第9話

 久しぶりに湯船に浸かった。温かい飯を食べた。それだけで人として生きることの素晴らしさを噛み締めて涙が滲むほどだった。が、この部屋にはベッドというものが存在しなかった。あるのは隣の事務所スペースにある一対の二人がけソファーと、寝袋が一枚だけだ。自分の家なのに寝袋……⁉︎ とは思わなくもなかったが、それだけこの部屋にいる時間が短いということなのだろうと修治は勝手に解釈を済ませる。そうでもしないと、あんな話を聞かされた後では、この部屋に安らぎを求めることすら受容できない心の闇を、諏佐三津丸という男に見出してしまいそうだった。

「じゃあ俺はその辺のホテルのベッドで寝るかな〜」

 既に日付を跨ぎ、明けるのを待ったほうが早かろうという夜をどうやってやり過ごすのかを話し合う段になって、三津丸が言った。駅からそう離れていないこの立地ならば、すぐに部屋を確保できて手頃な値段のホテルを見繕うのも難しいことではないか──そう修治が思った直後に三津丸が口にしたホテルの名前は、頭に「高級」の字がついても問題ないような名の知れた場所だった。これには修治も思わず、

「随分といいご身分じゃないですか」

 と悪態をつく。自分はその辺のカプセルホテルに泊まるだけの金すらないので、本当は何かを言えた立場ではない。が、片方が寝袋、片方がコンクリートの床を前提として床を選択するのと、片方が高級ホテルのふかふかベッド、片方が寝袋を前提として寝袋を譲ってもらうのとではこちらの心構えが全然違う。あれだけ一緒だ半身だと言っていた相手を簡単に切り捨てて、自分だけスイートルームの羽毛たっぷりベッドに横たわるつもりだなんて、都合がよすぎる。もう少し自分のねぐらのQOLを見直したらどうなんだ。

 しかし、開き直った三津丸の一言は、修治にはあまりにも重かった。

「まあね。俺には火災保険と死亡保険の金があるから」


 そういうわけで、寝袋である。

 電気を消したビルの一室は、あまりにも暗い。間接照明のひとつでもあればもう少し雰囲気も違っただろうかと冴えた頭で想像を働かせるも、修治自身が間接照明を灯した状態で眠れるタイプの人間ではなかったので、よくわからない。

 がしかし、無性に寂しかった。底冷えするコンクリートの冷たさゆえだろうか、つい先刻まで「家」として最低限以上に機能していたはずの建物が、途端に廃墟と化して見える。下がコンクリートなんだから、家をなくして金も底を尽きて、道路に寝転がっているのと大差ないじゃないかと思い始める。しかし、エアコンも加湿器も効いている室内とただの路傍など、本当なら比べ物にならないはずだった。

 ……何者かの存在を求めていた。今までと違うことなら山ほどあるが、つい数十分前と違うことといえば、話し相手がいるかいないかの違いしか思い当たらなかった。

 自分でもおかしなことだと思う。大学進学のために故郷を離れてから数時間前まで、ずっと一人だったはずなのに。もう隣に人がいることに慣れてしまった。だから一人でいることが寂しい。……なんて、あまりにも強欲だ。幸福に順応するのが早すぎる。

 そのうち居場所や食事が提供されるのが当たり前になって、何もしなくなってしまうのだろうか──そんなことを夢想した。やがて飼い殺しの芋虫になってもなお生き続ける自分の醜態に思考が行き着いて、さみしくないさみしくないと唱えた。

 そんな折、ガラスが割れた。パリンというよりはガシャンという音に近く、夜の静寂には似つかわしくない暴力的な響きを伴っている。

 突如として発生した破壊の音を隣の部屋で聞いて、修治は全身を綿に覆われた芋虫のままに飛び上がる。

「なっ、何⁉︎ 何事……?」

 異変を察知したのか、修治のいる部屋じゅうの影という影から、八本脚の丸い虫が這い出てくる。自分が標的とあれば恐ろしいことこの上ない光景だったが、非力な修治しかいないこの場においては、無数にも思える「マモルくん」の大群は心強い味方だった。

 起き上がって寝袋のファスナーを開けた修治の元に、一匹のマモルくんがカサカサと歩み寄ってくる。なんだろうと手を差し出すと、その一匹は素直に修治の手のひらに登った。が、生憎と音声や文字を映し出す機能は備わっていないらしい。何か言いたげに修治の手相と顔の間を見上げたり見下ろしたりし、地団駄を踏むようにその場で足を動かした。

「なんだろう……」

 修治は虫や機械と態度で会話できるわけじゃないし、テレパシーも持っていない。だが、少なくとも「逃げろ」とは言われていないような気がした。むしろ「ここに残ってくれ」と、「自分たちを助けてくれ」と──そう訴えられているような気さえした。

「…………」

 もとより、修治にはここを放り出して逃げるという選択肢がない。今の居場所を失えば、自分の人生そのものがなくなると言っても過言ではないのだ。強盗は失敗して、もう一度、今度はちゃんと警察に通報してもらえるような強盗を心がければいいのかもしれないけれど、それを実行するだけの気力はもうとうに尽きている。修治は一世一代の勝負に負けて、一人の人間の付属物として生きる道に足を踏み入れたのだ。「それ以外」なんて、ない。あの男に預けた罪の清算だってしていないし、それに──

「……やって、みるけど」

 修治がゆっくりと立ち上がると、マモルくんは修治の腕を伝って肩の上に乗った。他の蜘蛛たちは、事務所と居住スペースを隔てるドアの前で群れをなし、待機している。ドアが開くのを待っているのか、それとも、ドアの向こうを守ることは使命に含まれていないのか。……彼らが守るものはきっと、この場所そのものではなくアーティファクトのはずだから。──諏佐三津丸が作ったものであるならば、三津丸は彼らにそう教えているに違いないから。

 修治がドアの前に向かうと、周囲の蜘蛛はモーセでも目にしたかのように修治のために道を開けた。修治は恐縮しながらその陸を渡り、耳をそばだてる。事務所からは、小さな物音が絶えず聞こえてきた。鳥が窓を破ったのでも、投石されたのでもない。窓は人為的に割られ、部屋に侵入されたのだ。……目的はなんだろう。やっぱり宝石だろうか?

「……ぁ、やっぱねぇよ。フツーの商品と一緒に置くかぁ? アーティファクトなんて──」

 修治は目をみはった。……相手はアーティファクトの存在を知っている。それも、この事務所にアーティファクトの蒐集家がいることを知った上で乗り込んでいるような口ぶりだ。もしかしたら、三津丸の素性を調べ上げてここまで来たのかもしれない。

 ……三津丸は無事だろうか。ただの泥棒だったらまだかわいいものかもしれないが、最初からアーティファクトを三津丸から奪う算段でこんな凶行に及んでいるのだとしたら、身の安全すら保証されない。どうか無事でいてくれ──そう祈る一方で、修治は自分の役割について思案している。

 事務所を漁るだけで終わってくれるなら、まだアーティファクトは無事で済む。だが、少しでも捜索範囲を広げられたら、その時点で詰みだ。事務所と地続きになっているこの部屋を探さないはずはない。殺風景とはいえビジネス用とは到底思えない室内──特にキッチンやダイニングテーブルなんかを見られたら、ここが三津丸の居住空間であることなど一瞬で看破されてしまうだろう。

 もし、と修治は思う。もしあの泥棒がこちら側に入ってきたら、自分は何をすべきだろうか。自分には一体何ができるだろうか。扉の向こうから聞こえてくる声は低く、明らかに男の声だ。さらに言葉尻は荒っぽく、しゃがれ気味の声質からは屈強な大男の姿が想起される。武術どころかスポーツすらまともに習ったことのない修治なんか、相手になるとも思えない。それに、単独犯の独り言にしても、あの泥棒の声は大きい。口調だってそうだ。まるで誰かと相談し、意見をぶつけているかのような──電話でもしているのだろうか。だとしたら、どこかに仲間が潜伏していても不思議ではない。

 無意識に、修治は自分の手首を撫でていた。そこには祖父の形見がある。修治のもとに唯一残った財産で──武器だ。

「……私は──」

「ああもうやってらんねぇよ兄ぃ!」

 突如、男の絶叫が建物内に響き渡った。それとほぼ同時に、隣の部屋からひときわ鈍く大きい物音と、細かな金属音が重なる。その音が、小銭やビーズを散らした時の音によく似ていて、修治の呼吸はその瞬間にヒュッと逆流した。

 ほんのわずかな時間だが、それから先の仔細な行動を、修治は覚えていない。

 気づいた時には事務所へと続くドアを開けていて、銃を構えていた。泥棒が入った時にはまだ消えていたはずの電気は点いていて、どうやって形見のブレスレットを〈処理〉したのかの記憶も残っていない。

 ただ、全部自分がやったことなのだろうとは、我に返った瞬間から理解し始めていた。

「……なんだぁ? テメェ」

 侵入者は想定通りの大男だった。長身で、ガタイがよく、和風とも中華風ともつかない作務衣のような衣服を身に纏っている。一発でカタギではないとわかる鋭い眼光と独特の威圧感が、修治の呼吸を真正面から圧迫した。修治は気をしっかりと持ち直すべく拳銃を両手で構え直し、照準を合わせる。

 だが、男は修治の警戒を意にも解さず、自由に動いたし饒舌に喋った。それも世間話でもするかのようにやたらとフランクで、友好の証だと言わんばかりに白い歯まで見せた。さっきまで敵意剥き出しだった男の目が、修治の拳銃をものの数秒見つめただけで、期待の色を帯びていく。

「や、待て。当てる。……お前アレだろ、魔術師だ。だってニオうからな。俺らと同じ、魔術師のニオイだ」

「……魔術師……?」

 修治は懐疑的な目を男に向けた。また知らない言葉だ。魔女とアーティファクトの関係なら三津丸の説明で理解したが、「魔術師」などという言葉は彼の口から一度も出なかった。

「あなたのやっていることは泥棒以外の何物でもありません。……いや、それ以上だ。こんな……こんなひどいこと」

 修治は男に銃口を向けたまま、やりきれなさとともに男の足元を見た。事務所のキャビネットは引き出しを全て引き抜かれ、本体は横倒しになっている。引き出しの中身は──今や全て床の上だ。最初だけは隠密を心がけたのか、引き出しと同程度の横幅を使って整列させられていたようだが、仕事が徐々に雑になり、最後には箱をひっくり返したかのように無秩序にぶちまけられている。

 それらは全て、三津丸が仕入れたであろう宝石だった。

「商売になんねぇってんなら、金は出す。俺らが欲しいのはこの店に溜め込まれたアーティファクトだけだ。それを寄越すんだったら、慰謝料くらいは出してやってもいい」

「……っ、どの口が……!」

「どの口がっつー話なら、お前だって人のことは言えねぇだろうが。お前は諏佐三津丸じゃねぇだろ。諏佐三津丸はアーティファクトの処理もできねぇ言霊師ことだまし──魔術師のなり損ないっつー話じゃねぇか。つまりお前はこの店の主人じゃねぇんだ。雇われ傭兵だかなんだか知らねぇが、他人が人様の店のことに口出すんじゃねぇよ。交渉決裂なら魔術師らしく闘って散れ」

 言うが早いか、男が両手に拳を作りファイティングポーズを取る。そして一呼吸の間に──間合いを詰められていた。

「……!」

 一瞬のことだった。男の顔が目の前にあった。相手が地面を蹴ったのだと脳が遅れて理解しだし、ゆっくりと見開かれた修治の瞳が、振りかぶった男の右手をスローモーションで捉える。

 男は指輪を嵌めていた。ぼんやりと光を放った指輪が徐々に姿を変え、親指を除く四本の指に光輪が跨がった。ナックルダスター──その正式な呼称を修治は知らなかったが、それが人を殴るための武器であることは、見た瞬間に理解した。

 修治は反射的に目を瞑っていた。引き金を引くために用意された覚悟が、一瞬のうちに痛みを耐える覚悟にすり替わる。顔面に一発入るだけで首の骨まで折れてしまいそうな、その強烈な一撃を目の前にしても、修治は正当防衛にすら手を出せなかった。

 命を失うことに対して腹を括った瞬間、修治は「魔術師ってなんなんだ」と思う。魔術師なら人を殴ってもいい、魔術師なら盗みに入ってもいい、魔術師なら不当に奪ってもいい──そんなのまるで、法の外の存在じゃないか。

 法も倫理も平気で犯してまで手に入れたいアーティファクトって、一体なんだ。なんのために存在しているんだ──

「潰れろ!」

 今までとは比べものにならない轟音と衝撃を撒き散らして、事務所のドアが対面の壁まで吹っ飛ぶ。その様子を、ドアのちょうど正面にいたはずの修治は、なぜか事務所の室内──今は既に破られ長方形の抜け穴になった、ドアの真横から見ていた。まるで瞬間移動だ。腰が抜けて、事務所の壁にもたれかかっている。……生きている。殴られてもいない……?

「……ほーお。避けたか。腐っても魔術師ってわけだ。でも次は外さ──」

 長方形の枠の向こうで、男が振り返る。その光景が、無数の黒い虫によって遮断されていく。

 黒光りして蠢く被膜のような集合体が、修治のいる事務所と男の踏み入った居住スペースとを再び分断し、修治を蚊帳の外に置いた。ここからは守護ロボットの守るべき領域だと、そう言っているかのように。

 九死に一生を得て、修治は詰めていた息をゆっくりと吐き出す。……そうして、気づく。床についた手の指先で、何か硬質の欠片を踏んでいた。修治はそれをつまんで持ち上げる。

 ──虫の脚だった。

 それも本物ではない。光沢も適度な重さもあり、何より冷たかった。……石のようだった。

 修治は息を呑んだ。それからふと思い至って、自分の両肩を順に触れる。……いない。

 修治の肩に乗った、「マモルくん」の一匹がいない。

 まともに視界に入れることもできないその事実だけで、修治は自分の無事の原理を悟った。

 ──この人は俺の大事な人。鴉修治は俺の半身だ。

 そうマモルくんに言い聞かせた、三津丸の声がフラッシュバックする。……あれは本当にただの認証だったのだろうか? クローゼットを開けてもいい人間を、ただ一人追加するだけの工程でしかなかったのだろうか? 

 答えは否だ。淡々と行われたあの作業は儀式だったし、言葉は呪いだった。

 自分があの宝石たちと──彼の手元に唯一残った家族の気配と同列に扱われていることに、目眩がした。この命を保つのに必要なコストは、最低限で事足りる。人の爪で傷ついたとしても放っておけば勝手に治る。可愛げも明るさも、利用価値すら欠片ほども持ち合わせていない、愛でられるに値しない木偶人形。

 その双肩にかかる期待が、寵愛が、あまりにも重い。

「なんで……」

 なんでこんなところに来てしまったんだろう、と思う。

 自分の命が惜しいとはこれっぽっちも思っていなかった。こんなゴミ人間、生きている価値などないと自分でも思っていた。

 だから、怖いのは暴力でも武器でもない。この身に降りかかった、理由のわからない愛情と庇護だ。

 修治が死ねば、修治のアーティファクトは三津丸のものだ。守る道理なんかない。あの石でできた蜘蛛に命がないとはわかっていても、あの一匹と自分の命とを天秤にかけずにはいられない。

 ──私はどうしてここにいる?

 その問いに答えられるだけの価値を、修治は自分に見出せない。

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