第14話
虎嗣が背後に感じた異変に振り返ると同時に、視界の外で肩を掴まれ横に力を加えられた。人混みをかき分けるように虎嗣をどけたのは、嫌な気配の反対側に立っていた卯条だ。
「……どうやら私が間違っていたようだ。弟の直感を信じてやらなかったことも──貴様を直ちに処分しなかったこともな!」
卯条が青の鉾を床から引き抜き、同時に神速で振り上げた。その刃は明確な殺意を持って、俯せに転がっていた修治の動脈を斬り裂く──はずだった。
「──哀しいことです。目が覚めたらもう奪われている。……貴方たち人間はいつもそうです。ただ平穏に平凡に日々を過ごしたいだけの私たちから、生活そのものを略奪して燃やす」
卯条の流麗にして精緻な一刀は──歪んでいた。否、歪められていた。その可変ゆえに相手を翻弄し、寸分の狂いなく急所を突く流水の刃が、今ばかりは裏目に出ていた。
……いや、本来なら裏目に出る余地すらないのだ。アーティファクトはそれに適応し主と認めた魔術師にしか〈処理〉を許さない。〈処理〉を任せるに足る魔術師にのみ真の姿を明かし、それ以外の人間には決して心を開かない。だからこそ、魔術師は選ばれた人間として現在の地位を確立したのだ。ゆえにアーティファクトの使い手たる魔術師は、一つのアーティファクトに己の一生を捧げることを約束する。一人の魔術師につき一つのアーティファクト。アーティファクトがその主を変えるのは、現在の持ち主が死ぬか落ちぶれた時だけだ。
だが、竜胆卯条がアーティファクトから見限られるはずはない。そもそも、アーティファクトから見限られた人間はその瞬間に死ぬというのが通説だ。卯条は死んでなどいない。見限られてなどいるはずがない。
……なのに、鴉修治の首は未だ繋がっている。その喉元に触れ、肌と血管を切り裂くことが定められた箇所の刃だけ、修治の首から下で止まっていた。まるでU字を描くように──水飴の刃が修治の首を避け、その場に踏みとどまっている。
アーティファクトが修治を斬ることを拒んでいるかのように。
「っ、……どうなっている」
「同族で傷つけ合うなど愚かなこと……それを彼女が理解しているというだけの話です」
ゆっくりと身を起こした修治が、卯条のアーティファクトを顎で示して言う。修治が離れた途端に、卯条のアーティファクトは正常な薙刀の姿に戻った。
「……これがお前の言っていた魔女か」
静かに一歩退いた兄が、虎嗣にだけ聞こえる声で問う。だが、虎嗣はそれにイエスと答えられない。
「変わりようは間違いなくそうだ。だが、雰囲気が違う。俺の時はもっと性格キツそうだったし……なんつーか、高飛車? な感じだったよ。今のあいつはさっきのより静かだ。今のところ攻撃してくる感じじゃねぇし」
「ならば多重人格か……いや、考えても仕方のないことだ」
卯条は短く息を吐くと、薙刀から刃を取り払い、柄だけで構えた。内側だけが変質した修治に向けて、声を張る。
「いずれにしてもだ。貴様に反撃の手段はない。貴様のアーティファクトは既に我々が回収した。……悪いが、そこで黙って見ていてもらうぞ」
その後、卯条は虎嗣に目で合図を送った。警戒ともしもの時の戦闘は自分がやるから、諏佐三津丸の蒐集したアーティファクトを今のうちに回収しろということだ。虎嗣は小さく頷き、アーティファクトの隠し場所へと足を向ける。
「ええ、わかっていますとも。だから言ったんでしょう? 『もう奪われている』と。人が眠っているのをいいことに他人の所有物に手を出し我が物とするその底意地の悪さ……何か理由があったとしても解せませんが、敢えて訊きましょう。──手段を問わず魔女の遺体を集めて、貴方がたは何を欲するのか。古の魔女を丁重に葬ってくださるとでも言うのでしょうか」
「身の程を弁えろよ、貴様。どんな手品を使ったかは知らないが、こちらの攻撃手段が一つ潰れた程度では、貴様が優位に立ったとは言えないのだからな。害されたくなければ黙っていろ」
背後で繰り広げられる兄と魔女の問答に意識を割きつつ、虎嗣は粛々とクローゼットを開放する。中には大小様々な金庫が隙間なく保管されていた。ご丁寧にメーカーや型番もバラバラだ。一つ一つ解錠し中身だけ持ち帰るのは不可能なので、用意していた鞄に金庫ごと放り込んでいく。撤収時には相当な重さになるだろうが、虎嗣の筋力ならばそこまで大きな障害にはならないだろう。こういう時のために、虎嗣は力を磨いてきたのだ。兄の負担を少しでも肩代わりしてやれるように。
「──あ、そう。それです」
虎嗣が新たな金庫を棚から引き出した時、修治の声がふいに虎嗣の背中に浴びせられた。
……いや、これは魔女の声だ。虎嗣は内心で首を横に振る。限りなく修治の雰囲気に寄せられ、それでも本物の修治がギリギリ出さなそうな砕けた喋り方。写実と虚構の境界線を彷徨うその声色に、虎嗣の心が一瞬だけ揺れた。
「耳を貸すな虎嗣!」
「いえ、もう遅いですね」
魔女がにっこりと微笑む。邪悪で無邪気な、弾けるような笑顔。
「貴方の大事な弟さん、もう私の
……魔女の言う通りだった。身体が硬直して言うことを聞かない。
「そこには私の身体が入っています。丁重に解錠を。ダイヤルは彼の記憶によると、ゼロ、イチ、ゼロ、サン……回す方向は順に、左、左、右、左。……まあ! この数字、この子の大事な人の誕生日ですって! 素敵ね! 愛だわ! 微笑ましくて踵で軽く踏んでみたくなっちゃう!」
「貴様……!」
自分の意思に反して忙しなく手を動かす虎嗣の背後で、卯条が怒りに声を震わせている。一体誰に対しての怒りか、考えると少し怖くなった。自分が外部からの声に耳を傾けなければ、こんなことにはならなかった。
だが、考えるまでもない。その恐れはお門違いだ。卯条が許せないのは、虎嗣の失敗ではなく魔女の本性だ。他人の感情を弄び踏みつけにするその横暴にこそ、卯条の神経は逆撫でされている。
……確かに恐ろしかった。本物の魔女の狡猾さ。残忍さ。
そしてその力を借り受け我が物として扱う、魔術師の仕組みとリスクの高さ。
そして何より、魔女の意識を宿し魔力をも行使する、鴉修治という人間の得体の知れなさ。
奴は魔術師にとって敵か? それとも──
「……っ!」
金庫の目盛りが最後の数字にかかろうかというその瞬間、虎嗣の右腕に何かが巻きつき、強い力で引っ張られた。言うことを聞かない手が金庫から離れ、ようやく動きを止める。
見れば、卯条がアーティファクトを帯状に変形させ、こちらの動きを封じていた。
「この私の手を煩わせて赦されるのはお前だけだぞ、この愚弟が……!」
「兄ぃ……!」
心強い兄の存在に、圧倒的な安心感を覚える虎嗣。
だが、振り返った虎嗣の視界に飛び込んできたのは、実兄の姿だけではない。
「──ようやく後ろを取らせてくれましたねぇ。兄弟の愛に感謝しなくっちゃ!」
四肢を戒められていたはずの修治の身体は、いつの間にか自由を取り戻していた。当然のように前に突き出された修治の両腕には青々とした蔦が絡みつき、その小さな葉の一枚一枚が、宝石の光を放っていた。虎嗣は一目で悟る。これはアーティファクトの輝きだ。
鉄でもなく、銃でもない。新たなアーティファクトの、緑の燐光。
「馬鹿な……! 貴様のアーティファクトはこちらの手に、」
「言いましたでしょう? それは私の身体なの。そして、その金庫に魔力を封じる力はありません。金庫なんて開けなくたって、私は最初から本来の力を使えた──貴方が隙さえ見せてくだされば、いつだって貴方たち兄弟を分かつことなく消し炭にして差し上げられたのに──」
修治は──魔女は、開ききった瞳孔のフレームに二人の姿を捉えている。
「さあ、あとは献身だけです。早く私に至上の愛を奪わせて頂戴」
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