第11話 鬼畜生の血

 数日後。恭仁にとって驚くべきことに、祖父の鉄義が見舞いに来た。雪駄を履いた作務衣姿の背筋は凛と立ち、歩む姿は揺ぎ無し。鉄義が威風堂々たる佇まいで病室に歩み入ると、恭仁と対面する位置にパイプ椅子を引き寄せ、すらりと腰を下ろした。ミル挽きのコーヒーの香りが漂う。鉄義は喫茶店の紙袋からカップを取り出して蓋を外し、ナチュラルのエチオピアモカを啜った。


「僕をお叱りにならないのですか、お祖父ジイ様」


 恭仁が強張った声で問うも、鉄義は黙して答えない。いつもの師範の姿とは様子の違う祖父に、恭仁は困惑した。道場では決して見せない一個人としての祖父の姿を、恭仁はこの時初めて見たのだ。鉄義はじっと考え込んでいた。


「飲むか」


 鉄義は思い出したように、紙袋からもう一つカップを取り出し、押し付けるように恭仁へ手渡した。恭仁が蓋の口からコーヒーを啜るのを、鉄義は静かに眺める。


「武士道というは死ぬことと見つけたり、か。そんな生き方はもう古い」


 鉄義は茶器じみてカップを捧げ持ち、湯気立つ水面に目を落として言った。


「俺たちの先祖、倉山道之助明義の時代、武士は滅んだ。武士道の体裁ばかり拘って過去のに飽き足らず、時代に忘れられた結果……兵どもが夢の跡だ」


 鉄義がカップに口をつけて顔を上げ、恭仁と目線を合わせる。


「お前は武士ではない。自害など笑止千万。自分の生きる時代を忘れるな」


 恭仁はこの時、初めて真の意味での祖父の教えを聞いた。


「子は親に逆らわぬが世の勧め。しかし、子は親に抗うが世の理。、恭仁よ。血の繋がりが親子の全てか、心さえ繋がれば親子たり得るか。お前が如何様に考えるにせよ、等しく親心に偽りは無い」


 勝手なことを。恭仁の心中に記憶と感情が荒れ狂い、彼の顔が自ずと歪む。


「僕は義父トウさんや義母カアさんと、心が繋がっていたとは思えません」


 鉄義は痛恨の極みのごとく眉間に皺を寄せ、ゆっくりと頭を振った。


「利義と香織を責めるな。あれらは、不器用なりに努力した。利義の責任感の強さもあればこそ、早紀恵はお前を兄に託したのだ。香織は倉山家の嫁に恥じぬ辛抱強さで利義に従って、お前を受け入れた。人に言えない悩み苦しみも当然あったろう」

「早紀恵……それは僕の本当のお母様?」

「お前の。利義の妹で、善吉の姉だ」


 鉄義はコーヒーを呷って溜め息をこぼし、懐かしげな顔で宙を見上げた。


「あれは身体が弱くてな。身体の弱さがゆえ心が強く育った。一度決めたら人の話に耳を貸さぬ頑固さがあった。都会に出て、男と結ばれ、やがてお前を身籠った。男は警察官だった。だから信じた。


 鉄義に話し始めに満ちていた穏やかな笑顔は、終わる頃には怨讐を孕む鬼の形相にすり替わっていた。恭仁はコーヒーを半分ほど呷り、鉄義に身を乗り出す。


「お祖父様。僕のの名前は何ですか」


 鉄義が平手を突き出し、恭仁を制した。恭仁は口を噤み、座り直す。


「恭仁よ。お前が産声を上げた時、彼奴はそこに居なかった。酒と女と博打に溺れて借金が嵩めば、悪党と汚れた手を握った。借金取りに極道、腐敗を嗅ぎつけた同僚。彼奴は邪魔者を次々と短銃で射殺し、逃げ切れぬと悟ったら最後は早紀恵に縋った。倉山家に匿ってくれと。呆れ果てた早紀恵が彼奴に三行半を突きつけると、身勝手な恨み言を連ねた挙句の果て、進退窮まった彼奴は自分の頭を短銃で吹き飛ばした」


 鉄義は矢継ぎ早に喋ると、コーヒーを飲み干した。まるで現実味の無い話に恭仁は呆然自失となり、やがて義母の銃に対する過剰反応の理由を悟った。


「彼奴の両親、お前の父方の祖父と祖母は、倅の悪行を恥じ入るどころか筋違いにも早紀恵を詰った。事もあろうに倅が狂ったのは嫁の甲斐性が無い所為だなどと勝手なことを宣いおった。許せぬ侮辱! 俺は嬶と一緒に連中の家に乗り込んで腐れ外道に絶縁を叩きつけると、早紀恵とお前を連れ帰った。それでも早紀恵は彼奴の死に心を病んで、風邪から肺炎を拗らせ呆気なく逝っちまった。お前が2歳の時だ」


 怒りに震える鉄義の手の内で、カップが握り潰されて床に滑り落ちた。


「恭仁よ。俺は彼奴が……が憎い。それでも恭仁、。狂おしいことに!」


 鉄義が顔を覆って悶える姿に、恭仁は頭を振ってコーヒーを飲み干した。


「お祖父様。しかし僕には、だから知る権利がある。義務がある。お父様の名を」

「お父様だと!? 父親の本分を忘れて、お前たちを置き去りにして身勝手に死んだあの人でなしを、それでもお前は父と呼ぶか! あんな畜生に名など無い!」

!」


 口角泡を飛ばして反論する恭仁に、鉄義がやおら身を起こし、掴みかかって恭仁の襟首を締め上げた。弾かれたコップが壁を打ち、飛沫が床を汚す。


「やはりお前は早紀恵の息子だ。人の話に耳を貸さぬ頑固さ、愚かさ……」

「お祖父様、話を逸らさないでください!」


 鉄義は憤懣やる方ない顔で恭仁と額を突き合わせ、剥いた歯の噛み締めた狭間より獣じみた唸り声を上げるも、恭仁は恐れずに鉄義と向き合った。


「名は……その腐れ外道の名は……二階堂……二階堂ハジメ……!」


 鉄義は唾棄するように苦々しくその名を呼び、恭仁を荒々しい手つきで突き放すとバネ仕掛けのように立ち、踵を返して振り返らずに病室を立ち去った。


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