1500円の花束を
涼
第1話 寿命
東京の、ある日の昼間。9月6日、風も少し秋の匂いがする。ここ、〔
本当に“運動会”と言う行事を楽しんでいる。
それは、パパやママだって同じだ。こんな時くらい、羽目を外して、童心に帰ろう、そんな、自分も、ここに集まったパパやママが、どうやって我が子の雄姿を写真やビデオで撮る事が出来るか、とキョロキョロしながら、自分たちがちょっと膝を起こし、〔家のママはこっちよ!〕と言わんばかりに、その子の方へ手を振る。そう母親が手を振って、ちょうど振り返るその子のパパが、ベストショットを収めて行く。
「よーい…」
前半クラス対抗の第一組一年生のかけっこがこれから始まろうとしていた。
「どん!!」
先生が、白い旗を上から下にブンッとなびかせた。
途端に、保護者の応援も加速する。
「キャー!」
「頑張れ!
「こっちこっち!
保護者も、またまた、童心に帰ったように、満面の笑みで、我が子に手を振る。
その中で、一際一生懸命歓声を我が子に送る夫婦がいた。
父、
慎一は、弁護士事務所でアシスタント経て、そして、今、個室を与えられる信用のある弁護士として、活躍の場を広げつつあった。
母、京香は、高校の英語教師をしている。2人とも毎日が忙しく、けれど、充実した日々を送っていた。
そして、8年前、医師からのとても嬉しい報告があった。
「赤ちゃんがいます。今、2週目に入ったところです」
2人は目を合わせ、手を握り合った。
まだ、産んでもないのに、何だか希望だったり、夢だったり、幻のような景色に、2人は包まれた。
何故か―…、
京香が子供欲しがっても、京香の体はそれを裏切るばかりだった。そして、不妊治療を重ね、やっと妊娠することが出来た。
不妊治療はすごく大変な事だった。
高校の教師として、多忙な毎日を送っていた京香は、それでも子供が欲しくて、時間を見つけると、不妊治療に時間を割いていた。
その甲斐が、今日、やっと報われたのだ。
「なぁ、京香、生きてて良かったな。俺たちの子供だ…」
京香は、泣いた。
この奈々子の運動会を昨年、2人とも都合がつかず、先生にお願いして、お昼は、お友達の所で食べさせてあげて欲しい、と深々と頭を下げに、学校に申し出ていた。
「大丈夫ですよ。奈々子ちゃんはとても頭の良い子で、しっかりしてららっしゃいますし。一緒に食べてくれる
「あ…そうですか。すみません。気を使っていただいて。奈々子も喜ぶと思います。ありがとうございます。本当は私たちも奈々子の晴れ姿、見たかったのですが、教師と弁護士、となると、中々都合が合わなくて…」
「そうですよね。お気持ち、お察しします。それに奈々子ちゃん以外でも、保護者の方がお見えになれない事も稀ではないので、そこは持ちつ持たれつと言ったところでしょうか」
そう話すのは、奈々子の担任の
35歳で若手とも、ベテランとも言い難い年齢ながら、しっかりはしている。メンタルが強いと言うか、子供たちを真正面から受け止める、みたいなそんな、格好いい先生だ。
と、言う訳で、今年は2人とも休みをいただくことが出来て、ルンルンとビデオを撮りながら、自分が奈々子なんじゃないか…と思うくらい興奮していた。
『これより、2年生のかけっこの始まりです。保護者の方々、皆さんのお子様が一生懸命走ります。どうぞ、応援をしてあげてください!』
そうアナウンスが流れると、本人より、保護者の方が熱くなる。
「よーい…ドン!」
「何処?パパ、奈々子何番目?」
京香は、奈々子を見つける事が難しかったが、なんでもない。すぐに大きな笑いが起き一番遅い走者を見ると、1人、てこてこてこてこ、かけっこと言うよりは、フォームはかけっこだが、只、少し、頑張って歩いていている…そんな滑稽な奈々子を見て、グラウンドは大きな笑いと、我が子より奈々子に目がいってしまう父親や、母親が続出した。
だが、奈々子は、それが自分への笑いだと気付く事も無く、一番最後に白線を超えようとした時、
「せーの!」
と独り言を言って、
「ジャン!!」
そう言うと、両足をぴょんとゴールの白線を超えて見せた。
そして、最後に、ウインクをしながら、腰に手を当て、慎一と京香にピースサインをして見せた。
それに、また大きな笑いが起こった。
慎一も、京香も、もうげらげら笑って、我が子のそんな可愛らしい姿を見たら、笑顔も泣き笑いになってしまう。
【生まれてきてくれて、ありがとう】
そう、心から思う慎一と京香だった。
その少女の名前は、
『児童の皆さん、保護者の皆様、これにて運動会、前半の部が終了いたしまいした。各々、お昼の時間にしてください』
そう、アナウンスが流れた。
「パパ!ママ!」
「奈々子、おいで!」
昨年、2人して、都合がつかず、内田楓と言う奈々子と1番仲の良い、友達と一緒に食べさせてもらった。それが、仕方がない、そんな事にも奈々子はほとんど不満げな顔を見せずに、すくすくと時間がなくても、パパとママは大変なんだ、とこんな8歳の子供が、
奈々子の家は、父親、慎一(弁護士)。母親、
そして奈々子の、3人家族だ。その日は、慎一も事務所を休み、愛娘の奈々子の応援に来ていた。
「ほら、お弁当、奈々子の大好きな、たこさんウインナーよ!」
「わー!4つもある!ママありがとう!!じゃあ、ママとパパが一つずつで、奈々は2個?」
「よーく解ったわね。そうよ」
「奈々上手に言えた?」
「うん、大正解!!」
「ふふふ!やったぁ!」
「さ、食ましょう!」
「こらこら、パパを忘れないでくれ?」
「奈々、忘れてないよ?パパ、ビデオ撮ってくれたんでしょ?いっぱいいっぱいみる!」
奈々子の笑顔に慎一が、
「頑張ったな!奈々。かけっこ、転ばなくて良かったな」
「ぶー!奈々転んだことなんてないもん!パパのバカ!やっぱパパのウインナー、奈々が食べるぅ!!」
「おいおい、勘弁してくれ」
「「「ははははは!!!!」」」
『それでは、児童のみなさん!後半の試合が始まる5分前です。グラウンドに集まってください』
後半も、運動会は賑やかに、朗らかに、楽し気に、過ぎて行った。
その運動会の目玉。最後のプログラム、大玉転がしが行われようとしていた。奈々子は紅組。6年生から順番にゴロゴロと、徐々に頭上で大玉を転がし、下の5年生、4年生、~1年生に大玉を届ける速さを競争する競技だ。大玉が先に白組に届いた。他の競技との結果に基づいて、白組が優勝した。紅組の大玉がやっと1年生に一緒に転んだ時、勝った白組は大きく歓喜に沸いた。そして、紅組はみんな悔しそうにしていた。
『では、皆さんグランドの中心に集まってください!』
そのアナウンスで、児童が集まってきた。
その中で、1人の少女だけ、倒れて動かなくなっていた。
1人の女の子の親が、青い顔をして、呟いた。
「ねぇ、パパ…」
「あ…あれは…」
「「奈々子!!」」
全速力で慎一と京香は奈々子のもとに駆け寄った。
「奈々!奈々!大丈夫!?奈々子!!」
その様子を何かの大事だと、先生たちも奈々のもとに集まった。
「「奈々ちゃん?!」」
沢山の人に名前を呼ばれても、手の指すら動かない。
「救急車!!誰か救急車を呼んでください!!救急車を!!」
京香がそう叫んだ。保健の先生が、脈を取り、必死で心臓マッサージをしたり、人工呼吸をしたり、必死で奈々子の命を救おうとした。そんな、恐ろしい光景に、冷や汗が京香の体を濡らしてゆく。慎一も、何が起き、どうしたら良いのか、解らず、くちびるを噛んだ。
到着した救急車の中で同乗した2人。
慎一は京香の肩を抱き、何とかなだめよとする。しかし、それすらいつ出来なくなるかも解らない心情だった。京香も、ずっと泣いているしかなかった…。
「奈々…奈々…」
何度も何度も祈るように、
慎一も、京香も、『きっと、大丈夫…』そう思っていた。だってさっきのさっきまで元気にピースサインをウインク付きでしていた奈々子が、死ぬはずない。そんな事、絶対ない。
でも動かない、息をしない、脈がどうのこうの、バイタルがどうのこうの、専門用語が飛び交う中、必死で心臓マッサージを続ける救急隊員。
しかし、
「くそっ」
その小さく放たれた言葉に、“最悪”が浮かんだ。それでも、口に出さなければ怖くて仕方ない。
「パパ、奈々子…大丈夫よね?…死んだり…しないわよね?」
「あぁ…しない。絶対死なない」
2人で、互いを互いで落ち着かせる為、何ともなく、寝ているだけ。すぐ目を覚まして、またピースサインをしてくれる。
そう、祈った。
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救急車が病院に着き、すぐさま、手術が始まった。
「ご両親はこちらでお待ちください」
看護師が手術室の手前のベンチの方へ手で促した。
手術は6時間に及んだ。
慎一と京香は1分が1時間の様で、只、願い、祈った。
6時間後、手術室のランプが消えた。そして、医師が出て来た。
「先生…奈々子は…」
「何とか、山は乗り切りました」
「「!!ありがとうございます!!ありがとうございます!!」」
2人は泣きながら、医師にお礼を言った。
しかし、手術は成功したというのに、医師の顔がすぐれない事に、慎一が気付いた。
「先生…まだ…奈々子の事で…奈々子は何の…」
震える手、足、くちびる。引きつる頬。
『助かった…』と安堵していた京香が、慎一のその言葉でどっと不安が押し寄せた。
「え?パパ、奈々子…助かったのよ?どうしてそんな顔するの?」
「診察室でお待ちください」
奈々子はかなり危うくはあったが、何とか命を取り留めた。
目を開けると、両親が奈々子の顔を覗き込み、頬を撫で、
「良かった…助かったわよ…奈々」
「マ…マ?奈々…ここ…何処?」
「病院だよ」
応えたのは父親、慎一だった。
「パパ…?なんで泣いてるの?」
「あぁ…いや、さっきまで、お寿司食べててな、わさびがな…」
震えるくちびるを、何とかこじ開け、
「…キツクてな…涙出ちゃったよ。パパ、おかしいよな(笑)」
「ふふふ。おかしいね。でも、奈々の分は?奈々、お腹空いた」
「そうだな。おうちに戻ったら、いーっぱい食べよう!」
「うん!」
京香は、その笑顔を思わず直視する事が出来ず、そっと半身を逸らした。
けれど、子供と言うのは、親が全てだ。友達はまだ、鈍感で、しかしながら、鋭敏で、命が危ういのは解らないけれど、しかし、“いつもの奈々ちゃんじゃない”と言う勘は、幼ければ幼いほど働く、その鋭敏さで、奈々子の事を“違う奈々ちゃん”と思うかも知れない。
だから…慎一と、京香は、あえて、病気の事を、何も隠さず、話そうと決めた。
「ねぇ、奈々子、運動会の時、何があったか覚えてる?」
「…ううん…わかんない」
「…そう…か…」
いつもと変わらない、奈々子との会話。この子が、今自分の病を知ったら、どうするだろう?何を思うだろう?
怖い…怖い…怖い…、と、2人とも、大人の2人でさえ、心がバラバラになりそうになるくらい、この告白は、怖いものだ。
―1時間前―
「広瀬奈々子さんのご両親ですね、先生がお話があるそうです」
「…あ、はい…」
2人は椅子を、それごと一緒に持ち上げたような重々しい体を、震えながら動かし、医師の待つ診察室に入った。
「お子さんは、心臓に爆弾をお持ちです。『肥大型心筋症』と言う心疾患の一つです。5年、生存率は8割から9割です」
「5年…。生存率は5年で8割から9割なんですか!?じゃあ、10年後は…10年後は?20年後は?…」
「10年を迎えるには可能だ、とは言い切れません。それに、この心臓病は、不整脈が起きれば、かなり危険な病気であることをお伝えしなければなりません。その為、運動はもう出来ないと思っていただいた方がよろしいかと。それに…お子さんは、長くは生きられないかも知れません。わたくしからは、それ以上、申し上げる事は出来ません」
「5年…たった5年…生きられても10年?パパ…どうしよう…奈々子が…奈々子が死ぬなんて…嘘でしょう?ねぇ…慎一さん…」
「京香ちゃん、奈々子に…話そう。今はまだ、何を言っているのか、解らないだろうが、でも、奈々子は、京香ちゃんみたいに強い子だから…」
「そんな…まだ奈々子は8歳よ?10年生きられるか…それすら解らないの!あんな小さな子に、寿命が長くない…そんな事、慎一さん、言えるの!?」
「でも、解ってないと、もし寿命が短いと知っていないと、きっと人生をつまらないものになってしまうかも知れない。病気を知って、中身がいっぱい詰まった人生にしてあげたいと、京香は思わないのか?」
「思うわよ!思うけど…幼すぎるわ…」
「…でも、もう、他のお友達のように走ったり、ドッジボールしたり、鉄棒も、縄跳びも、もう何も友達とは、一緒に出来ないんだ。その理由をちゃんと説明してあげないと、きっと、色んなことを我慢することが出来ないと思う。違うか?」
「…そう…だけど…」
京香は泣いてばかりで、本当ならば、涙を堪え、奈々子に笑って病室に入りたい…そう思っていたけれど、どうしても泣けてくる…。
二人は、一生懸命話し合いをして、それが口論となったり、泣き合いになったり、2人とも、解ってはいても、信じられくて、只々動揺し、泣くしかなかった。
「お嬢さんが目を覚まされました」
そう静かに看護師さんが教えてくれた。
「奈々子が!?」
急いで駆け込もうとしたが、足は一歩も踏み出せない。
『速く会いたい!抱き締めてあげたい!おいしいものを食べさせてあげたい!喉は乾いていないだろうか?お腹は?空いてる?退院したら、たこさんウインナーは何個食べたい?そうだ、あと1週間で誕生日じゃない!おいしいケーキを食べようね。ママ、腕を振るって豪華な料理を作るから。』
『あんなに元気だったのに…。パパは奈々子、お前に代わって死んでやりたい。この命で奈々子を救えるなら、代わりに死ぬことなど、何も怖くない。そうだ!元気になって…もし、元気になって、パパと遊びたくなったら、いつでも遊んであげると約束するよ。弁護士なんていつでも喜んでやめるさ。だから、奈々子、死なないでくれ!』
僕、私たちは―…、
―笑顔で奈々子に会えるだろうか?―
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