第17話 壊れた人形

 年明けの竜ヶ島に、珍しく雪が降った。霧江はセンター試験を目前に控えて神経を尖らせ、家庭の空気をひりつかせていた。恭仁は高校生活を送る傍ら積極的に家事も手伝うことで、義母の負担を減らして精神が安定するよう努めた。


「今日も遅くなりそうだから。夜ご飯は適当に自分たちで食べて頂戴」

「分かりました」


 恭仁は受話器を置くと、キッチンに戻って包丁を握った。俎板で刻む途中の野菜をサクサクと刻み、鍋へと放り込む。霧江が背後で足音を響かせ冷蔵庫の前に立つと、ゴソゴソと中身を漁って叩きつけるように閉ざした。


「お母さん、帰り遅くなるって?」

「そう言ってました」

「自分ばっか遊び歩いて、何考えてんのよ。私も受験前だってのに」


 苛立ちを露わにする霧江の言葉に、恭仁は背を向けたまま答えず肩を竦めコンロの火を見守る。近頃、香織は恭仁に家事を任せて外出し、そのたびに帰りが遅くなって霧江と口論を繰り広げた。利義は警察の職務の忙しさで、今まで彼女に家事を任せて子育ても一手に押し付けたことで、情緒不安定となって家庭不和を惹起した負い目もあってか、気分転換と称する香織の外出に、利義は口出しするのを避けた。


「あんたは何とも思わないワケ?」

「何ともって、どういうことです?」


 霧江はペタリと足音を鳴らし、恭仁に向き直ると蔑むように笑った。


「どこかで男でもできたんじゃないの?」


 霧江が口にした疑念に恭仁は答えず、衣を塗した鯖の切り身を次々に揚げ物鍋へと投じていく。沈黙する両者の間で、油の爆ぜる音がやけに大きく響いた。


「どうして何も言わないのッ!?」

「事実がどうであれ、僕には見守ることしか出来ませんから。。それより出来ることを頑張った方がいい」


 淡々と語る恭仁の背後で、グシャリと紙パックが握り潰される音がした。


「……!」


 霧江の投げつけた紙パックが恭仁の後頭部を打って跳ね返り、床に転げて鈍い音を立てる。恭仁が溜め息と共に振り返ると、霧江は涙を滲ませる顔に憎しみを湛えて、大股で歩み寄った。霧江の突き出す右手の喉輪が恭仁の首を捕らえて、彼女の左手が恭仁の右手を掴むと、油の沸く揚げ物鍋に近づけた。


「こんな生意気な右手、壊してやる。お前も苦しめ……もっと苦しめよ!」


 霧江が覆い被さる姿勢で両手に渾身の力を籠め、恭仁は背後で沸き立つ2つの鍋を避けるように背を逸らした。恭仁が力を込めて、霧江の力を押し留める。


「止めて……霧江、さん……義姉ネエさん……ッ!」

「姉さんって呼ぶなよッ! 気色悪い! 血が繋がってない、赤の他人の癖にッ!」


 霧江が怒りとも笑みともつかぬ顔を恭仁に近づけ、滂沱しながら叫んだ。


……そんなこと、そんなこと僕だって分かってますッ!」


 恭仁は顎を押し上げられた体勢で、左の拳を振った。霧江の側頭部に当たり彼女の力が弱まると、霧江の下腹部へと膝蹴りを入れる。一応、手加減はしたものの霧江は腹を押さえて蹲り、意味不明な言葉で恭仁を罵って泣き喚くと、緩慢に起き上がって自室に歩み戻る。恭仁は当惑して彼女の後姿を見つめていた。


 その晩、霧江は晩餐の場に姿を見せなかった。恭仁は冷めた料理にラップを被せ、1人分の食器だけを洗って居間を後にする。脳裏に谺する言葉と、胸中を蝕む迷いを振り払うように、黙々と風呂を掃除して熱い湯を溜めると、身も凍るように冷たいシャワーで身を清め、熱い湯船に胡坐を組んで黙想した。


 恭仁は風呂から上がり、自室で宿題を済ませ寝台に潜り込む。明かりを落とすと、忘れていたはずの言葉が思い出され寝付けない。静まった部屋に刻々と時が過ぎて、恭仁は瞳を強く閉ざし、早く眠れるように願った。


 夜半。ようやく眠りかけていた恭仁は、ドアノブが回されて押し開けられる微かな音に目を覚ました。寝返りを打って戸口を向き、目を開ける。暗中に誰かが立って、微かな金属音と共に扉を閉めた。恭仁は息を殺して、その姿に目を凝らした。鯉口を切る音の後、風鈴めいた涼やかな鞘走りの音を響かせ、闇の中に白刃が姿を現した。居合の型稽古に用いる模造刀か。亜鉛ダイキャスト製の刀身が朧な人魂じみて揺れ、足音がひたひたと恭仁のベッドに忍び寄る。


「お前のせいだ、お前のせいで父さんも母さんも、みんな滅茶苦茶に……」


 熱に浮かされた譫言のように、霧江はぼそぼそと呟いて歩み、刀を構えた。


「霧江さん、正気に戻ってくださいッ!」


 恭仁は布団を跳ね飛ばして素早く半身を起こし、声を殺して霧江に告げると徒手を構えた。霧江は刀身を振り下ろし、恭仁は咄嗟に両手で顔面を庇うも金属棒の直撃を受け、両腕が焼けるように痛んで身動きが停まった。霧江は模造刀で恭仁を叩き伏せ寝台に上がると、仰向けの恭仁の上に馬乗りになると、柄を逆手に握った。


「死んで」


 霧江は躊躇うことなく、模造刀を突き下ろした。月明かりに煌めく切っ先が恭仁の耳を掠めて、顔の直ぐ横を突き刺すと、霧江は腰の捻りと両手の力で体重を込めて、マットレスをずぶずぶと貫き通していく。恭仁は全身が強張り、冷や汗を噴き出して硬直した。ぬばたまの闇の中で霧江の狂気を孕む双眸が照らし出され、至近距離から恭仁を見つめる。静けさに浅い息遣いが満ちた。


「お前なんか家族じゃない。お前が苦しむところが見たいの」

「霧江さん」

「あんたを傷つけたくて仕方がない。? 


 霧江はゆっくりと顔を近づけた。その顔は笑っているように見えた。


「霧江さん?」


 問い返した恭仁の唇に、霧江は唇が覆い被せて黙らせた。恭仁は驚きの余り全身を強張らせた。霧江は上体を押し付け、恭仁の両手に指を絡めて握ると舌をねじ込み、荒々しく接吻した。鼓動が早鐘じみて打たれ、息が苦しい。


「やめ、やめて……」

「喋らないで」


 今まで聞いたことの無い、獄吏めいて低く鋭い声で霧江が命じた。萎縮する恭仁に霧江は接吻を繰り返すと、半身を上げて右手を伸ばし、喉輪で恭仁の首を絞めながら左手で恭仁の手を引き寄せると、服の内側に差し入れて弄らせた。


 声を押し殺し、永遠にも思える時間が過ぎると、霧江はやがて満足げに立ち上がり不気味な笑みをこぼしながら、夢遊病者じみた足取りで部屋を出た。寝台に横たわる恭仁は恐怖に震え、悲しみに泣き濡らした。


 時が過ぎ、恭仁は冬のビーム射撃大会で初段に上がった。霧江は入試過程を着々と消化し、第一志望である首都圏の国立大学に合格する。彼女は香りに対する疑念など忘れたように、新生活について母娘で楽しげに語り合い、不動産の内見にも母娘とで仲良く連れ立って上京した。恭仁はただ1人、あの夜に刻みつけられた恐怖を誰にも打ち明けられぬまま、暗澹とした気持ちを抱えて日々を過ごした。


 霧江が家を出て新生活を始める日が間近になり、恭仁の恐怖の記憶も薄れようやく忘れられると安堵した夜、彼女は再び寝室へと忍び込んだ。霧江はじっくりと恭仁を甚振り、彼の治りかけた心の瘡蓋を力づくで剥がすと、二度と忘れられぬように傷を深く刻み込んで、翌朝には何事も無かったように清々しい顔で上京するのだった。

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