海が呼んでる

空草 うつを

第六感

 昔から勘は鋭い方だった。

 この道は行きたくないなと思えば、数分後に土砂崩れが起こったり。

 このバスには乗りたくないと乗り過ごせば、そのバスが事故に遭っていたり。


 こういうのを第六感というのだろう。

 子供の頃は皆に危ない目に遭ってほしくないから、よかれと思って察知したことを言えば、周りから気持ち悪がられて避けられることもあった。それからはいくら勘が働いても誰にも言うことなくやり過ごしてきた。


 たったひとり、じいちゃんだけは俺のことを信じてくれた。そうかそうか、って全部受け止めてくれて。目尻に皺を作って、俺の頭をしわくちゃで厳つい手で撫でてくれるんだ。体温は優しかったけど、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回すほど強くて豪快で。でも、話をちゃんと聞いてくれるのが嬉しくて、俺はじいちゃんが大好きだった。



 だから走ったんだ。

 季節外れの雪が散らつく中、先生の制止を振り切って、走る度に背中で跳ねるランドセルが邪魔でその辺に投げ捨てて。

 急な下り坂を一気に駆け降りて、すっ転んで膝とか肘とか体の至る所から血が出てきても、じいちゃんにだけは伝えなきゃって思ったんだ。


 そこにいたらダメだって。早く逃げてって。




 ——真新しいスーツを着て成人式に向かおうと玄関を出た時。

 なんとなく海に行かなくちゃいけない気がした。


 中古の軽自動車に飛び乗って、たどり着いた海に降り立てば、一月の厳寒を纏った風に煽られる。行くのを躊躇っていた海は、信じられないほど穏やかに俺を手招いていた。

 誰もいない砂浜は、打ち寄せては返す波の音だけが響いている。新品の革靴が砂まみれになるのも気にせずに進んで、ふと足元に転がる流木が目に止まった。


 太くてゴツゴツとした流木の大きな節が、厳ついじいちゃんの手に錯覚する。その節に触れれば、荒波に飲まれてきたのかまだ湿っぽい。なのに、昔感じた温もりが伝わってくるのは何故だろう。

 蘇ってくるじいちゃんの優しさが、俺の心を締め付けて、流木をさする手の甲に生温かい雫が落ちた。


「ごめんね、じいちゃん。俺のこと信じてくれたのに間に合わなくて。見つけてあげられなくて」


 十一年前、じいちゃんは津波に飲まれた。

 あの日、大地震が来る直前。嫌な予感がしてじいちゃん家へと走った。高台にあった小学校から海辺のじいちゃんの家まではかなり距離があったけど、知らせなきゃいけないという使命感だけで突き進んだ。

 警報が出て高台へと逃げてくる人を掻き分けていけば、途中で消防団の人に捕まって避難所に連行されて、結局伝えることはできなかった。

 家族総出でじいちゃんを探したけれど、十一年経った今でも行方は分からないまま。



 隣に腰掛けて流木を飽きることなく摩っていれば、近寄ってくる足音がして振り返った。

 アッシュブラウンのミディアムの髪に黒縁眼鏡をかけた男性が、柔和な笑顔を浮かべながら近づいてきた。レンズが縦にふたつ並んだ古めかしいカメラを、腹の辺りで大事そうに抱えている。


鷲尾幸寿わしおゆきとしさんのお孫さんですね?」

「……あなたは?」

香坂こうさかといいます。鷲尾さんから依頼を受けて来ました」


 じいちゃんからの依頼?

 この人は一体何を言っているのだろうか、じいちゃんはもう——そこまで心の中で呟いてから、ふと思った。もしかしたら、この人にも第六感が備わっていて死者と交信ができるのかもしれない。


「それにしても驚きました。鷲尾さんに聞いていた通りで。うちの孫は勘が鋭いから、きっとここに来るはずだって」


 じいちゃんは信じてくれていた。それが俺を再び後悔の渦に突き落とす。砂浜に視線が落ちた俺の頭に、柔らかな体温が沁みる。だが、俺の頭には


「『下を向くのはもう止めろ』って鷲尾さんが言ってますよ」


 香坂さんは、カメラを仕切りにいじっている。時折俺の隣の空間を見てはにこやかに独り言を呟きながら。いや、独り言ではない。

 他人が電話しているのを脇で聞いているみたいな感じだ。香坂さんは明らかに、俺には見えない誰かと会話をしている。


「……じいちゃんがいるんですか? ここに」

「ずっとあなたの隣に座ってます。あなたの晴れ姿を見られてとても嬉しそうにしていますよ」


 いくら目をこらしても、俺にじいちゃんの姿なんて見えないし、声も聞こえない。諦めて、カメラを操作している香坂さんの方に体ごと向き直った。


「それで、じいちゃんの依頼って何なんです?」

「二十歳になったあなたと写真が撮りたいとのことです。アルバムは全て流されてしまったようなので」

「幽霊って、写るんですか?」

「普通のカメラでは難しいですが、この二眼レフなら撮れますよ」


 香坂さんは、カメラマンの他に霊封師という仕事をしているのだそうだ。彷徨う霊魂を写真に封印して居るべき場所に還しているという。

 生前のじいちゃんの写真は、一枚も残っていない。少しずつうろ覚えになっていくじいちゃんの顔をしっかりと思い出したくて、俺は半信半疑ながらも二眼レフに視線を向けた。



 成人式に出席しなかったことを両親にぐちぐち言われたけれど、一枚の写真を見せたらふたりとも目を丸くして俺への不満など忘れたかのように写真に見入っていた。

 穏やかな海をバックに、スーツ姿の俺の頭を誇らしげに撫でるじいちゃんが写っている。優しい顔も温もりも、あの時と何にも変わっていなかった。



 じいちゃんの魂が籠った写真を助手席に乗せて、復興した町を巡るドライブに連れていった。

 忘れてなかった。小さい頃、じいちゃんが運転する軽トラに乗せてもらった時、免許を取ったら俺が運転する車にじいちゃんを乗せてあげるって約束したことを。



(完)


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