第16話 操り人形

 盆が過ぎ、竜ヶ島。恭仁は高校の射撃部に入り、補修を受ける傍らピストル射撃に打ち込んでいた。入部を勧誘した先輩部員・岩切や地頭園たちの見立て通り、恭仁は射撃の基礎を教わると、短期間の反復練習でメキメキ上達し、素質を開花させた。


 夏休みが終わり、9月が過ぎ、10月の半ば。


 来る11月中旬の射撃競技会を見据え、恭仁は射撃部の先輩からビームピストルの段級位に挑戦することを勧められた。段級位の取得にはライフル射撃協会への加入が必要で、検定料を支払って段級審査会を兼ねた競技会へと出場し、段級ごとに所定の射撃成績を達成できれば晴れて段級位が得られる。ビームで高段位を得れば協会から低年者推薦が受けられ、エアピストルへとステップアップする道も開ける。


「そのためには、最低でも初段ぐらいは持ってなきゃ話にならないな」


 地頭園が黒ビニールの射手手帳を開いて見せ、恭仁に告げた。地頭園は既に段級を3段まで持っていた。恭仁が訝しんで地頭園を見返すと、彼は肩を竦めた。


「3段の合格ラインは40発で360点だ。これって、結構凄いんだぜ。。この国でエアピストルの所持許可が出る人数は、たったの500人限定なんだ。並大抵の上手さじゃ推薦は出ねえらしいな」

「地頭園先輩は、4段にも挑戦するんですか」

「は? たりめーだろお前。エアピストルの推薦が認められりゃ、竜ヶ島で初めての少年エアピストル所持者だぞ。3段で駄目ならもっと上手くなってやるまでさ」


 地頭園は苦笑に悔しさを滲ませて手帳を仕舞い、恭仁を見上げて肩を叩く。


「ま、お前の腕なら初段ぐらい直ぐだろ。5級から始めて、1級までは同時に試験が受けられる。1級は40発で330点が合格ラインだ。それとな」

「学科試験?」

「確か5級と初段の2回、学科もやらされたっけな。銃は撃てても頭が弱いと段級は渡せないってこった。まあその辺は教えてやるから心配すんな」

「お疲れちゃーん。地頭園クンも倉山クンも、楽しそうにやってるじゃん」


 制服姿で様子を見に来た岩切が、ニヤついた顔で地頭園と恭仁に歩み寄って2人を交互に見る。3年生の彼女は夏の大会を最後に射撃部を引退していた。


「お疲れ様です、岩切先輩」

「お疲れっす。お陰様で、仕込み甲斐があるヤツですよ」

「4月から始めてたら、夏の大会を足掛かりに出来たのにねー」


 恭仁はぎこちない笑みで、岩切と地頭園に応えた。彼が数ヶ月の間にどれほど血の滲む努力を重ね、は、恭仁の胸の内だけに隠された秘密だった。


 部活を終えた恭仁が帰宅すると、居間から義母の話し声が聞こえた。恭仁は緊張に全身を強張らせ、玄関のドアを静かに閉ざし、何度か深呼吸する。


 居間の戸口から恭仁が顔を出すと、義母の香織と霧江の会話が途絶え、変な静寂が生まれる。香織はぎこちなく恭仁から顔を逸らし、声を吃らせた。


「お帰りなさいませ、


 恭仁は平静を努めて香織に一礼しそう告げた。香織は押し黙り、恭仁を尻目に見て何も言わない。互いの緊張感を解そうと霧江が口を開こうとした時、電話機が不意に呼び出し音を響かせる。恭仁は踵を返し、廊下の電話機の受話器を上げた。


「はい、倉山です」

「二階堂です。この声は、?」

「ええ、僕です」

「お父さんが体調を崩してね。入院したけど、日に日に弱っていくばかり」


 二階堂の祖母、志信の言葉に恭仁は驚き、息を呑んで目を見開いた。


「お父さん、寝床でハジメの名前をずっと呼んでたわ。お医者様の話では、後幾ばくも持たないかもって。恭仁さん、最後に顔を見せに来てはもらえないかしら」


 息子の代わりに孫の顔か、随分と勝手な話だ。恭仁は溜め息をこぼした。


「行けると確約することはできませんが、病院の場所は伺っておきます」


 恭仁は傍らのメモ帳にボールペンを走らせ、そっと受話器を置く。ふと視線を感じ振り返ると、霧江が戸口から顔を覗かせていた。物言いたげな義姉の表情に、恭仁は淡々と背を向け、メモ帳からページを千切り取って視線を落とした。


「誰からの電話だった?」


 歩き出そうとする恭仁の足を、霧江の問いが止める。


「……からです」

「何の電話だったの?」

「向こうのお祖父様が危篤だそうです」

「行くの?」

「分かりません」

「分からないってどういうこと?」


 恭仁が手短な言葉で会話を打ち切ろうとする度に、霧江は恭仁を呼び止めるように矢継ぎ早の質問を彼に浴びせた。恭仁は溜め息がちに霧江を振り返る。


「あの人たちに必要なのは、倉山恭仁としての僕ではありませんから」


 恭仁はそう言うと、押し黙る霧江に背を向け、自室へ歩みドアを閉ざした。


 11月初旬、文化の日が土日に付随した3連休。恭仁は朝の飛行機に乗って羽田へと向かい、昼前には調布駅に降り立ち、京王線沿いの総合病院に向かった。


 5階の相部屋に顔を出すと、寝台には祖父のススムが目を閉ざし、弱り切った様子で人工呼吸器に繋がれ、横臥していた。心電図の描く脈拍と心拍数、命の波を描き出す規則的な電子音までも、恭仁には弱々しく感じられ、紙一重の危うさに満ちていた。


「お父さん、肇が来たわよ。お父さん」


 祖母の志信シノブが椅子から腰を上げ、恭仁を座らせると奨の手を握らせた。暫しの時が過ぎ、恭仁の握る奨の手が微かに動いた。呆けた顔が唇を蠢かせた。


「ああ、お父さん。肇よ、お父さん。分かるのね」


 志信は涙を滲ませて喜んだ。この時、恭仁は心を凍らせて、死んだ眼差しでそれを見下ろした。彼が見ているのは、数ヶ月前に寝台に横たわっていた自分自身だ。命にしがみつく生き意地汚い無様な姿がそこにある。生き続けるのは惨めだが、死ぬのは無様だ。死に切れず生き続けるのは何より情けない。恭仁は空想で刀を取り、今生に縋りつく未練がましい首を一息に切り落とし、介錯した。奨はか細く呼吸を続ける。


「…………ッ!」


 恭仁は鎮静剤を静脈注射されたような抗い難い無力感に苛まれ、掠れた声で今にも消え入りそうに呟いた。奨の手から力が抜け、再び夢のまにまに忘我する。


 いっそ心臓が止まり、ドラマチックに心電図が響いたら良かった。。寝台の祖父は生死も定かではない呆けた顔で眠り、辿


 恭仁は無言で椅子を立ち、志信に会釈し病室を出る。志信は恭仁のことなど忘れてしまったように奨の手を握り、眠り続ける顔へと必死に何事か語りかけていた。


 恭仁は調布駅に戻り、駅ビルの花屋で白百合を買うと、北口にあるバス停の34番乗り場から出る京王バスに乗って、深大寺を目指した。二階堂家の墓を冷水で磨き、墓前に白百合と手製のヨモギ団子を備えて合掌する。帰り道に動物霊園へ立ち寄ると名も無い野良猫に手を合わせ、蕎麦を食すと、夕方の便で竜ヶ島へ戻った。


「へえ、倉山クン東京行ってきたんだ。いいなー」


 翌日の学校で、恭仁は調布駅のプリンを手土産に、射撃部員たちへ侘びた。


「やる気あるんだろうな? 手を抜いて痛い目見るのは、お前自身だぞ」

「ちょっと家の用事で。忙しい時期に、練習を休んですみません」


 地頭園の叱責に弁解する恭仁を、伊集院が横目に見た。恭仁の横顔は暗い。


「家の用事って何だよお前。適当な理由こいて誤魔化してんじゃねえか?」

「調布のお祖父ジイ様が危篤だというので、見舞いと、ついでに墓参りに」


 恭仁の言葉に、部室がシンと静まり返る。藪蛇を突いた地頭園が他の部員に咎める目で見られ、彼は舌打ちすると苛立たしい身振りで背を向けた。


「何だよ。だったら、初めからそう言えば良かっただろッ!」


 地頭園は足早に射座に戻ると、ピストルを構えて黙々と撃った。変な空気になった部員たちもまた、プリンを食べ終えて1人また1人と射座に戻っていく。


 それから2週間が過ぎ、射撃競技会の当日。義母に頭を下げ、恭仁は5級から1級の検定料を出してもらって大会に臨み、緊張の面持ちでピストルを握った。その点数は合格スレスレだが、初心者ながら侮れない才覚を遺憾なく発揮した。地頭園は4段を目指すもほんの僅かに点数が届かず、壁の厚さに歯噛みして再戦を誓った。


 その翌日、二階堂奨は年越しはおろか12月も待たず、没した。電話を受けた恭仁は散々迷った挙句、見かねた霧江に発破をかけられ、3度の東京行きを決めた。


 利義と香織に頭を下げて旅費を都合し、学校に忌引の連絡をして、飛行機の空席を探し荷物をまとめると、取る物も取り敢えず調布へと旅立つ。恭仁は、自分が葬式に立ち会うべきか否か、未だ確信が持てずにいた。葬儀場で棺に納められた祖父の姿を見た時、心に沸き上がったのは悼みとも憐れみともつかぬ形容不能な感情で、強いて言えばに似ていた。


 火葬を終え、親族に混じってお骨を拾う恭仁の胸中は、どうしようもない場違いの白々しさで満たされていた。繰り上げ初七日法要を同日中に済ませ、親族が集まって精進落としを食する輪に混じって、恭仁は静々と料理を食す。他に親戚たちも唐突に湧いて出た、倉山恭仁なる見知らぬ少年の姿に戸惑い、進んで語らなかった。恭仁が視線に気づいて顔を上げると、二階堂家で会った従妹の少女が彼を見つめていた。


「……


 恭仁は言葉の真意を見定めるように、からかうような少女の顔を無言で見つめると無言で溜め息をつき、視線を逸らす。恭仁が怒る代わり、少女の隣に座る兄の少年がぎょっとした顔をして、奥歯を噛み締めると平手を掲げた。


「和葉ッ!」

「殴らないでください」


 睨み合う従兄妹が、思わぬ言葉に驚いて恭仁を振り返った。恭仁は静かに吸い物を飲み干し、器の底に視線を落とす。少年は毒気を抜かれたように、振り上げた片手を握っては開き、手を卸すと少女と顔を見合わせ、神妙になり居住まいを正した。


「悪かった。こいつ、ちょっと空気読めないとこあるから」

「いえ。お気になさらず」


 少年はやり辛そうな顔で少女を小突き、少女は不思議そうに恭仁を見た。


「何で敬語で喋るの?」


 恭仁が翳のある微笑みで告げると、少女は恥ずかしそうに目を逸らす。


「確か竜ヶ島に住んでるっつったな。東京、来るのに時間かかるだろう」

「飛行機で2時間弱ぐらいですよ。飛行場に着くまで1時間かかりますけど」

「ふーん、田舎じゃん」

「そうですね。近くの海に火山の島があって、いつも噴火してます。街中に火山灰が降り積もる時は、車が道路にブラシをかけて掃除するんですよ」

「田舎って長閑だと思ってたけど、意外とデンジャラスな所なんだな」


 都会人には想像もつかないのだろう、従兄妹は困惑の表情を見合わせた。


「交通の便は悪いし、台風の通り道だから時期になると大変だし、不便も多いです。だけど、住めば都って言うんですかね。何だかしっくりくるんです」

「そんな話聞いただけで、田舎とか絶対ムリ。私は東京がいいもん」


 恭仁が俯きがちに答えると、従兄妹はそれ以上何も言えずに押し黙った。


 精進落としを済ませると、一同はお骨を伴い二階堂家へ戻った。床の間には後飾り祭壇に遺影と位牌と骨壺が安置され、二階堂家の親戚に混じり恭仁も線香を上げる。傍らに置かれた空っぽの寝台が、二度と戻らぬ存在、一人の命の喪失を実感させた。いたたまれなくなって居間を出る恭仁の背中を、叔父が呼ばわった。


「恭仁クンだね。いつも竜ヶ島から東京まで来てくれて、ありがとうな」

「お呼びくださって感謝申し上げます。お祖父様が身罷り本当に残念です」

「最後のお別れが出来て、親父もきっと喜んでるよ」


 恭仁と叔父は連れ立って歩み、玄関を出ると忌中の提灯を横目に庭を行く。


「この家は手放そうと思っているんだ。思い出は色々あるが、叔父さんたちには嫌な思い出の方が多いから。こう言っちゃ何だが、


 叔父は門扉へと続く飛び石の只中で足を止め、振り返って屋敷を示した。


「親父が死んでも、お袋は生き続ける。親父が死んだことで、ようやく色んな悩みやしがらみから解放されたんだ。お袋には、叔父さんたちの家に引っ越してもらって、自分の望むように生きて欲しい。お袋に手間かけさせたくないから、深大寺の墓石も仕舞って納骨堂に改葬する。ご先祖様には申し訳ないけど、死んだ人間より生きてる人間の方が大事さ。俺たちの人生を、やっと取り戻した気がするんだ」


 昼下がりの曇り空から、ぽたりと冷たい雨が滴り落ちる。叔父は恭仁に背を向けて腕組みし、片手で顔を拭って鼻を啜ると、無理矢理に笑って振り返った。


「やれやれ……高校生の子供に、俺は何を言ってるんだかな。しっかりしてるキミを見てると、自分の弱音を曝け出してもいいように思えてね。倉山家の教育の賜物ってことなのかな。家のやんちゃ小僧たちにも爪の赤を煎じて飲ませたいよ」


 恭仁は喉の奥に小骨が引っ掛かった心持ちで、肯定も否定もせず目礼する。


「ご心配いただきありがとうございます。それでは失礼します」


 恭仁は一礼して踵を返すと、振り返らずに歩んで二階堂家の門をくぐった。

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