第2話 大好きなママを嫌いと言うしかない奈々子

看護師さんが去った後、慎一と京香は、目くばせを交わし、今日、奈々子がやったように、ゴールの線を踏み込むように、せーので病室に足を踏み入れた。



「あ…ママ…。パパ…ねぇ…ここ何処?」

少し、奈々子の顔色が悪い。そして、少し、声が震えている。そんな姿を見て、

「病院だよ」

応えたのは慎一だった。

「えー?なんで?奈々、びょういん嫌い…」


奈々子は、いつも、そんなこんなで、正直だった。


「なぁ、奈々子、パパとママ、奈々子に言わなきゃいけない事があるんだ」

なるべく、重々しくならないように、けれど、1から10まで、すべてを、いかなる嘘も、誤魔化しもなく、奈々子に伝える、それが2人の出した答えだった。

「今日、奈々子が、運動会中に倒れたのは、覚えてるか?」

「うー…ううん。わかんない…」

受け答えは、母親の京香に代わった。

「これから、パパとママが奈々子にお話しするのは、奈々子が悲しいことかも知れない。それでも、伝えなきゃいけないの。聞いてくれる?」

「うん…。幽霊のお話?なら、奈々聴きたくない…えへへ」

こんな時まで冗談を言う奈々子が可愛くて、愛おしくて、つい、泣きそうになった2人。

無邪気な奈々子の反応に、京香は涙は見せないと、慎一と約束していたのに、堪えきれず、何滴も何滴も頬を伝って止まらなかった。こんな時、親は強くなければならない。

子供が1番苦しいのに、1番辛いのに、何の代わりにもなれない親が、泣いてどうする?

その慎一の言葉を思い出し、何とか涙を堪えた。


「パパ?ママ?どうしたの?」

慎一の微妙な表情や、震えるくちびると、ちょっと冷たい奈々子の頭を撫でてくれる京香の手、すべてがいつもと違う…。奈々子は感受性が高く、色んなものに興味を示し、時には、嘘かと思うほど、人の心が解る。

「…パパ、何か…奈々にどんなお話するの?パパとママが悲し事?」

こんな時まで、2人の心配をする奈々子に、決意した心が揺れそうになる。しかし…、


「ん?あぁ…いやぁな…ごめん。奈々子、これからパパとても大事なことをお話しするから、聞いてくれるか?」

「うん。なぁに?」

「奈々子は、心臓が病気になっちゃたんだ。も…もしかしたら、10年…もしかしたら…5年で…死んじゃうかもしれないんだ」

「奈々、死なないよ?だって今苦しくないし、痛くないもん」

「でもね、奈々子、もう奈々子はお友達とかけっこしたり、ドッジボールだって…“運動”って事がもう出来ないんだ」

「え?奈々…走れないの?」

「うん。ラジオ体操も出来ない。そして、これから、この不整脈って言うのを知らせるように、この機械を人差し指に挟んで脈拍数を検知するのを教えてくれるから、いつも24時間付けたままにしないといけない。体育も参加できないし…」

「いや!嫌だよ!!奈々鬼ごっこ好きだの!遊ぶ!」

ベッドの上で堪らず暴れようとする奈々子に、京香が大きな声で制止した。

「落ち着いて!奈々子!少しでも無理したら、奈々子、死んじゃうかもしれないの!そうやって、暴れるだけで、心臓に負担がかかっちゃうの!だから…だから…」


「うわ~~~~っ!!あぁぁぁぁぁぁぁぁぁやだよー奈々死にたくない~!でもみんなと遊びたいぃぃぃぃぃ!!」


慎一と京香は奈々子の泣きじゃくる姿を見て、『なんで…奈々子が…なんで…』そう思わずにはいられなかった。





―五年後―



奈々子は、3歳の時から、ピアノを習っていた。

そして、13歳になった奈々子が明日、10年通っていた、ピアノ教室が閉まる事になり、習っていた人たちみんなで発表会を行う事にしたのだ。

「ねぇ、奈々子、明日のピアノの発表会の為のお洋服買いに行こうっか」

「良いけど、ママ、すぐ自分のもの見ちゃうじゃん」

「ふふふ、ごめんなさい」

「うん。そだね。最後だもんね。可愛いの、買ってね」





次の日、約束通り、2人は百貨店へ出かけた。

「奈々子、このお洋服は?」

「んー、ちょっとフリフリがキツイ!」

「ふふ、じゃあ、これは?」

「うーん…地味!」

デパートをくるくる隅から隅まで回り終えると、

「でもフリフリってこの年齢までかも…決めた!」

最後に決めた洋服は…1番最初に選んだ服だった。

「もう!奈々子ったら」

「ママ怒ってるの?」

「ううん。もっと一緒に居たかったのに、奈々子、決めちゃったから」

「じゃあ、お昼食べたい!あたしもママともっと一緒にいたい!」

いつも、弁護士の慎一は特別忙しいし、高校教師の京香も、担任を持ってから、中々奈々子と一緒に居てあげる事が出来なくなっていた。

「そうね。お腹空いたね。じゃあ、レストラン街にいこっか」

「うん!!」

奈々子は、オムライス…パスタ…とんかつ…お蕎麦…ラーメン…と、レストラン街のすべての店を、ぐるぐる回って見ていた。

「ほらほら、早く決めなさい」

「はいはーい」


こんな風に奈々子と接してあげられる…、京香は何より嬉しかった。


(だって…服も…食事も…すぐ決めちゃったら…ママといる時間が少なくなっちゃう…だからこうして悩んでるふりしてるのに…ママ、ほんと鈍いんだから)

心の中で少しでも少しでも、母親といる時間を引きのばしたくて、奈々子は必死で悩んでるふりをし続けた。


「ほら、奈々子何処するの?」

(ちぇっ。時間切れか…)

「じゃあ、オムライスにする!」

「もう!また最初に見た所じゃない。回るの好きねぇ」


奈々子の想いを知ってか知らずか、京香も、ずっと、それなりの時間にならなければ、奈々子の笑顔を見たいが為に、時間をせかすことはしたくなかった。

それでも、今度の火曜日から始まる中間テストに向けて、やらなければならない仕事が山積みだ。




しかし、この日くらいは、心置きなく、2人の仲の良さが周りにも伝わるような笑顔で、奈々子は大好きなオムライスをほおばり、楽しすぎる一日を過ごした。

「ちょ、奈々子!口の周りケチャップがいっぱいついてるわよ。ゆっくりでいいから奇麗に食べなさい!」

「んんー!だっておいしいんだもん!!」


その声がとても大きく、店員さんの女性の方に笑顔をいただいた。





奈々子は本当に明るい子で、いつも多忙な慎一と京香を癒していてくれた。

保育園に一番遅くまで預けていることがほとんどで、

(今日こそ怒るかな?)

何故そう思ったかと言うと、今日で1週間連続最後の一人だ。


「すみません!また遅くなってしまって…」

「あ、お疲れ様です。奈々子ちゃん!ママ来たよ!」

と呼ばれた奈々子は、トイレから出て来たと思ったら、

「ママ!お帰り!奈々、良い子にしてたよ!」

怒るどころか、褒めてと言わんばかりに、良い子にしてましたとアピールした。

その、子供から見ても、母親が一生懸命働いて、ただ、奈々子は奈々子に与えられている慎一や、京香の愛情を、とても素直に受け止めてくれる。遅くなったって、機嫌が悪い時など、数えるほどしかない。涙が出る程愛おしくて、思わず抱き締めた、その時の奈々子の笑顔が、未だ、忘れられない。

(なんだ…五年たっても、奈々子、元気じゃない…笑って、食べて…)





「ママ?」

ハッ。

奈々子の入院中ずっと京香は添い寝していた。

奈々子の声に、慌てて目を開けた。

「ん?なぁに?」

「なんで…泣いてるの?」

(あ…夢…だったんだ…夢…だったんだ…)




『夢だった』

と、未だ頭が追いつかない状況で、五年後の奈々子の笑顔と、違わぬ今の奈々子の笑顔。これが、夢だなんて、信じられない…寿命が同い年の子供とは思えない、そんなリアルな夢に、悲痛な想いと、また、涙が出そうになった。



「ママ?やっぱり悲しいの?奈々…ママが泣いちゃうくらい、奈々…死んじゃうの?」

「ううん!何でもないの。ママ寝ぼけてただけ。ごめんね、起こしちゃって…もう寝なさい明日から、学校通えるわよ」

「…でも…この機械つけて、もう走るも、早足もしちゃだめなんでしょ?奈々…何にも好きな事しちゃいけないんでしょ?」



「奈々子…」



【もともと活発だった奈々子から運動を取り上げる…それはどんなに酷い事だろう?】



京香は、胸が痛くて痛くて仕方なかった。


「…そうね…。奈々子はもう運動は出来ない。それに、お友達とも遊ぶことも少なくなるかも知れない。それでも、パパとママは…ううん。奈々子の事を学校の先生も、お友達も、みんな奈々子が大好きなのは変わらないから、辛いかも知れない。悲しいかも知れない。私がなんで?って思うかも知れない。でも、みんな、奈々子に生きてて欲しいの」


「奈々が…走れなくなったら、かえでちゃんと、スキップしながらおうちに帰れないの?」

「うん。奈々子は運転手さんを雇って、登下校は一人で車で行くの」

「…」

「それから、車にお医者さんにも乗ってもらうから、発作や不整脈が起きたら、すぐ助けてもらう為にね」

「…」



奈々子は隣で横になっている京香から、目線を逸らした。


「奈々子…?」



「…奈々…パパもママも嫌い!ママ嫌い!嫌い!嫌い!!あぁ―――!!!パパは全然おうちに帰ってこないし、ママだって奈々をこんなんにして…奈々の事が、ママ嫌いだから、ママが運動できないようにしたんでしょ!?」


「奈々子!落ち着いて!心臓に悪いわ!」

「うぅ…治してよ…奈々の事が嫌いじゃないんなら、びょうき、治してよ!」

「奈々子…本当にね…奈々子は何も悪い事してないよね。どうしてこんなことになったんだろうね…ママが…奈々子が嫌いなママが、病気もらってあげられれば、すぐにでももらってあげるのに…ごめんね、奈々子…」


奈々子だって解っていた。8歳の子供でも、解っていた。こうなったのは、パパやママのせいじゃない。

でも、心にそれだけの事を受け入れる程の懐など持っているはずがない。奈々子は幼すぎる。


=====================================



奈々子は、本当に慎一と京香に愛をたっぷり注がれ、2人の事が大好きだった。毎日遅くなる保育園の迎えも、どんなに京香が遅く保育園に迎えに来ようが、『待ってる時間も、ルンルンでしたよ』と、保育士の先生が、そう教えてくれた。そんな奈々子の笑顔が、慎一と京香の力となり、多忙の日々を1日1日を乗り越えられた。そして、本当に…本当に可愛くて、愛おしく思った。

でも、夜、慎一はとても優秀な弁護士だったため、多忙極まりなかった。帰ってくるのは、毎日深夜1時や2時だった。

奈々子は、夜、パパに会えないなら、朝、早く起きれば良いんだ!と思い付き、保育園児が起きるには早過ぎる…と言っても良い、4時に、目覚ましをセットして、慎一が起きた音を耳が察知すると慌ててベッドから飛び起き、パジャマのままで階段を降りる。


「パパ、おはよう!奈々も、一緒に朝ごはん食べたい!」

「奈々子ー!ありがとう!昨日も遅くなってごめんな。本当は大人のパパが奈々子に合わせなきゃいけないのにな。うん。一緒に食べよう!」

「ううん!ママが言ってた。パパのお仕事は、いろんな人を助けるお仕事だって。自慢していい?ってママに聞いたら、『それは駄目』って言われちゃった。どうして?」


「そうだなぁ…例えば、楓ちゃんのお父さんも、設計のお仕事をしててな、それは、こうやってパパとママと奈々子が住んでる、おうちを建てるお仕事なんだ」

「そうなの!?楓ちゃんのパパ、すごいね!」

「そう思うだろ?」

「うん!すごく思う!」

「だからね、ママもパパに負けないくらいお仕事してるし、奈々子を保育園に一番遅くなることがいっぱいあるけど、だけどな、その時、ママは思うんだ。“奈々子、ありがとう”って」


「他にも奈々子の友達の全員のパパやママが一生懸命、働いているからって、みんな競争をしてる訳じゃないんだよ。だから、自慢は必要ないんだ。お友達みんなのパパとママもすごいんだからな!」

「そっか!そうだね!でも、奈々子の中では、パパとママが1番だよ!」


「「ありがと、奈々子!!」」




―3日後―


「奈々子、お医者さんと看護師さんにお礼言って」

「ありがとう…ございました」


今日、奈々子が退院する。


「奈々子ちゃん、具合、悪くなったらすぐ心臓疾患の専門医の室川むろかわ先生と運転手さんに言うんだよ?」

「…はぁい」 



奈々子は、誰もが解るような不機嫌で、あんなに笑っていた3日前とは、まるで別人の様に、お医者さんにも、慎一が仕事を休めず、京香が一人、迎えに来た。


「先生、ありがとうございました。とりあえずですが、こうして退院できたことにホッとしました。室川先生、これからよろしくお願いいたします」

「はい。奈々子ちゃん、苦しくなったら、僕にすぐ言ってね」

こくん。首を縦に振ると、ムスッとした顔で、車が入り口に到着すると、さっさと1番最初に乗り込んで、窓の外を眺め、京香の顔すら見ない。


それは、『ママ嫌い』そう言われた次の日から、続いた。時々慎一や京香を困らすような我儘など、月に1~2回なのに…。

けれど、そんなことはどうだっていい。怖いのは、その反発で無理を…いや、こんな小さな子が、すぐ走るのを止めたり、今までの生活とはまるで違う日々をやけにならないでいられるか、…という事だった。ぐれる…とも違うけれど。



しかし、8歳の奈々子はにこりともしなくなった。



だって、大好きなはずだった、パパとママさえ、奈々子から見れば、奈々子から運動を取り上げた大泥棒だ。

だって、目覚めた時、2人は奈々子が死ぬかもしれないのに、奈々子の部屋にいてくれない。きっと、いつもみたいに、もうパパは出かけたし、ママもこんな時でも、いつもと一緒。


奈々子は、激怒した。


「奈々子…」

「ん?なあに?奈々子」

パパが食べた後かたずけをしている。

「奈々子が…死ぬかもしれないのに…パパもママもどうだっていんだね…」

「え?待って奈々子!」

「奈々子はもう死ぬんでしょ!じゃあ、奈々今すぐ死ぬ!!」

そう言って、家の中を駆け回った。

「先生!先生!助けてください!!」

そう、室川のピッチに連絡があり、室川が慌てて奈々子を抱きしめた。

「奈々ちゃん、落ち着いて。心臓が止まっちゃうよ!!」

「良いもん!良いもん!どうせ奈々…死ぬんだから!!もう良いもん!!!」

暴れる奈々子に急いで鎮静剤を打った。

そして、京香は、泣いて座り込んでしまった。


「申し訳ありません。いつも通りに生活できた方がよいのではないかと、我々の判断の甘さでした…」

「私たちがいけないんです。あの子、物分かりがよくて、保育園のお迎えも1番遅くなっても、ほとんど怒らなくて…、そんな優しい子がこんな病気になるなんて…そんな事…予想もしてなくて…私たち夫婦の方が動揺してしまうなんてすみません」


「…」


「あの子、外で遊ぶのが大好きなんです。足は遅いんですけど、追いかけっこや、縄跳びが大好きで…な…もので…それが全部できなくなったのが、可哀想で…」

「そうですね…しかし、奈々子ちゃんの為です。まだ幼いですし、やりたいことがたくさんある事は、我々も理解しているつもります。それをすべて奪うのですから、私たちはもちろん、ご両親への反発心も出て来るかもしれません。それでも、奈々子ちゃんをなるべく普通に育てられる状態でこれからも頑張って行くしかありません。私たちも一丸となって、お嬢さんを守ります」



それから、元気いっぱいの奈々子は、可哀想な子になった。

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