ご縁を生きる

人は沢山の人に出会い、そして別れを繰り返し、自分の歩く道を行く。


その中で圧倒的に、人に救われてきた私がいる。

しかしその反面、残念な出会いやもう二度と会わなくてもいいと思う縁も当然ながらある。


今日はそんな人の縁について話したいと思う。



ちょうど去年の8月、転職を果たした。

まあ、特殊な環境で圧倒的な権力を得てしまった残念な上司。


その方にとっては私だけではなく、自分の元を去る部下は全て敵認定するかのごとく、退職願を出してから退職の日を迎えるまで、針の筵のような扱いを受けるのである。


逆にそれを知っているからこそ、辞められないという選択の人もいた。

紛れもなく自分もその一人だったのかもしれない。


それでも辞める決意をし辞めた。


しかし副業で作家をしており、元職場に作品の販売を委託していた。

委託までは辞めるに辞められず、作品を置いたままにしていた。


今年4月オーダーが入り、6000円ほどの商品を納品した。

そして先日6.18、売り上げを受け取るために訪問しようとしていた。


その道中で、無意識のうちに話していたのである。

「帰りさ、海によっても良い?瀬織津姫に会いに行きたいんだよね」


おそらくこの時点で何が起きるのか、わかっていたのかもしれない。


お金を受け取りに行くと、私が作って退職時に上司に渡したかった名前入りボールペンを返されたのである。


4月の納品の際、渡してもらえるように頼んでいたのである。

しかしそれは受け取れないと、他者を通じて返された。


そして全てを悟る。

だから、海に行かなきゃ行けなかった訳かと。

足を引っ張る不要な縁を、全て流せと言われていると思ったのである。



私の中では、約1年も前の話。

逆に1年経ってもまだ恨まれているという現状を、思いもよらない形で突きつけられた。


そして考える、とても残念な思考だと。

何故ならずっと強烈なほどの嫌な思いを1年近く抱き、その後も抱き続けるのかと思ったのである。


しかし私は何の感情も持っていない。


自ら迷宮を作っていることに気づけず、それでいて思考は全ての行動にも繋がる。

結果自分自身で迷宮に囚われ、身動きが取れない未来しか生まれないのである。


一方でとてもお世話になった上司がいた。

すぐには感謝の思いを伝えられない時期があったが、落ち着いてから感謝のつもりで贈り物をした。


全く同じパターンである。


しかしこちらの上司は、いつでも力になるから、困った時は連絡してくれと仰ってくれる。


そしてその元上司も出向という形で違う職場環境となり、余裕がなかったタイミングでの私の贈り物を喜んでくれた。


私が作ったグラスでハイボールを今晩から飲むよと言ってくれたことの有り難さが身に染みて、電話を切った後、号泣してしまった。



ここ最近、神託が事実として動き出し、かなり張り詰めていた。

そんなタイミングで是宮の職場の方が、私に会いにきてくれた。


そのメンバーの中には県外出身者もおり、その人がこの土地の神様を連れてきてくれるのではないか?と、是宮は話していたのである。


初対面まで邪魔されてる?と思えるほどメンタルは追い込まれ、そして会いたくないと思ってしまうほどの行き違いもあり、暗雲が見えていた。


しかし仕事が多忙となってしまい、なかなか来れないでいた是宮が来ているタイミングで初対面が叶った。


そしてお互い先を見据えて切磋琢磨出来そうな出会いとなり、同時にやはり、神様を連れてきてくれていたようだった。


それは玉姫命と塞の神。


そして巡り巡って比留胡神社のエピソード、『始まりから終焉までのシナリオ【分かれ道】』の話となる。


その夜教えられた言葉がある。


全て人の縁で廻っている。

ご縁に導かれてくる神も居る。

だからこそ人を粗末にしてはいけない。


人を粗末に扱うことは、神を粗末に扱うことに等しい。


その人にはその人の宇宙がある。

その人の宇宙を否定すれば、自分の中にある宇宙や、諸天善神まで否定することに等しい。


良いものも、悪いものも存在して成り立つ宇宙なら、その一面だけ見て、切り捨てるのはもったいなくないか?

だから相手を大切にしなければならないのだ。


仰ったのは梵天か、天之御中主神なのだろうか。


これについて桜井は、法華経を元に説明する。


法華経不軽品には、決して人を軽んじなかった不軽菩薩の振る舞いが説かれている。


この不軽菩薩は経文を読む事もなく、修行らしい修行もしない菩薩だったが、会う人ごとに、「私はあなたを軽んじません」と手を合わせて唱えていた。


その結果、人々からは変人扱いされて軽んじられ、石を投げられるなどの迫害を受けたが、それでも石を投げてきた人々に向かって「私はあなたを軽んじません」と唱え続けたと言う。


やがて寿命が尽き、臨終を迎えようとする中、不軽菩薩はそれまで聞いた事がない経文を聞いた。

その経文こそが法華経であり、不軽菩薩の振る舞いは法華経に叶うものだったのだ、と。



私は考える。

いい面、悪い面含めて自分であり、相手なのである。


いつの間にか先入観で、決めつけてしまったり、相手に感謝する気持ちを忘れてはいないだろうか?


相手は今の自分を映す鏡だとして、嫌な感情を抱けば、嫌な感情として返ってくるだろう。

当たり前は存在しない世界。


お陰様の気持ちで、相手を大切にできるそんな世界になることを、神々は望んでいる。

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