第二章

第05話『アスカの出社日』

 その日、ヒバリは温かい食事と寝床に恵まれて一夜を越した。

 昨日起こった一連の出来事で、だいぶ疲労がたまっていたらしい。寝息を立てて深い眠りに落ちていたのだった。



 夜が明け、朝に。

 昨晩ヒナとヒバリが約束した時間になった。

 ガラス戸の前に一つの影がさす。ヒナだ。

 

 室内でスヤスヤと眠るヒバリを起こすべく、ガラス戸を叩く。

 コンコン、コンコン。

 ヒバリは一向に起きない。


 そこでヒナは眉をしかめ、一層強くガラス戸を叩くと、効果てきめん。

 ようやく目を覚ましたヒバリは、目を擦りながらソファから足を下ろした。


「これは?」

 

 彼女の視線がテーブルの上に注がれる。

 テーブルの上にはおにぎりと手紙が置かれていた。ひとまず手紙を取ってみると、そこには、『頑張って』のメッセージが添えられていた。


「もうアスカ、家を出ちゃったんだ。まだお日様昇ったばかりなのに」


 時刻は6時。昨晩リビングチェアにはアスカのコートが掛けられていたはずだが、今はない。部屋を見渡すも家を出た後のようだった。

 ヒバリはおにぎりと手紙を大事にしまって、ヒナと行動を開始した。


 その頃、アスカは駅で電車を待っていた。

 朝早くなら、満員電車に乗らなくて済む。ある日思い至って行動に移したものが、いつからか彼女自身の日課となっていた。


「ヒバリもそろそろ、起きた頃かなー。昨日の夜ご飯のときも、朝早く起きて頑張ろうって張り切ってたし……次の電車まであと四分か。ちょっと遅れてるみたい」


 目当ての電車が来るまでは、まだ余裕があった。


 今のうちに冷やした体の芯を温めておこうと、アスカは自販機のコーヒーを購入した。缶にはおまけで小さなおじさんがしがみついていた。

 やけにキリッとした雰囲気の、裸体にネクタイを決めたおじさんだった。


『嬢ちゃんいいかッ! 人生には山あり谷ありつってなッ!』


「誰だか知らないけど、そんな格好でああだこうだ言われても説得力ゼロだし。それに朝から説教じみた話をされるのは嫌い」


 デコピンでおじさんをゴミ箱に弾き飛ばす。


 朝からこういう得体のしれない魑魅魍魎に出会うのは、アスカにとって日常茶飯事なのである。缶を開けてをぐびぐびと中を飲み干した。

 「くぅ~」と声を漏らす。

 それから数分後にやって来た電車に乗って、会社へ向かった。


 今日もアスカは一番乗り。誰よりも早くタイムカードを切った。

 かといって特別何かやることがあるわけでもない。

 アスカは徒然なるままに机の上で突っ伏して、始業時間まで待つことにした。


 十分、二十分と時間が経つにつれて人が姿を見せるようになった。

 そんな矢先、全身が湧き上がるようなゾワッとした感覚でアスカは目を覚ました。

 あまりに唐突な動きに、社員たちの注目を集める。


 妖怪や幽霊が放つオーラとは一味違う。

 魑魅魍魎がオフィスに潜んでいるのではないかと隈なく見渡したが、何も見つからない。広がっているのは至って普通の社内風景だった。

 

「先輩! 明日、彼氏とデートに行くんですけど、どれ着ていくか決まらないんですよ。どっちが私に似合いますかね?」


 アスカが顔を起こすと、三人の社員に囲まれていた。


「先輩っ! どうやったら、あのハゲ頑固課長は社内にオフィスグリコを置くのを許可してくれますかね?」


「センパ~イっっ。今日は会議の前日だってのに、主任が資料を一から作り直せって言うんですよ。作るの手伝ってくださ~い」


 部屋を見渡していたアスカが気づいた頃には部下に囲まれていた。

 

 アスカは仕事ができる人として社内では人望があった。そんな訳で彼女を頼ってくる社員も多い。出社するたびに誰からも引っ張りだこだ。忙しくなってきたので、ここは気の所為だと自分に言い聞かせ、作業に身を投じた。



「そうですよね、やっぱこっちの方が似合いますよね!」

「なるほど、否定から入らない……と。"でも " "だけど"は使っちゃ駄目で、あくまで相手の話も聞きつつ主張をしろ、と。勉強になります!」

「センパイ! ありがとうございます! 完璧です!」


 …………。


「ふぅ、これでようやく自分の仕事が……あれ、もうこんな時間?」


 時計の針は正午を指していた。

 昼食の時間だ。仕事があるからといって抜くのは良くない。できるだけ済ませようと、アスカは一階にあるコンビニでお弁当を買うことにした。

 

 ちゃちゃっと席を外し、ちゃちゃっとエレベーターで一階に、建物を出てすぐ目の前のコンビニに足を運ぶ。

 多忙な会社員にとって、会社の近くにコンビニがあるとこんなにも便利なのだ。アスカはささっと塩むすびを二つ、棚から取った。


「お。アスカ、こんなとこで会うなんてな」

「ああ、篠木」


 コンビニ内で偶然、同期の社員に出会った。

 アスカが商品企画部なのに対し、彼はマーケティング部に配属されている。

 オフィスが違うので同じ建物内で働いていても、顔を合わすことはほとんどなかった。アスカの幼馴染みでもある。


「つれないなー。こう久しぶりに会えたのに」

「別に会っても、ちょこっと話すだけの仲だし」

「つっても、幼馴染みだろ?」


 別に再会を喜べるほどの仲でもない、と。

 アスカはそっぽを向いた。


「す、すみませーん。お待たせてしまって……」

「おー、田中さん。やっと出てきた」 


 遅れてやってきた中年男性のの声に、篠木は振り向く。

 そして親しげに手を挙げた。


「あ、田中さん。こんにちは」

「いつもお世話になってます。こうして実際に会うのはお久しぶりですね」

「はい。また何かあれば相談に乗りますよ。それと、田中さん、前に比べて少し細くなりました? 最近ちょっと無理してません?」

「そ、そうですかね? 無理はして……あっ!!」


 田中さんは気づいたみたいだ。

 自身のズボンにトイレットペーパーが挟まっていたことに。先ほどコンビニのトイレを借りたみたいで、そこから紙がレールのように敷かれていた。

 取り乱す彼の背後には、苦笑いのコンビニ店員が佇んでいた。


 田中さんは中途採用で雇われた、齢40ほどのおじさんだ。妻の尻に敷かれながらもめげずに育児に奮闘する父親。

 アスカが無理をしているように感じたのは、メタボ体型だった彼が、少しシュッと痩せたように見えていたからだった。


「まあ、色々と問題がありまして」

「お互い頑張りましょう。また何かあったらラインとか連絡ください。それじゃ私はここらへんで失礼します」


 

 その頃、ヒバリとヒナは上空から東京の街並みを鳥瞰していた。

 ここからなら街を一望できると張り切っていたものの、今になっては疲れが表情に出てきている。ふと、休憩がてら駅舎の上に降り立った。


「やはり見つからないか。こうなったら、を要請する以外方法がないな」

「どこに行っちゃったんだろ、ルリ……」

「ルリの身体を得たことによって、人間にはできない所業もなせるなせるはずだ。生きた肉体から魂や衣を剥ぎ取るといった荒業でさえ、不可能ではないだろうな」


 

 ◇◇◇


『ふーひぃ、なんて乱暴な嬢ちゃんだったんだッ。俺の話も聞く耳持たず、一方的にぶん投げられるとはなァ』


 アスカによってゴミ箱に弾き飛ばされたおじさんは、その衝撃で全身に打撲傷を負っていた。自販機の上に腰掛けながら、彼は愚痴をこぼす。


『だがよ、俺は諦めねえゼ。もっと沢山の奴らに俺の説法を聞かせていずれ世界を変えてみせるんだ!』


 そんな、指先を天に掲げて意気揚々とする彼の頭上に突然、一つの影が覆い被さった。影を落としてやってきた、翼を広げた少女、ルリ。

 自販機の前に降り立った、見慣れない訪問客におじさんは目を丸くする。


『うあ? 何しようってんだアイツ?』

「…………」 


 ルリの手には禍々しいオーラを放つ、が握られていた。

 それも黒い生臭い液体が滴り、何かが腐ったような異臭を放っている。

 これには流石に彼もしかめ、不快感を露わにした。


 ルリはすぐ側でたむろしていた青年たちに視線を移すと、踵を返して向かっていく。無論、彼女の姿は青年の瞳には映らない。

 そして持っていたものをおもむろに握り返すと、彼女は青年の胸元を目掛けて勢いよく突き出した。途端、彼の身体から真っ赤な血飛沫が上がる。


「がは……」


 悶えるように青年はその場に倒れ込んだ。

 咽る。口元から血反吐を滴っている。


「誰か、体がウズウズして痛い、痛ァい、痛ァァい”ぃぃ」 


 青年は頭を抱えて叫び声を上げた。

 貫かれた穴の中心からは水蒸気が発せられている。


 青年の肉体は急激な変化を迎えているようだった。二つあったはずの目は中心に寄って一つになり、犬歯は肥大化していって頬を貫き。肉体もその歪な顔立ちに沿った変化を遂げていく。腕は枝分かれし、極端に長くなった。


 その成長を遂げた青年の姿、今となって出来上がった姿はまるでと呼ぶに相応しい姿だった。

 片腕を高く上げ、たちまち襲いかかるが――、


「失敗作、力に呑まれ知性を失ったか」

 

 ルリは冷めた口調で言い放つと、指先から真っ黒な煙を作り出して青年に吹きかけた。青年の身体はヘドロのように段々と溶けていく。

 佇む彼女の視線の先に残るは、原型を失い、骨もろとも液化した残骸。


「おい、今、人が消えてかなかったか?」

「お前も見たのかよ。でも流石に見間違い……気の所為だよな」

 

 時を同じくして、辺りでは青年が急に行方を晦ましたことに対する、軽い騒ぎが起こっていた。



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