第10話
ドッ、と空気の塊が殴打される音がして、修治の真横を大量の黒い破片が吹き飛んでいった。粉々に砕かれた鉱物の破片が、ひっくり返された棚の中身と混ざり合う。来客用のティーカップと思しき陶器の破片に、買い手がつくのを待っていた宝石の数々──誰かの宝物になり得たはずの品々の末路が、修治の心を的確に抉った。
……そうして、目が合った。
三津丸は確か虎目石と言った。深い黄金色の球。
「マモルくん」の瞳のパーツが、懇願するように修治を見ている。
「────っ……!」
それは天啓のように舞い降りた勇気で、怒りのように湧き上がった責任感だった。
マモルくんは修治とアーティファクトを守るために散った。それが作り主である三津丸の望みだったからだ。
だったら、修治は──三津丸に人生を拾われた修治は、三津丸のために何を守ればいいだろう。
「よお。まだ逃げてなかったのか? 損してんなぁ、お前」
修治が帰るべき場所への敷居を跨ぐ。闘技場の砂粒を踏みしめるように靴音を鳴らすと、男は緩慢な動作で修治を見た。
「俺ぁバカだバカだってガキの頃から散々言われてきたけどよぉ、自分が殺ったか殺ってねぇかを忘れちまうほどトリアタマじゃあねぇんだよ。つまりアレだ、俺がお前を殺ったと思って、お前の存在を忘れたわけじゃねぇってことだ。この見逃しは俺の確認ミスじゃなくて、俺が視界にお前を入れねぇように調節して起こった見逃しなんだぜ? 実を言うとな。テメェが俺を殺れるほどの魔術師じゃねぇって見込んでやったから、お前は今まで生きてたんだよ。わざわざ見ないフリしてやってたんだよ。つまりお前の命は拾いもんってわけだ。それを自分から返しに来るなんてなぁ、それは律儀ってんじゃなくて完全な損だぜ。お前は今プラスをゼロに戻したんじゃなくてなあ、ゼロをマイナスにしてんだよ。そこんとこをわかってもらわなきゃあ困るんだよなぁ。だって見ないフリしてやってた俺がバカみてぇじゃねぇかよ」
男はクローゼットの象牙に手をかけていた。その無遠慮に忍び寄る手に群がる八本の脚も、ビームを発射する金色の目も今はない。
そこにあるのは、一対一で対立した人間同士の、視線の交差だけだ。
「教えてほしいことがあるんです。……どうして、そうまでしてアーティファクトを狙うんですか」
「俺たちが必要としているからだ」
「そのためなら他者から奪ってもいいと?」
男は無言で修治に向き直った。言葉に窮しての行動ではないだろう。答えるまでもない、ということだ。それは男にとっての常識で──もしかしたら魔術師にとっての不文律みたいなもので、わざわざ尋ねるほうが無粋なのかもしれなかった。
だが、修治には魔術師としての常識が欠如している。修治は魔術師がどんな人間を指す言葉なのかを知らない。アーティファクトがなんのために存在するのかも、何に役立つのかも教えてもらっていない。
修治は未だ狭い世界で生きている。自分は法律と倫理によって囲われ、守られた世界で、それを当たり前として生きている、ただの人間だ。そちら側に行きたいとも今はまだ思えない。
「それは諏佐さんが──諏佐三津丸が各地を飛び回って、自分の金銭と交渉力を以って手に入れた私財です、たぶん……。少なくとも私の時はそうだった。彼が初めて手に入れたアーティファクトも──誰かから不当に奪ったものでは決してない。正当に譲り受けたからこそここにあるんです。それを本人の許可もなく……代価も言葉も何もなしに横から奪うのは確実に間違っています。……あなたのやっていることは犯罪だ。魔術師が法の外にいたとしても、それが罪であることに変わりはない」
「だとしてもだ」
男は迷いなく言った。たとえ罪を負ったとしても──そう言い切ってしまえるだけの覚悟が、いや……諦めとも表現すべき凪いだ感傷が、男の雰囲気をいくらか柔和に見せかけた。
「お前も魔術師なら──アーティファクトを〈処理〉できるなら知ってるはずだよな。アーティファクトは純粋な危険物だ。お前のチャカは銃弾も火薬の装填もなしに無限に弾を射出できる。俺のこいつは人間の骨もコンクリの建物も一発で粉だ」
男がナックルダスターを嵌めた拳を、自らの平手で受け止める。透明な石のプリズムの輝きは、おそらく地球上で最も硬いダイヤモンドだった。
「こんな強力な武器が地球上にあって、アーティファクト関連の犯罪も戦争も起きてねぇ理由はなんだと思う? ……魔術師が守ってるからだよ。魔術師だけがアーティファクトを所有する権利を持っている。魔術師だけがアーティファクトの力を正しく理解し、行使できる。だからアーティファクトのあるべき場所は魔術師の手元以外にない──兄ぃがいつも口酸っぱく言ってることだ。実際、それが魔術師の総意なんだ。アーティファクトの管理は全て魔術師が行う。多くのアーティファクトの管理ができる魔術師こそが強く優秀──だから俺たちはアーティファクトを集めるんだよ。一族再興のためにな」
「一族……再興……」
修治の人生とは無縁の、重い響きだった。家族との縁などもう切れたも同然で、期待をかけられることは幼少のうちに脱した。家族を思うあたたかな気持ちすら、もう忘れつつある。
祖父が死んだその日から。
「竜胆家は代々魔術師の家系だ。だが諏佐三津丸はそうじゃねぇ。そしてお前は魔術師だが、どうやら奴の陣営にいるらしい。……さて、俺はどうするべきか? 答えは排除だ。お前が諏佐三津丸の味方をする限り、俺はお前を排除してアーティファクトを手に入れる」
「ち、ちょっと待ってください!」
修治は思いきり手を突き出した。命乞いかとでも言いたげに眉をひそめる男に、修治は「違うんです」と首を横に振る。
「諏佐さんは魔術師に家系ではないかもしれませんが、あの人は魔女の末裔ですよ⁉︎ アーティファクトを待つ権利なら彼にだって……」
「バカ言ってんじゃねぇよ。魔女は大昔の裁判で滅びた。だからアーティファクトがあるんだろうが。子孫だって全部焼き討ちに決まってんだろ。奴はアーティファクトに選ばれなかったただの人間で、言葉によって魔力を補完する言霊師だ。だが……テメェみてぇなれっきとした魔術師が騙されてるってんなら、ペテン師通り越してもはや悪魔かもな。そうやって魔術師同士戦わせてライバル減らそうって魂胆か? ……ったく、悪趣味な野郎だぜ」
「あの人は決してそんな人間では……!」
弁明しようとして開いた口が、推進力を失って途中で止まる。
諏佐三津丸は本当に「そんな人間ではない」のか?
それを否定できる材料が、修治にはない。
彼が修治を拾ったのは、修治の持つアーティファクトを手に入れるため。
彼が修治を「半身」と呼ぶのは、鴉修治という無知な魔術師を仲間に引き入れるため。
彼が修治に自分のアーティファクトを──金庫の解錠方法を教え見せびらかしたのは修治からの信用を得るため。家が燃えた話も、あのエメラルドが自分の家に代々伝わるものだという話も、全部嘘。独り者同士だと言って修治の髪を撫でたのも、全部──
「…………嘘、ですよね……?」
「誰の言葉を信じるかはテメェの自由だ」
男の言葉は呆気なかった。修治を寝返らせることに執心しないその態度が、憎い。
「ただこれだけは覚えとけ。俺の──俺たち
そう言って間もなく、男はクローゼットの扉を開けた。……本当に容赦がない。考える時間も満足に与えてくれないなんて。
「……本当にいいんだな?」
逡巡の末、修治は男に拳銃を向けていた。その瞬間から男の手は止まり、代わりに男の全身から殺気が溢れる。男は好戦的な笑みを浮かべていた。
「俺ぁ魔術師を潰すのは嫌いじゃねぇ。特に実力者との命のやり取りってのはたまんねぇよなあ。これも魔術師にだけ許された特権だ。……ほら、撃てよ。先攻はくれてやる。その代わり、テメェが引き金を引いた瞬間がテメェの最期だ」
「…………っ、」
本当は撃ちたくなんかない。魔術師同士の戦いを好むところも、一族の名誉のために他者を虐げることを厭わないところも、修治の共感を誘う部分なんかひとつもない。
でも、この男は悪ではないのだ。完全な悪では。
言葉だって通じる。弱い修治を一度は見逃そうとしてくれた。相入れないのは信念だけ。
撃ちたくなかった。その命を──責任を負うだけの力も覚悟も、今の修治には足りない。足りなすぎる。何もかも。
──それでもだ。
「……確かに言えることがあります。あなたにはなくて諏佐さんにはあったものです。私はそのために……そのためだけに、あなたと戦う。その決意を今、しました」
「ほぉ。……参考までに聞かせてもらえるとありがてぇな。竜胆家の次男が言霊師に劣るとあっちゃあ、面目が立たねぇ。兄ぃに蹴られちまう」
「愛情です。……宝石への」
修治だって一歩間違えば不当に奪っていた。……いや、損なっていたのだ。
宝石店に強盗に入った時、三津丸が事前に店の商品をガラスストーンに替えてくれていなければ。修治は誰かの宝物になるはずだったその小さな輝きたちを、殺していた。
あの時の三津丸の表情を、修治は忘れない。
あれは確かに怒りだった。嫌悪だった。一人の人間の我欲と知識不足によって、宝石たちが不当に傷つけられることを、三津丸は心から嫌っていた。
だから、三津丸には愛情がある。アーティファクトに対してだけではない、宝石という存在そのものへの愛情だ。それは畏敬と言ってもいい、確固たる信念だった。
「でも、あなたはそうじゃない。あなたが欲しているのはアーティファクトという力だけで、宝石を愛してはいない。だから、あなたは事務所で保管している宝石など目もくれなかった。愛がないから床にぶちまけることができたんです。宝石こそが諏佐さんの宝なのに、あなたはそれを踏みにじった。……その恨みだけで、今は充分戦えます」
「ハッ、悪くねぇ。むしろいいじゃねぇの。いい顔だ。……俺は竜胆
名前を名乗られ同時に尋ねられたということを理解するのに、少し時間がかかった。予想外の対応に修治は面食らうが、不思議と悪い気はしない。
「……鴉修治」
「いいねぇ修治! 覚えとくぜその名前。お前はいい魔術師だった!」
「私が死ぬの前提ですか……」
修治は苦笑しながらも、射撃の構えを崩さない。神経を研ぎ澄まし、わずかな時間、虎嗣を観察する。
虎嗣は修治に先攻を譲ると言った。それ以降は命の保証をしないとも。
……だったら、勝負は最初の一発だ。躱されてはいけないし、弾かれてもいけない。だが、アーティファクトの使用も射撃も素人である修治が、一撃でこの大男を沈めるということ自体、不可能に限りなく近い芸当だ。撃つべきタイミングも、狙うべき場所も定かでない。端から修治には知識がないのだ。
だから、修治は目を閉じた。
三津丸はしばしば修治の目のよさを褒めるが、果たして褒められるべきは審美眼なのだろうか?
三津丸は言った。アーティファクトは魔女の怨念であり遺骨そのものなのだと。だから彼らは常に持ち主に語りかけているのだと。他者を攻撃せよ、奪い取れ、怨みを晴らせ──
だったら修治の誇るべきは、耳だ。
『先ずは種を植えるのよ。私たちの勝利の種を』
暗闇が声となって、修治の身体にまとわりついた。まるで植物の蔓のようだが、視覚は修治が自ら捨てた。その実体は闇にこそある。
銃を持つ右手から、特別強い思念を感じる。私に任せなさいともう一人の自分から語りかけられているような妙な感覚に陥りつつ、静かに身を任せる。
銃口は上を向いた。銃を持つ右腕はぴんと伸び、スタートの合図のごとく銃声が鳴る。
目を開く。
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