前を行ったり来たりしていた。


「ヒバリー、もう会計行っちゃっていい?」


 彼女の背後から声を掛けてきたのはアスカだ。

 ショッピングカートを押す彼女の姿がそこにあった。


「…………」


 対してヒバリは水槽に夢中のようで気付かない。

 そこでアスカは彼女が見入っていた水槽の反対側に同じようにして覗き込んだ。

 そして驚かせるべく、「わっ!」と声を張り上げた。


「うわぁ!?」

「どう? びっくりした?」


 水槽の奥から出てきたアスカに驚き、ヒバリはビクッと跳ね上がった。

 それから彼女は頬を膨らませてぶーぶーと抗議の声を上げる。

 

「ごめん、ちょっとやってみたくなって」

「もう、心臓が止まるかと思った!」

「あはは、ごめんって」

「ふん」


 そっぽを向いてしまった彼女にアスカは困ったように笑みを浮かべる。


「ところでアスカ、買い物は終わったの?」

「うん。必要なものは揃えたから、あとはお会計を通すだけかな」

「そっか。じゃあ、お会計に行こ」

「水槽はもう見ないでいいの?」

「うん、今日はいっぱい見たから」


 アスカとヒバリは会計に向かい、精算を行う。

 今日は水槽関連のもの以外にも洗剤やらトイレットペーパーやらを買い足しており、本来これぐらいの重さならアスカでも持ち運べたのだが……。

 ヒバリは右手の使えない彼女がどうも心配だったようだ。


「アスカ、ヒバリが持つよ!」

「え、大丈夫だよ」

「いいからいいから」


 そう言って半ば強引に荷物を受けたのは良かったが、ズシンと彼女の全身に負荷がかかった。傍から見ても、ヒバリの体格と荷物の重量が釣り合っていない。

 受け取ったばかりなのに関わらず、今にも地面に付きそうだ。

 ヒバリはノシノシと歩を進める。


「あのさ、無理はしないでね?」

「……う、うぅん大丈夫。こ、こういう時こそ神札の力を……」


 ヒバリは荷物をつま先の上に置き、ガサゴソと懐を漁る。

 彼女が取り出したのは『天鳥船』と書かれた御札だった。

 それを指先で摘んで、ふぅっと息を吹きかけた。


 すると次の瞬間――


 辺り一帯が大きな影で覆い尽くされた。

 何事かと空を見上げるアスカ。

 彼女の視界の先に浮かんでいたのは、巨大な船だった。全長数十メートルはあるだろう船がゴオォォと音を立てて段々と迫ってきている。


「…………ヒバリ?」

「天鳥船! この船に荷物を乗せれば……」

「たかがこれだけの荷物で大げさすぎるって」


 アスカはヒバリの持っていた神札をツンと弾いた。

 船は一瞬にして消え去り、後にはいつもの青空が残る。

 唖然とするヒバリの足元にあった荷物をアスカは持ち上げ、


「ほら、帰ろ」

「えー」


 去りゆくアスカの背をヒバリが遅れて追う。

 この何気ない日常――今日も今日とて終わるのだろうと、すまし顔を浮かべていたアスカ。だが、その表情はすぐに打ち砕かれることとなった。


 突如として遠くからやって来た気配に、アスカはその方角へ振り返り、感覚を研ぎ澄ませた。遠くで二つの大きな力が互いにぶつかり合っているらしい。

 清浄な力と汚れた力のぶつかり合い。只事ではなさそうだ。


「アスカ?」

「走ってヒバリ! こっち!」


 ヒバリの手を引き、アスカは走り出した。


 ◇◇◇


 

「ヒバリ、あそこで人が!!」

「本当だ!」


 アスカの指さす先には力なく膝をついた人影があった。

 距離が縮まる度にその人影の顔つきがはっきりと見えてくる。

 それは紛れもない田中さんの顔だった。その前には、頭をゆらゆらと揺らす少女が呆然として立ち尽くしている。

 少なからず、人ならざる者。


「田中さん!!」

「アスカっ、あれを見て!」

「アレは……井氷鹿ちゃん!?」


 アスカは田中さんの安全を確認すると、彼の前に立つ井氷鹿の存在に気付いた。

 様子がおかしい。光の灯っていない虚ろな瞳。瞳孔を不自然なほどに大きく開いてこちらに視線を注いでいた。


「田中さん、危ないので下がっていてください!」


 アスカは井氷鹿と田中さんの間に立って距離を阻む。

 魑魅魍魎といった類が見えない人からしてみれば、突然目に見えぬ相手に攻撃を受けたように感じてもおかしくないだろう。


「常世神! 隊長に知らせてきて!」


 ヒバリは神札より常世の神を呼び出し、空に放つ。


「……貴方達は、この肉体の持ち主と、知り合い?」


 井氷鹿はここでようやく口を開いた。

 彼女の口調や声色に、明らかな別人の要素が混ざっている。


「そうだよ、井氷鹿ちゃんの身体を返せっ! お願い、カグツチ! 井氷鹿ちゃんの身体のどこかに貼られてる御札を剥がせば、元に戻るはず!」

「オウよ! 俺に任せろ!」


 アスカがカグツチを呼び出すと同時に、井氷鹿の周りを囲うようにして炎の壁が出現する。カグツチは、煌々と燃え盛る炎をかざして飛び掛かった。

 ブンッと太刀風が巻き上がるも、まるで手応えがない。

 井氷鹿の姿は忽然と消えていた。


「何処へ行った!?」


 代わりに地中から地鳴りが響く。

 同時に大地が大きく揺れ動き、道路に亀裂が入ったかと思うと、そこから水が噴き出してきた。水に身を包まれて現れたのは、井氷鹿だ。


 水の流れに身を任せ、空高くまで到達した井氷鹿は指先から水を噴射する。

 それはシャワーのように降り注ぎ、燃え盛っていた炎を瞬時に消してしまった。

 

 ジュウゥゥゥ。


 辺りに蒸気が立ち込める。

 カグツチが蒸気を剣で薙ぎ払い、辺り一帯に広がっていた蒸気が晴れると、そこには巨大な蛇として君臨する井氷鹿の姿があった。


「ヒバリ、あれって……」

「大蛇、井氷鹿ちゃんの本当の姿」


 体長二メートルにも及ぶ純白の鱗を持った大蛇は、大きく開いた瞳孔でこの場にいた一同を見据えている。

 その瞳は迫力に満ちていた。


「小癪な! いくら姿は変わろうとやることは変わらん!」


 真っ先に沈黙を破り、カグツチは剣の先を向ける。

 しかし、間合いを詰めようと地面を蹴り上げた彼の上空からは、いくつもの水の刃が。咄嗟の判断で攻撃をかわし、背後に回った。


 ちょうどその背後、その視線の先に札があった。

 そこを目掛け、カグツチは剣の先から火球を放つ。


 パシュッ。

 爆発を伴うことなく、火球は消え去った。


「なっ、効いていないだと!?」


 驚くカグツチの目の前には、井氷鹿が平然と佇んでいた。

 彼女の全身を厚い水の層が覆っているせいで、炎の攻撃は一切通用しないのだ。


「……効かない」


 そう呟くと、井氷鹿は尻尾をしならせ、カグツチを叩きつけた。

 カグツチは辛うじて持ち堪えたが、次に来た攻撃で彼女の尻尾に縛られてしまった。身動きができず、カグツチはもだえる。


「カグツチ!! 他に戦える神札は……ないっ」


 ヒバリは懐を漁るも、手元にある神札は既に尽きていた。

 現在、戦えそうな神様は他にない。そして、再び井氷鹿の姿を視界に入れた時、彼女は既に目の前まで迫ってきていた。


「お終い」

 

 そんな彼女を標的に井氷鹿は水を勢いよく放つ。

 アスカが慣れぬ片手で障壁を作り出して攻撃を防ぐも、もはや時間との戦いだ。井氷鹿の放つ水の勢いは一向に収まらない。


 その勢いは凄まじかった。

 障壁に弾かれた水は四方八方に飛び散り、辺りに雨のように降り注いでいる。

 このままでは先にアスカが力尽きてしまうことだろう。


「ヒバリっ、このままじゃ!」


 ヒバリは歯を食いしばるアスカの顔に涙する。

 そうして今まさにアスカが力尽きようとしたところで――


「僕が行きます」


 一人の影が立ち上がった。

 真剣な眼差しで井氷鹿を捉え、歩み寄る。


「たっ、田中さん! 危ないから下がっ……」



「た、田中さん?」


 それはヒバリもアスカも予想だにしない展開であった。

 すぐ隣には完全な魑魅魍魎な姿とはいかず、人としての姿を半ば保った田中さんが立っていたからだ。彼は、着実に完全な魑魅魍魎へ姿形を変えていく。

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