第10話 俎の上の死に損なった鯉
「前から自殺しようと考えたことはあったかい? それとも衝動的?」
「小さい頃から、自分の人生が辛いとはずっと思っていました。けれど自殺を考えるほどではなかったです。死を意識したのは、その時が初めてでした」
寝台に半身を起こす恭仁の答えを聴取しながら、白髪に眼鏡の医者がバインダーの問診表に記入して、頷いた。医者は暫し考え、問診票から顔を上げる。
「自分の腹を刺したのは、確実に死ねると判断してのことかい?」
「僕は武士の家系の末裔ですから、死ぬ時は潔く侍のように切腹すべきと」
「べき? 義務感、あるいは強迫観念に囚われての行動?」
医者がペンの頭を振り向けて問い返すと、恭仁は少し考え頭を振った。
「憧れてたのかも知れません。自分の命を懸けて何かを訴える生き様に」
「しかし、切腹を試したのは悪手だったね。傷が深かったら、腸内細菌から腹膜炎を発症して治療も出来ず、苦しみに苦しみ抜いた挙句に死ぬところだったよ」
医者が毒の強い皮肉を吐いて、恭仁は笑みを強張らせた。恭仁が割腹自殺を試みて学んだことは、人はただ腹を刺しただけで、どれほど凄まじい苦痛を味わうかという点に尽きる。腹を横一文字に割り開くなど不可能だ。脳髄が生きる苦しみを泣き叫び痛感するばかりで、ひたすらに無様だった。胸中は無力感で満たされた。死に遂げる技術も根性も無くて、ただ死に損ないの惨めさが募った。
「今回は命拾いして良かったね。まだ死にたいって気持ちはあるかい?」
「死ぬって苦しいですね。実感しました。切腹する勇気はもう無いです」
「自殺する勇気なんて、持たなくていいんだよ。質問はこれで終わりだ」
問診を終えた医者が病室を立ち去ると、看護師が忌々しげに恭仁を睨んだ。
「お前みたいなのは迷惑なんだよ……命を粗末にするんじゃねえよバカたれが」
恭仁にだけ聞こえる声で忌々しく吐き捨てると、看護師も病室を後にした。
恭仁は寝台で身じろぎし、疼痛を催す腹の縫合痕を病衣の上から摩った。
「自殺する勇気なんて持たなくていい……か」
恭仁は医者の言葉を反芻し、溜め息をこぼした。包丁を持ち出せば何かが変わると思ったか。義母の愛を確かめてみたくなったのだろうか。自分も家族の一員なのだと認められたかったのか。自分が孤独だと認めたくなかった、ただその一心で。
「茶番だな。馬鹿げてる。馬鹿馬鹿しい三文芝居だ」
自殺未遂を表沙汰にしたくない倉山家の根回しにより、恭仁の入院は表向き病気の手術とされた。昼間、担任の白石が病室へ見舞いに訪れた。テニス部の顧問を務める若い男性教師だった。みんなお前を待ってるぞ、早く元気になって戻って来い。彼は持ち前の前向きさと呆れるまでに楽観的な熱血精神で、恭仁を励ました。
「心にもない心配をされるより、100倍マシだよな」
今の恭仁に必要なのは、心配や同情ではない。逆境を跳ね除けて立ち上がる雑草の負けん気と強かさだ。僕は強くならないといけない。割腹自殺で死んだのは幼い頃に泣き腫らしていた己自身だ。痛みを恐れて、戦うことを恐れて、誰かに傷つけられることを恐れて、震え上がり怯えていた弱い自分だ。恭仁はそう考えることにした。
「……倉山クン、意外と元気そうじゃん」
日の暮れかけた空を眺めていた恭仁は、近づく足音と自分を呼ぶ声に驚き寝台から半身を跳ね起こした。腹にズキリと痛みが走り、歯を食いしばる。
「伊集院さん」
短髪で神経質そうな顔の女生徒。クラスの学級委員だ。制服姿の伊集院は学生鞄を片手に提げ、もう片方の手で花束を携えて恭仁の前に立った。
「見舞いに来てくれたんだ。ありがとう」
「別に、あんたのためじゃない。クラスの代表として仕方なくね」
伊集院は不機嫌そうな表情で答えつつ寝台を回り込み、窓際に据えられた床頭台に歩み寄ると、連続飲食店強盗を報道するTVの前に、無造作に花束を投げ出した。
「底辺が底辺を襲っただけの下らない話。底辺に生まれた自分が悪いのよ」
伊集院は報道に軽蔑の呟きを述べつつ、足元に鞄を放ると腕組みしつつ振り返り、恭仁を値踏みする目で見回した。不穏な沈黙に恭仁は無言で目を逸らす。
「……射撃部。倉山クンさ、体験入部に来てたでしょ。私も居たんだけど、倉山クン気づかなかった? 突然大声出して逃げたりして、見てるこっちが恥ずかしかった」
伊集院の有無を言わさず詰るような口調に、恭仁は苦笑いで振り返った。
「今すぐにでも入部させられそうな勢いだったから、つい。親の許しもなしに部活に入ったりしたらさ、武道の稽古を疎かにする気かって怒られちゃうからね」
「倉山クン、私たちもう高校生だよ? いつまで親の言うことハイハイって聞いてるつもりなの? ペットか何かじゃあるまいし、自分の意見は主張しなきゃ」
恭仁が押し黙って頭を振ると、伊集院は腕組みした手の人差し指で二の腕を何度も打ち、片足を頻りに踏み鳴らして貧乏ゆすりし、俯いて喉を唸らせた。恭仁は彼女の苛立ちの正体が分からず当惑する。やがて、伊集院が決然と顔を上げた。
「……倉山クン。本当は病気じゃなくて自殺未遂だって噂、聞いたんだけど」
伊集院は清々しいまでに単刀直入に問う。安直な言い逃れを許さぬ鋭い目つきで。恭仁は暫し彼女と睨み合い、やがて投げ遣りに頷いた。別に隠す気も無かった。
「まあね。キミに説教されるまでもなく、僕も自分の意見を主張したのさ」
恭仁の答えに、伊集院は青褪めた顔で唇を震わせた。何事か訴えようとする吐息は風切り音となって歯の隙間を零れ落ち、声となって意味を成さない。
「わ……私……も」
言葉を詰まらせ震える伊集院の両目に涙が滲む。気づいた彼女は口惜しげに奥歯を噛み締め背を向けて、制服の袖で乱暴に顔を拭うと、平静を装った顔で振り向いた。
「……最ッ低。クラスで死人なんか出したら、みんなの迷惑ってわからないの?」
伊集院は鼻声で恭仁を罵ると、鞄を手にして病室から駆け出して行った。
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