第11話『未知なる田中さん』

 どんな苦境にもめげず、堅実でいることこそが田中さんのモットーだった。

 学歴にも才にも恵まれず、例えどんなに世間に冷たい視線を向けられようとも、彼が諦めたことは一度もない。ただ身を尽くす限りである。


 大学中退で数十人規模の小さな企業に就職。謂れのない陰口にも散々悩まされることとなり、10年経たある日に会社を自主退職。

 新たな仕事が見つかるまでは土木工事で身を粉にして働き。数年前、運と機会にも恵まれた彼は、割と大きな企業に中途採用され――、


 やがて、今に至る。

 

 齢40にして、彼の顔にようやく笑顔が戻ったキッカケは結婚だった。

 相手は娘を連れたシングルマザー。連れの少女はイヤイヤ期真っ盛りで、未だにマトモな会話ができていない。家事全般は任されるという理不尽の他にも、彼は金遣い荒い妻の攻撃の的になることもあった。


 だが、職場での新たな出合いが彼を救った。

 よく彼の相談に乗ってくれるアスカ。彼を度々飲みに誘ってくれる篠木。

 絶えず、悩みに振り回されることもあったが、彼の人生は着実に良い方向へと向かっていたはずだった。はずだったのに。


 それは不慮の事故だった。ある日の職場からの帰り道。

 彼が自転車で道路の専用レーンを走っていたところ、すぐ目の前に車両が止まっていた。街中どこでも見かける、至って普通の風景。


 彼が車道側に出て車両を避けようとした矢先――、運悪くドアが開いた。

 ドアに弾かれた田中さんは自転車から転げ落ち、間もなく車道の真ん中に放り出された。

 

「うぅ……」


 自転車から放り出された痛みで、起き上がることができない。

 その一方、遠くからはヘッドライトが猛スピードで彼の方に迫ってきていた。

 直後、彼の全身は激しく上下した。ショックで意識を失ったのか、そこから彼は微動だにしなかった。腹部から溢れた赤い血が水溜りのように流れていく。


 動けない。動くこともままならない。

 沈みゆく意識の中、彼は今にも閉じそうな瞼を何度も力んだ。

 弱々しく彼は誰かに助けを求めた。

 息も絶え絶えに瞳が、彼の視界が移ろう。


(やはり、まだ死にたくないというのだな)


 少女の声。

 何処からともなく聞こえてきた声に、最小の動きで頷く。

 このまま死ぬことなど望んでいない。生きていたい。

 それが彼にとってもっともだ。


 声の主は横たわる彼の元で頷いた。

 一方行へ血溜まりに水紋が広がっていく。


(忠誠を誓うのならば、助けてやらぬこともない)


 声の主は彼と交渉に出た。


(たが、貴様の肉体が順応できねば、このまま命を落とすことになるだろう。貴様が望むならばの話、その覚悟はあるか?)


 道路に仰向けの彼は心の中で「はい」と答えた。

 返事を聞き入れたのか、声の主は白い布を片手にゆっくりと歩み寄る。そうして、曝け出した赤い臓器の上に白い布を覆い被せた。


「…………!」


 それに伴って傷口が早々と癒えていく。

 血も空気中に溶け込むように消えていった。

 折れて肺臓に突き刺さっていた鎖骨も、砕けていた肋骨も跡形もなく元通りになり、いつしか彼が起き上がれるにまで回復を果たした。


「おいッ、兄ちゃん大丈夫かいな!?」

 

 起き上がったばかりの彼は野次馬に取り囲まれていた。

 彼はあたかもコレが自分の身体ではないかのように、手を握ったり開いたりしてみせた。代わり映えは一切ない。


「あれで怪我一つ負ってないって、すっげえな!! 本当に人間かよ!!」


 彼はキョトンとして首を傾げた。

 車に轢かれ致命傷を負ったはずだったのに、今となってはその傷跡一つさえ残っていなかった。気づけば、先ほど語りかけてきた声の主の姿もない。

 何も言わずに現場から去っていってしまったらしい。


 自転車を立ち漕ぎ、再び帰路につく。

 夢だったのか、現実だったのか、真相が掴めないまま彼は家に戻った。 




 夜の十時。

 自宅に戻ると、一日に溜まりに溜まった家事労働が彼を待ち受けていた。

 そこら中に脱ぎ捨てられた洗濯物に、お菓子のパッケージのゴミ。キッチンに放ったらかしにされたペットボトルにシンクに溜まった汚れた食器類。

 これら全て彼一人が片付けることとなっていた。


 妻はソファに寝そべってドラマを見ていた。

 結婚したての頃の姿は、もう感じられない。

 

 彼は家族のことを心の底から愛していた。妻のことを絶えず尊重し、娘の幼稚園行事はどんなことがあっても欠かさず出席していた。

 しかし、その寛容さが彼女に悪い影響を与えてしまったのかもしれない。

 相変わらずの自堕落っぷりだ。

 

 彼はそんな彼女を見守りながら、食器を洗浄機に移していた。


「……ッ!」


 ツナの入っていた缶の油をキッチンペーパーで拭き取っていたところで、彼は缶詰の縁部分で不運にも手を切ってしまった。

 

 たちまち、滲み出た血がキッチンペーパーに染みついたのだが、

 

「赤黒い血?」


 彼の指から滲んだ血は赤黒かった。

 静脈に流れる血はよく赤黒いと言うが、そう簡単に出るものではない。

 病気の可能性を疑い、スマホで検索を掛けたが詳しいことは掴めず、明日病院に行ってみることにした。


 その日、彼はシャワーを浴びて寝床についた。




「なんだか、暑い。寝苦しい」


 高熱に浮かされた彼は、鋭い目つきで目覚めた。

 相当に酷い悪夢でも見たのか、息はゼエゼエと上がっている。

 ベットから立ち上がり、滴るほどにかいていた汗を綺麗サッパリ流すため、彼は壁を伝って洗面所に向かった。


「な、何なんだこれ」


 照明をつけた途端、視界に映ったものを見て彼は言葉を失った。

 鏡に映っていたのは息衝くほどの怪物だった。

 片目の皮膚は半壊し、赤黒い筋肉組織が剥き出しになっている。頬辺りには亀裂が走り、黒い液体が吹き出すようにように流れていた。


「これは、僕?」

 

 ソレは紛れもない彼自身だった。

 先ほど触れた手先も既に人のものではなかった。

 指の節々からは厚い鱗が姿を見せ、指先には鋭い爪が映え揃っている。


 人間の成れの果てのような。


 ――魑魅魍魎へ変貌を遂げていた。


「どうなって、るんだ?」


 元の声質を残しつつも、時おり別人のように声が掠れる。

 理解がまるで追いついていない。

 なぜ、こうも姿が変わってしまったのだろうか。

 彼は鏡に映る等身大の自分を舐めるように見た。


「誰かいるの?」

「――!?」


 動転していた彼の横から、ふと声が掛かる。

 こんな姿を見られるわけにはいかないと、誰も起こさないよう物音を立てないことを意識をしていた彼だったが、運悪く鉢合わせしてしまった。

 そこには、眠たげにクマの人形を抱きかかえた娘が立ち尽くしていた。


「こ、これは違うんだ!」


 彼は咄嗟に弁明を図るが、

 

ったら、まーた電気つけっぱなし……」


 どうやら娘には彼がらしい。

 重たい瞼を擦りながら、彼女はゆっくりと自室へ戻っていく。

 彼は目を丸くして、そんな彼女の背を眺めていた。


(目覚めたか) 


 怪物と化した彼を招く声が響いた。


「こ、声? 一体何処から」


 あまりの唐突な出来事に驚き、辺りを見渡す。

 だが、声の主と思われる人物の姿は何処にもなかった。

 

(ここにはいない。直達の呼び出しだ。◯△◇倉庫に向かえ)


 ◯△◇倉庫とは彼の自宅のすぐ近くにある、寂れた赤レンガ倉庫跡地のことだ。

 

 もしかしたら、この姿になった理由が分かるかもしれない、と。

 彼は言われた通りに倉庫跡地へ向かうのだった。

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