第8話
二階までの階段を上り、ドアを開けると、ガワからは想像もつかないほど瀟洒な空間が広がっていた。先ほどの宝石店ほどではないにしても、家具の一つひとつにこだわりと品が感じられ、「宝石を取り扱う空間」としてしっかり成立している。大きく息を吸い込むと、クリーンな空気の中に、かすかに紅茶の香りがした。今日からここで暮らすのかと思うと、刑務所暮らしを希望していた修治の自己否定感をもってしても、心が踊った。
……が、さらにドアを一枚隔てた向こう側に足を踏み入れた途端、つい先ほど闇に葬ったはずの「刑務所暮らし」の文字が、修治の脳を高速でよぎった。
「さっきのが事務所の立派スペースで、こっちが俺たちの居住スペースね」
異国風の品のある美青年が、コンクリート打ちっぱなしの部屋で何か言っている。普通だったらもう少しお洒落で個性的な部屋として映るものかもしれないが、この部屋の場合は風化した外観の通りに劣化と埃くささも同居していて、なんとも言えず寂れていた。……たぶん、床だ。
家として貸し出しているコンクリ打ちっぱなしの部屋なら、床はまだフローリングなど別の材質でそれっぽく演出されているだろうと思うが、この部屋にはそれすらない。四方の壁も天井も床も、全方位灰色のコンクリート。テーブルのあたりには申し訳程度にカーペットが敷いてあるが、それ以外は舗装された道路と大差ない。裸足で歩いたら傷がつきそうだし、冷たそうだ。
「……あれ? ここって靴は……」
「ああ、俺は普通に脱がないで生活してたね。スリッパなら置いてあるけど、出す?」
なるほど。修治は頷く。諏佐三津丸は宝石商だ。宝石の産出地が日本である場合など皆無に等しいだろうから、国外にいる時間のほうが長いのかもしれない。今日も帰国したばかりといった口ぶりだった。そう考えると、自分の家など持たずに事務所と同じ場所に居住空間を確保するのは合理的とも言える。いずれにせよ、生活様式はこちらが改めることのほうが多そうだった。
「いえ、お構いなく……。郷に入ってはと言いますし」
修治は胸の前で小さく手を振って、靴のまま居住スペースのさらに奥へと足を進めた。
「キッチンはここね。まあ料理は基本的に俺が作るし、修治さんは出されたもの適当に食べてればいいよ。たぶん刑務所よりはちゃんと美味しいもの出すよ? あとそっち曲がったところがお風呂とトイレ。こう見えてもバスルームとトイレは別だから、そんな気ぃ遣うようなことはないかな〜。あとは……」
三津丸の後ろに着いて、修治は部屋の構造を頭の中に叩き込む。先導された通りにふらふらと歩いていると、リビングの壁に、何か収納らしき扉があるのを見つける。恐ろしく徹底されているなと思うのがこのコンクリートの壁面で、こういった収納部分の扉も、壁に使われている材質と見た感じは何も変わらなかった。取っ手がなければただの壁だと思い込んでしまいそうなほどだ。ここを木材なんかに変えただけでも刑務所感が減ると思うのだが。
「ここはクローゼットか何かですか? 開きますよね、ここ……」
別に開けようとまでは思っていなかった。ただ取っ手があったので指をさしただけ、もっと厳密に言うなら近づいて手を伸ばしただけだった。……はずだ。
「あっ、そこは──」
後方から聞こえてきた三津丸の声は、ひときわ静かで高かった。虚を衝かれた声とでもいうのか──腹の底に隠した思惑の雑味もなく、悲鳴ほど切羽詰まっているわけでもない。諏佐三津丸という人間の素の声を、修治はその瞬間に初めて聞いたような気がした。
そう思った直後のことだ。
ジュッ、という音が身体のどこかで鳴り、何か熱を持ったものが修治の鼻先を掠めた。
その瞬間に修治の視界を真上から下方へ横切ったのは、レーザーのようにやけにはっきりとした光の筋だ。
「………………」
頭の中を真っ白にしたまま、ゆっくりと首を下に向ける。足元に小さな焦げがある。その黒点の発生源を辿るように今度は真上を向けば、もっと大きな黒点が目に入った。……いや違う。影だ。立体的で、実体があり、黒い。部屋の隅に、ひときわ深い陰影を作り出している。
「……」
カタ、と硬質な音が鳴り、黒い物体の頭部が首をかしげるように回った。
目があった。……目が合った。
深い黄色の瞳が四つ。丸い体に横一列に並び、中央の二つは夜行性の小さな猿を思わせるほど丸く、大きい。脚は八本。壁と天井が垂直に交わるその境目で踏ん張りをきかせ、重力に逆らって張り付いていた。小さい躰で、修治のことを高所から見下ろしている。
「……くもだ」
修治は唇を戦慄かせながら言った。蜘蛛というか、タランチュラ。小さいながらも虫にしては明らかに大きい部類だ。およそ生物らしからぬ異型の構造が仔細に見えてしまうぶん、余計に気持ちが悪くなる。
「すっ、諏佐さ、……ここダメです! 助けっ……く、クモが、クモがビーム撃ってきて──っ」
バッと謎の扉から踵を返し、三津丸に助けを求める修治。だが、何かに躓いて盛大に床に転がる。痛みに呻きながらも身体を捩って前進を図り、気づく。……やけに身体が重い。それに、背中のあたりで何かがゾワゾワと動いて……
「ひっ!」
顔を上げると、目の前に蜘蛛がいた。天井にいたのと同じやつだ。床の上をカサカサと這い、修治の顔の二十センチほど手前で止まる。何をするでもなく修治の顔を見つめていたのが救いだったが、その左右から、さらに前方から──ありとあらゆる家具の隙間や物影から同じ形の虫が現れては寄ってきて、修治はいよいよ悲鳴をあげた。……部屋にいるのは一匹じゃない。一匹見たら三十匹いると考えるべきはGだけではなかったのだ。複数いることがわかってしまえば、背中の上でモゾモゾと蠢き、修治の身体に負荷を加えているものの正体だって自ずと知れる。自分の身に現在進行形で降りかかっている災難を俯瞰で想像して、修治は卒倒した。……もう倒れてはいるが。
「はいはいどうどう。みんな落ち着いて〜。この人は泥棒じゃないよ〜。……ほら修治さんも。この子たち別に虫じゃないし、っていうか生き物じゃないし。不潔じゃないよ。自立思考型魔導守護ロボットのマモルくんだよ〜。しかも俺の心のこもった手作り」
ビシャ、と頭から水を浴びせかけられる。気までは失っていなかったので、拷問的な仕打ちに軽く殺意が湧いた。初対面に等しい人間に、しかも自分の家の中で、冷水をぶちまける人間なんかいてたまるか。水を溜めている暇があったら助けろ。
「じり……ロボット? マモルくん……?」
思考を殺意から切り離しても依然としてわけがわからず、大した取捨選択も行わないまま疑問符を並べ立てる。修治が「どれが?」と口に出したところで、ようやく三津丸が反応した。
「全部」
「全部……マモルくんなんですか……」
「だって見分けつかないし、全部同じに作ってるし。もういいや〜って」
未だ蜘蛛が群がり、五体投地の姿勢を崩せないでいる修治の肢体に手をかざして、三津丸が「散れ」と一言口にする。すると途端に修治の身体から一切の重圧が消え、文字通り蜘蛛の子を散らすように、「マモルくん」の大群が修治に背を向け去って行った。三津丸は反応が遅れたマモルくんの一体を指でつまむと、よろよろと起き上がった修治の目の前にそれを突きつけた。
「──見通せ 刻め 虎目石。この人は俺の大事な人。鴉修治は俺の半身だ」
三津丸の言葉に応えるように、眼前に差し出された虫の眼が光る。光線の時とは違って広範囲に散らされた金の光は、シルクを一枚被せるようにして修治の顔全体を柔らかく覆った。
「これでよし。開けてもいいよ。俺のクローゼット」
光が止むと、一息ついて三津丸は言った。彼の手によってつまみ上げられた虫はノールックで後方に放り投げられながらも、無事に八本の脚で着地して物影へと隠れていく。……あのリアルな造形でも三津丸はロボットと言っていたし、今の作業は認証のための登録か何かだったのだろう。これから先はきっと、修治はあの虫に二度と襲われないのだ。三津丸の認めた人間以外触ることすら許されない領域に、修治は踏み入ることを許可されている。
むしろ、見てくれとでも言わんばかりの挙動だ。
「……あの、私があなたの半身って、さっきからなんなんですか」
「その昔、人間には頭が二つ、手足がそれぞれ四つあったんだ。でも、人間は傲慢な生き物だから、神様に逆らって怒りを買い、やがて半分に引き裂かれた。それ以来、人間は神によって引き裂かれた『もう一人の自分』を探して彷徨い歩いている」
「ただの昔話か何かでしょう? ……第一、だからなんだという話じゃないですか。私がもう一人のあなただという証拠なんて、──あなたが私の半身だなんて、考えられません。証明のしようもない。全部法螺と思い込みです」
「修治さんは目がいいから」
まるで自分の目が見えていないかのような言いようだった。水に濡れた前髪から雫が滴り、修治の眼鏡に染みを作る。それを拭うために、眼鏡を外した。もう自分の輪郭すらあやふやだ。
そんな修治の前で三津丸は立ち上がり、クローゼットの前に歩み寄る。
「ほら、見てよ。こんな小さいノブに気づく。引き戸ならまだしも、二センチあるかないかの小さな取っ手だよ。装飾も後ろに同化できるようにアイボリーを使ってるっていうのにさ」
「アイボリー?」
「象牙だよ。もっとも、これはセイウチのだけど」
そう言って、三津丸は自らクローゼットを開いた。
瞬間、修治は言葉を失う。圧倒されていた。
コンクリートの鎧を剥ぎ、修治の前に姿を晒したのは、重苦しい光沢を持つ金庫の数々だった。……衣服なんかでは決してない。ハンガーを引っ掛ける棒の一本もないその空間には、棚の仕切りだけが用意されていた。段だけが作られた収納スペースには隙間なく、まるでパズルのように──大小様々の金庫が隙間なく並んでいる。
……圧倒されていた。たぶん、その中に大事に仕舞われているものの風格に。
「修治さんはこれに惹かれたんだよ。……引き寄せられたんだ。修治さんの目が、心が、身体の全てが──並大抵の嗅覚じゃない。やっぱり修治さんは愛されてるんだ」
その寵愛が俺に向けばよかったのにと、そう言われているようで、胸が苦しくなる。身の置き所がなくなって、頬の肉を噛む。……でも、それでも目だけは離せない。一面の金庫から。──いや、三津丸のその横顔から、だろうか。
諦念に表情を失ったその顔。その瞳。今日目にしたどのジュエリーよりもつくりものめいていて、見る者の心を痛烈に掻き乱す。
そう、まるで──
「アーティファクト……」
「正解」
三津丸が振り返って歯を見せる。たぶん、この瞬間の二人の心は微塵も重なり合いはしない。考えていることなんか全く別──こんな有様で何が「半身」だ。もう一人の自分でなど、あるはずがない。
「どれがいいかな。……これか」
三津丸が金庫のひとつに手をかける。ダイヤル式の錠に指先を沿わせる自分の姿を、三津丸はありありと修治に見せつけていた。煽情的なまでに緩慢な仕草に、修治は無意識のうちに喉を鳴らしていた。
「俺の誕生日は一月三日。ゼロ、イチ、ゼロ、サン……」
「……やめてください。なんで私なんかに聞かせるんです。私は──」
犯罪者だ。強盗だ。声に出して解錠の番号を教えるべきじゃない。一人の宝石商が家に上げていい人間なんかでは決してない。修治は泥棒で、罪人なのだ。まだ禊のひとつも終えていない──
「回す方向は順に、左、左、右、左」
ガチャ、と音を立てて金庫が開く。嘘だろ、と修治の心にさざ波が立った。
無論、全部の金庫がその方法で開くとは思っていない。でも、この金庫だけは確実に開く。今修治の目の前で起こった本当の出来事なのだから、間違いようがない。
……信じられなかった。なんでこんなに大事なものを、こうも簡単に赤の他人に曝け出してしまうんだろう。自分の半身だから? ……馬鹿な。
だって、これは命だ。諏佐三津丸という人間の、生きる意味そのものじゃないか。数がたくさんあるからひとつ失っても構わないとか、そういう次元の話じゃない。
諏佐三津丸はアーティファクトを集めているのだ。世界中を飛び回ってでも、大枚をはたいてでも、人生を賭してでも──それを代価として支払うだけの価値を、三津丸はアーティファクトという存在に見出している。
ひとつだって欠けていいはずがなかった。なのに、こんなにも罪深く薄汚い修治に、この男は己の最も柔らかい部分を見せつける。あまつさえ差し出してくる。いつでも奪っていいんだよと言わんばかりに、慈母の微笑をたたえ、跪きまでして。
「これが俺が最初に手に入れたアーティファクト。俺の実家にあった──たぶん、俺の先祖の遺骨。俺がハタチになる時に譲り受けて……その一年後くらいかな? 実家が燃えた」
「………………は…………?」
淡々と語る三津丸の手に乗った箱の中身は、その言葉の意味を何も解さないかのように優雅に輝いていた。その男の瞳のような、綺麗な碧色。何も聞かされていなければ、何の屈託もなく「あなたみたいだ」と言っていたかもしれない。宝石の美しさの前では、人はどこまでも素直になれてしまう。ついさっきまで軽い殺意を抱いていようが疑わしく思っていようが、修治がそう感じた事実だけは覆せないのだ。
その瞳のように大きく丸い輪郭も。宝石の輪郭を這う蔦のデザインの、上品だけれどどこかミステリアスな雰囲気も。あなたにそっくりだと、似合っていると言えたかもしれないのに。
「エメラルドは幸福と安定をもたらす石だからね。俺が家から持ち出したことで、家のほうが守られなくなっちゃったのかもしれない」
「そんなわけ……」
「ま、いずれにせよさ、燃えちゃったの。全部」
三津丸はなんでもない風に言った。とうに吹っ切れているのか、蓋をしているのか。それすらも修治には判別がつかなかった。
「ホントは修治さんにも見せたかったんだよ? さっき言ってた文献とか色々。でも全部家にあったからさー、もう見せられなくなっちゃってんだよね。炭と灰になったから。だから俺が魔女の末裔だってのが嘘って言われても言い返すだけの材料がないし、それ以上研究することも叶わないわけ。ごめんね?」
謝らないでほしかった。笑顔を見せないでほしかった。その全てが痛々しく映るから。
「でもさ、俺、修治さんには信じていてほしいな。俺が修治さんと一緒だってこと。帰る場所もなーんもなくて、ずっと一人で、縋るものは石ひとつっていうさ。……ね?」
だから修治さんは俺の半身なんだよ。
そう言って、三津丸は修治の濡れた髪をくしゃりと撫でた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます