第07話『社内の怪異奇譚』
アスカは今朝も凍りついた井氷鹿を溶かすのに手こずっていた。
またしても満員電車に揺られ出勤すると、彼女の働いていたオフィスビルの前がやけに騒がしい。道路脇には警察車両や見慣れない車両が多く並んでいた。
ビルの入り口は立ち入り禁止の規制線が張られていて、ガタイのいい警備員みたいな人が立っていた。どうやら捜査関係者のみ、侵入が許されているらしい。
警察官と思わしき男性が規制線をくぐって中に入っていった。
オフィスビルの入口付近には社員が立ち尽くしている。
「……何かあったんですか?」
アスカは課長を見つけるや否や、問いかけた。
会社のことを隅から隅まで知り尽くした彼ならば何か知っているはずだ。
「深夜、社内で失踪事件?が起こったらしくてね。マーケティング部の社員一人と警備員五人が忽然と姿を消したみたいなんだ」
「誘拐事件、物騒な響きですね」
「原因が分からなくてね。だけど痕跡からみるに誘拐事件かもしれないと言われてる。オフィス内では警察が証拠を探してたりと、原則立ち入り禁止になってるんだ。事件が起こった五階では現場検証が行われてるみたいだね」
「それで皆、会社の前でこうやって……」
オフィスビル全体を下から舐めるように見上げる。
へくちっ。
ブルッと身震いをした。
いつオフィスに入れるか分からないのに、こうも外で待ち続けるのは寒が身に堪えそうだ。社員の数名は白い息を吐いて震えている様子だ。
そのうち何人かは鼻を真っ赤にして、鼻水をすすっていた。
「課長、社員一同こうやって外で待ち続けてるのもなんですし、捜査が終わるまで近くのカフェに行って温まりませんか?」
「そうしようか。社員一同、カフェで温まろう」
アスカの提案で社員たちはぞろぞろと最寄りのカフェに向かった。
コンコンコンッ。
その道中にお腹を冷やした社員もいたらしく、カフェ内ではトイレの個室の扉をノックする音が響いた。これではカフェの雰囲気も台無しだろうと、店員はその音を掻き消すべく、店内に流れているBGMの音量を大きくする。
♫~
が、張り合うように個室を叩く音も大きくなっていく。
聞こえなくなってしまうと困るのだ。これには店員は対抗心を燃やしていたが、しばらくして店長らしき人物につままれ何処かに姿を消した。
「ねえ聞いた? 田中さんだけ連れて行かれなかったんでしょ?」
「あーね。仮に田中さんを誘拐しても何の役にも立たないって、犯人も思慮分別がついたのかなぁ。変なの。オフィスで朝っぱら気を失ってたらしいねー」
どこに行っても相変わらず女子社員の噂話は絶えない。
どの噂話でも田中さんは大抵、粗末に扱われている。
ふと、それがコーヒーに砂糖をかき混ぜていたアスカの耳に入った。
「課長、田中さんだけが誘拐されなかったって本当ですか?」
「そうだね。今、田中君は事情聴取を受けてるらしくてね。篠木君だったかな? 彼と警備員五名が行方が分からなくなってて、連絡もつかないんだってさ。最近、ここの辺りで急に人が行方不明になる事件が相次いでるけど、彼もまさか。巻き込まれてなければいいんだけどね」
「……篠木が」
アスカは俯く。
「そういえば、よく絡まれてたよね。仲いいの?」
「いいといえる仲じゃないです」
コーヒーを口にし、アスカはため息をついた。
出会ったときは以前のようにスルーすることが大半だ。
「まあ、そうか。彼も他部署のオフィスにナンパしに来てたり、女性社員の間でもそれなりに悪評が広まってたからね」
「彼、そんなことしてたんですか」
「田中さんもそれでとばっちり受けてたぐらいだ。彼、真面目と聞くのにね……おっと、メールだ」
課長はテーブルの上に置いていたスマホを手に取り、ざっと画面をタップでスクロールさせる。
「捜査一式は十時半に終了予定だって。あと少しの辛抱だね」
「ああ、じゃあ私は最後に。コーヒー一杯お願いします」
「か、かしこまりました」
涙を浮かべた店員がアスカの接客にあたった。
注文したコーヒーが届いてからは、女子社員たちは他愛のない話を聞き流しながら、アスカは適当に時間をつぶす。
ちょうど十分前になって社員たちは席を立った。
オフィスビルに戻ると、いつも通りのフロアが広がっていた。
エレベーターホールで商品開発部とマーケティング部は別れ、それぞれのオフィスに向かっていく。誰もがそう思えてしまう何気ない風景。
だったが、アスカにとっては違った。
ほんのり香る怪しげな香り。
おそらく人間ではないだろう者の気配。
魑魅魍魎が這いつくばった痕跡だろうか。
アスカは眉をひそめる。
以前に職場内で感じ取った気配に近い。
その魑魅魍魎こそが、今回の誘拐事件の犯人なのだろう。
この気配を辿れば犯人に近づけるのは確かだ。
あわよくば、調査を進めていきたかったところだが、残された気配は今に消えてしまう寸前だった。
これじゃ、調査を進めるのは不可能だろう。
だが、アスカになら、できることは十分ある。
それはこのオフィスビルに巣食う魑魅魍魎の力を借りることだ。
◇◇◇
ヒバリに夜ご飯を振る舞った後、アスカは深夜のオフィスビルに向かった。
幽霊や妖怪といった類の魑魅魍魎は、大抵どこにでもいる。
ただ、駅のホームでアスカが出会ったコーヒー缶裸体おじさん然り、どこか変な一面を持った者が多いのだ。人間にはどこか解せないところがある。
だから、自ら積極的に関わっていこうとはしてこなかった。
今回の事件は彼女に一つの変わるきっかけをもたらしたらしい。
彼女が深夜のオフィスビルにやって来たのは、夜ほど魑魅魍魎の干渉がしやすくなるからだ。魑魅魍魎の動きは夜ほど活発になる、夜行性の一面を備えていた。
自動ドアをくぐったら、もうゾワッとした感覚が彼女を襲う。
昼より遥かに多い魑魅魍魎の気配。一階のフロントだけは誰もいなくなっても明かりが灯っていたが、そこですら何かうごめく音がした。
エレベーターの扉が開く。
アスカはそのエレベーターに乗った。
「ネェちゃン、何処まデ?」
「うわあぁぁっ!?」
驚きのあまり、尻餅をつく。
一見、無人に見えていたエレベーターだが、天井には四肢を広げた男が張り付いていたのだ。心臓に悪い。息も絶え絶え、アスカは壁を借りて立ち上がった。
彼女の様子を見て男はケラケラと笑う。
「すまねェナ、ワテはこうやって人を驚かスのか大好きダ」
「そ、そう。心臓が飛び出るかと思ったぁ……人は選んでやってね」
「わかってル。ジジィどモは心臓弱くテ止まっちまウから駄目ぞヨ」
魑魅魍魎にしては常識が備わっている。
誰彼構わず、襲ってくるタイプではなさそうだ。
「それデ人間? キサマはなゼ、ここに何の用してル」
「少し、確かめたいことがあって来たんだ。昨日ここで何か、不思議なことが起こったりしなかった?」
天井に張り付いた男は首を捻って回想に更ける。
少しの間、手足をカタカタ動かしていたが、ふと何かを思い出したのような表情を取った。顔面をアスカの目の前まで近づけてきた。
男の強い鼻息で彼女の髪がなびく。
「そうえバ、あったネ。昨日もこうシて張り付いてたラ、真っ暗になっテ、エレベーターが動かなくなったヤ。そしテ悲鳴聞こえタ。急二怖かったナリ」
「エレベーターが動かなくなった……停電ってことか」
アスカはスマホをチェックする。
停電が起きたのはこのビルだけだったことのを、ネット検索を元に情報を得た。きっと、誰かの意図的なものだったに違いない。
「……他には何かなかった?」
「ワテの個人的なマイニュースなラ、たんまり」
「それはいいや」
アスカは五階のボタンを押した。
到着するまで男はエレベーターガールがここにやって来ないのはなんで、とかそういったニュアンスの事を問い掛けてきた。
アスカはただ、知らないと答えた。
あっという間に五階に到着した。
アスカは手当り次第、調査を進める。
「昨日、なにか……」
まずは近くで夜景を眺めていたヒト形の黒い影に話し掛ける。
「繝槭せ繧ッ縺ョ逕キ縺ィ螟ェ縺」縺。繧??荳ュ蟷エ縺瑚ゥア縺励※縺」
「駄目だな、こりゃ」
話が通じない個体も一定数いる。
というよりも、人語を操る個体の方が珍しいのかもしれない。
彼らの多くは犬でも猫でもないような獣の姿をしているので、意思疎通すら難しいことがほとんどだ。
気配を頼りに話が通じる個体を探してアスカは彷徨った。
ほふく前進をするワイシャツだったり、自身を叩く木魚だったり、多くの魑魅魍魎と出会ったが、彼女の捜査は思うように進まなかった。
「……ここで最後か」
そして迎えた大勝負。
この扉の向こうに控える魑魅魍魎が最後の一体だった。
この先は会社の備品室。普段から鍵が開いているものの、社員が寄り付くことは滅多になかった。日頃から社員の間で出る、出ると噂されていた部屋だ。
扉に少し力を入れただけでギイィィと音を立てて、半自動で開いた。
室内は備品が積まれた鈍色の三段ラックが多くあった。出ると噂されていたのは、設備の都合上ここだけ電気が通ってないのも一理ある。
スマホのライトを頼りにアスカは進んでいった。
今に何か出てきそうな雰囲気に怖じないのは彼女であっても至難の業。ゾンビ映画みたいな登場をされたら、腰を痛めてもう立ち上がれないだろう。
ガタンッ。
すると突然、アスカの背後を目掛けて備品が一斉に落ちてきた。
「うおっと!?」
片腕から球体の障壁を作り出し、危機を乗り越える。
なかにはある程度の重さを持った備品が含まれていたので、あと数コンマ対応が遅れれば、致命傷を負っていたに違いない。
直前に周囲で気配を感じ取れたのが、命綱になった。
「ふ、ふぅ。危なかった……ってうわあぁぁ!?」
どどどどッ。
今度は付近のラックに積まれていた備品が総出でなだれ込む。
全身に力を込め、守備範囲を広げることで防いだ。
「はあ、はあ」
何度も肩を上下させ、アスカは汗を拭う。
どうやら彼女は目の敵にされているらしい。
部屋の奥からしてくる気配は他の個体に比べて弱い。
その魑魅魍魎はアスカと出会うことを恐れているようだった。
「一つだけ、聞かせてほしいことがあるの。君、昨日何か不思議なものを見たり聞いたりしなかった?」
そこでアスカは距離を置くことにした。直接合わずとも間接的にコミュニケーションを取れれば、というのが彼女の魂胆だ。
しばしの沈黙が続いた。
「き、君はあの化物達の仲間?」
聞こえてきたのは、か弱い少女という印象の声。ひどく何かに怯えた様子で、それが直接的に人間不信に繋がってるようだった。
「仲間じゃないよ。襲いはしないから安心して」
「じゃ、じゃあ、なんでっ……、そんなに強い力を持ってるの?」
「私を育ててくれたお爺ちゃんが神主をやってた影響かな」
…………。
ライト一筋、真っ暗な空間に静寂が浸る。
「君は、邪な力を持っていないみたい。だからっ、少し君のことを信じてみることにするよ。そ、それで何が聞きたかったんだっけ」
「昨日、何か不思議なものを見たり聞いたりしなかった?」
「うん。確かに聞いたよ、悲鳴を。昨日このフロアでは、人間でも幽霊でも妖怪でもない、八本足の怪物が暴れ回ってたんだ。アイツが残ってた人たちを連れ去って……ひぃ。思い出すだけで身の毛がよだつ。ガクブルガクブル」
それ以上、有益な情報は出そうにはなかった――
彼女は備品室を後にする。
・昨晩、オフィスビルで停電が起こって怪物が現れた。
・オフィスに残っていた人達を何処かに連れ去った。
・その怪物は、人間でも幽霊でも妖怪でもない何か…
知り得た情報をメモアプリにまとめ上げ、アスカは一息つく。
唯一連れて行かれなかった彼にも話を聞こうと、アスカは田中さんにもラインを送った。だが、たった今返って来たばかりの返信は、『よく覚えていない』との意味合いのことが書かれていた。
彼は少しの間会社を休み、休養を取るつもりでいるらしい。
「八本足の怪物……まさか、蛸なんかじゃあるまいし」
そんなことは無いだろうと自分に言い聞かせながらも、彼女が確認した腕時計は深夜2時を指していた。もう帰ろうと彼女がスマホのタクシー呼び出しアプリを開いた矢先の出来事だった。
ズウゥゥン。
突然辺りに重たい空気が走る。
何者かの気配にアスカは一步後ずさった。
遠く、あるオフィスの一部屋から姿を覗かせていたソレは、全身を真っ黒に染めている。ガスマスクに黒い狩衣。どこをどう切り取っても異端としか例えようがない存在に彼女は大きく目を見開いた。
「この気配、まさか……」
息を呑む。
「――神様?」
彼女が言い放つと同時に、ペストマスクの男は真っ黒な渦に飲み込まれていくかのようにして姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます