第12話
気がつくと全身が痛んだ。おまけに現在進行形で蹴られている。
「定時連絡を欠かすなと何度言えば理解する、この愚弟が」
「痛っ、」
虎嗣に意識が戻ったことを認めるや否や、さっきまで虎嗣の腹を狙っていた、磨き抜かれた革靴のつま先が顎に向かった。容赦はあれども的確に痛みを与える攻撃に呻きつつも、虎嗣は安心感に後押しされながら身を起こした。
「悪かったよ、兄ぃ……戦闘で通信機がイカれて、」
虎嗣はインカムを通じて、外で待機している兄に状況を報告していた。だが大抵の場合、虎嗣がアーティファクトを使って何かを殴るとインカムが壊れる。仕事を終えた後に兄に叱られるのは虎嗣の常だった。
「違うな。卯条お兄様と呼べ」
「……」
なんとも言えず黙っていると、革靴が腹にめり込んだ。鋭い打撃に何度か噎せる。
「お前は昔から何も理解しないな、虎嗣」
「違うんだって……、俺がお兄様呼びすると周りが引くんだよ。どう見てもガラじゃねぇから」
「ならお前が『お兄様』に合うようにキャラ変すればいいだろう」
「……」
いくらなんでも無理な話だ。確かに虎嗣の兄──竜胆
だが、だからといってこの風体の男に『お兄様』呼びを強要するのは、いささか酷だ。ガキの頃じゃあるまいし。かといって、『お兄様』呼びがしっくりくる弟像というものを模索するにも、虎嗣にはその足がかりすら想像の範疇にない。
だから、虎嗣はいつも兄にこう言って、お茶を濁すのだ。
「……いや、俺は兄ぃに蹴られるのも悪くないと思ってるから、誰に何言われても『兄ぃ』って呼び続けるよ……」
「そうか。お前は本当に愚かな弟だな」
こういう時、卯条は決まって虎嗣のことを温度のない目で見てくる。それも当然のことだと虎嗣は思うが、仮に卯条が虎嗣のことをそういう趣味の人間と見ているとして、冷たくあしらうのはむしろ「そういう人間」の栄養剤になってしまうのではないか? という疑問も時々持つ。実は卯条は虎嗣を喜ばせようとして虎嗣を蹴ってくるし、無理を強いたりゴミを見るような目で見たりしてくるのではないか、ということだ。もしそうだとしたら、自分は兄の優しさにものすごく甘えている。少しでもその恩に報いるために「卯条お兄様」と呼んであげたくもなるが、その勇気が虎嗣にはない。弱い弟で申し訳ない、とこの考えに至るたびに思う。俺にもう少しでも力があれば……
「それで、この惨事を引き起こしたのはお前か?」
卯条が手にしていた薙刀で部屋の中央を示した。ガラスのように薄く、透き通った青色の刃物が、滑らかに外の光を反射している。
「……っ!」
虎嗣がその矛先の示す場所に目を向けると、部屋には大穴が空いていた。上も下も同様に、コンクリートが円形に近い形で崩れている。その大穴が空いた場所にいたはずの虎嗣は、いつの間にか壁にもたれて気を失っていた。天井が崩れてからの記憶がない。
「そうだよ! 俺なんで生きて……」
虎嗣は慌てて自分の両手を見た。透けていないから死んではいないのだろう。それどころか、鉄の薔薇によって切られた箇所には、丁寧に包帯が巻いてあった。額も同様だ。清潔な白からは血の赤色が滲んでいるが、黒く固まりつつある。血で濁った左目だけがわずかに見えない。
「お前が仕事中に返事をしなくなるのはいつものことだが、帰りが遅いのはいつものことではないだろう。様子を見に窓から覗いたらお前は隕石の下敷きになりかけていた。だから突いた」
卯条は薙刀の青い刃を虎嗣の胸に押し当てる。
卯条の持つアーティファクトは脆く繊細だ。ゆえに使用者の選り好みが激しい。しかし、適切な魔術師が使えば水のように自由自在に刃の形や硬度を変えられる。……おそらくは部屋の窓からアーティファクトを差し入れ、刀身を伸ばしたのだ。刃を作らず、如意棒のようにして、虎嗣を薔薇の落下点から押し出した。
「……すみません。お手を煩わせました。……惣領」
「……」
卯条はわずかに視線を動かし舌打ちをした。やがて小さく息を吐き、切っ先の丸い刃を虎嗣の胸から離す。虎嗣に背を向けた卯条のアーティファクトは、彼の左耳に還った。
「……それで。諏佐三津丸の蒐集品はどこだ」
「あ、はい。それは──」
虎嗣は自分の現在地を確認すべく、周囲を見回した。標的が集めたアーティファクトは壁と同化した扉の中にあるようだったが、部屋の大半が壊れ家具などは消失しているものもあったため、方向感覚を取り戻すのにもわずかにだが時間がかかった。
巧妙に隠された象牙のノブと、少しだけだが開けた覚えのある扉の隙間を探した時、虎嗣の視界に異物が入った。
「待って……待って、ください……」
「修治!」
部屋の奥で拘束され芋虫のように転がされていた人影は、間違いなく鴉修治だった。口調も気配もすっかり元に戻った、正真正銘本物の鴉修治だ。
「起きたか。騒々しいことだ」
卯条が修治のいる方に向き直り、流れる所作で青色の耳飾りを槍に変える。
「お前が自分であの天井を落としたのでないのなら、お前を潰そうとしたのはこの男ということだな? 虎嗣」
「いや……ちょっと待ってくれ、兄ぃ」
虎嗣は慌てて立ち上がり、修治の元に駆け寄った。打撲の痕が痛む。
修治は両腕を後ろに回し、親指を結束バンドで固定され自由を奪われていた。両脚はシンプルにロープを使っている。どちらも車に積んでいたものだ。
「何がどうなっているんですか。勝負は? 決着はもう着いたと? この部屋をこんなにしたのは──」
あなたなんですか。
その疑念と怨みがましさが綯い交ぜになった一言を聞いて、虎嗣は確信する。
──あれは修治ではない別人だった。限りなく魔女に近い、何か。
だが、虎嗣は修治の疑問に何も答えない。……勝負はついた。虎嗣の負けだ。だが、それを正直に教えてしまっては、竜胆家の──卯条の心願が叶わない。卯条の願いが虎嗣の願いだ。
それに、今の修治に「これをやったのは俺じゃなくてお前だ」と告げたとて、修治が虎嗣の言葉を信じるとは到底思えなかった。修治からしてみれば、気がついたら部屋が修復不可能なほど損壊していて、現場にはそれまで戦っていた虎嗣だけでなく、その仲間と思しき魔術師の男がいるのだ。不意を衝かれ嵌められたと思われても致し方ない。
「……なあ、一つだけ答えてくれ。お前、冗談でもいいからたまに女言葉使ったりするか? じゃなけりゃ、本当は男じゃなく女に生まれたかったとか」
「は……?」
これには流石に修治の目が据わった。
「……ふざけないでください。あなた一体──」
「イエスか。それともノーか」
「…………ありません、けど」
虎嗣の有無を言わさぬ語調に気圧され、修治が不承不承答える。……だったら決まりだ。
虎嗣は立ち上がって実兄を振り返り、迷いなくこう告げる。
「兄ぃ。こいつぁおそらく魔女だ」
「……何?」
「さっきから何を勝手な……!」
二人が同時に虎嗣を見た。好意的な感情は一切持たれていない。
「魔女が滅んだと言ったのはあなたのほうじゃないですか!」
「……まさかとは思うが、馬鹿が頭を打つと狂人になるなどということはあるまいな」
「言っとくけど俺に頭打たせたのは兄ぃだからな。……でも悪ぃが確証はあるぜ。こいつ異様にアーティファクトの扱いが上手い。ついさっきまで魔術師の存在も、そのなんたるかも知らなかったような奴がだ」
「素人を装っていたという線は」
「ないとは言い切れねぇ。だが証拠はまだある。……こいつは俺を殺しにかかる時、女の言葉を使ったんだ。雰囲気も今とまるで違う。明らかに人格が変わってた。アーティファクトの操作が上達したのもその時からだ。……こいつの中には確実に何かいる」
「……だとしてもだ」わずかな思案ののち、卯条が口を開く。「ここに収蔵されているアーティファクトを我々が引き取ることに変わりはない。この男を処分することもな」
そう言って、卯条は修治の眼前に青い刃を突き立てた。修治が声もなく喉を強張らせる。
「死ねば魔女も人間も大差なかろう。……それともお前は、この男を今すぐ火葬場に連れて行って新たなアーティファクトを生成しようとでも言うつもりか? まあ、その程度の頼みなら聞いてやってもいいが」
「そうじゃねぇ。むしろ逆だっての」
虎嗣は修治を庇うように卯条の前に身を滑らせた。我ながら何をしようとしているのかわからない。
……でも、何かが気になるのだ。魚の小骨のような引っかかりが抜けない。
「……上手く言えねぇけど、ニオうんだよ。こいつはなんか異質なんだ。ヤバい感じがする。……ほら、触らぬ神にって言うだろ」
「フッ、神か」
卯条が皮肉げに笑う。この世の全てを怨み見下すかのような、その目。
その目から一切の苦痛も諦観も取り除くために、虎嗣はこの身を捧げているのだ。
これ以上兄を昏い影のある方角へ進ませたくない。
……それだけなのに。
「魔女が神とは笑わせる。魔女こそが祟りそのものじゃないか」
卯条が薄ら笑いを歪ませた瞬間、虎嗣の背後で嫌な気配が膨れ上がった。
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