舞台、帰宅、眠り

ムラサキハルカ

舞台、帰宅、眠り

 舞台上。各々少しずつ異なる形のセーラー服を身にまとった少女の扮装をした女性たちが、刀や槍、斧などの武器を手にしている。彼女らの視線は舞台奥、プロジェクションマッピングによって映された巨大な化け物の象じみた太い足に向けられている。地響きのようなBGMがかき鳴らされている最中、女性たちは一様に真剣な表情を象り、共通の敵たる化け物の足に注意を払っていた。


 そんな女性たちの様子を理緒は舞台下最前列から手に汗握り見守っている。頭の中でクライマックスに突入する物語を追いつつ、目は一点に集中していた。

 金色のツインテールに青いセーラー服に身を包んだ女性。亀子という役を演じている最中である彼女の名は、戸田由美。通称ユミちゃん。理緒の信仰の対象である。

 今も舞台上の亀子は化け物への恐れからか、微かに震えているものの、気丈に笑ってみせる。どちらかといえば、可愛らしい顔立ちから漂う勇気に、理緒は既に五回目の観劇であるにもかかわらず打ち震えてしまう。否、五回繰り返しているからこそ、物語に対する理解が深まり、その上で微妙に変わる亀子の演技やアドリブが仄見えもする。

 一舞台毎に研ぎ澄まされている。そんな所感を持ちつつ、率先して化け物へと切りかかる亀子もといユミちゃんの背中をうっとりと眺めていた。


 物販で最初から決めていた予算の範囲で中身がわからないキャラ缶バッジをいくつか購入し、亀子が引けず少しばかり残念な気持ちになりつつも帰途につく。

 電車の振動に身を任せながらSNSを開き、他の人たちがアップした舞台の感想を漁る。公演が終了したばかりなせいか、数はそれほど多くなかったが、同じように帰途についたとおぼしき観劇者たちの文章をいくつかみつけた。

『今日も種子様の殺陣が力強くて、さすがだなって。』

『光線で吹き飛ばされたあとの、ミラ様と美玖ちゃんがお互いに目を合わせるところが、もうわかりあっている感があって最高だった!』

『白百合様と恵理香さんの姉妹喧嘩、剣と剣を合わせて物理的にわかり合ってる感じがして……今までのシリーズの積み重ねがあってこそだけど、もう、私は立てないくらいに感動しちゃって……』 

 徐々に増えていく舞台に対する反応に目を走らせる理緒は、亀子もといユミちゃんについての書き込みが少ないことに眉を顰めた。すぐさまスマホの上で指を滑らし、SNSに文章を投下する。

『今日の亀子さん、穂波様を守ろうと前に出るところで足が震えてた。その時の表情から悲壮な覚悟が伝わってきて最高だった。ホント、今日まで生きてて良かった……』

 月並みにいえば、白い雪に足跡をつけた時のような快感が理緒の心にじんわりと沁みてくる。

 それに対して、ぽつぽつとした賞賛の反応や足の震えの演技に気付いていたという声などがネット上の知り合いや他の観劇者から寄せられる。自分だけの体験ではなかったという点において多少の盛り下がりはあったものの、今度はともにユミちゃんのいいところを見つけてくれた人がいたという喜びが溢れてくる。

 今の私は無敵だ、と理緒は感じた。

 直後、SNS上にアップされたばかりのユミちゃんとユミちゃんが演じる亀子の先輩である穂波役の枝花マオリのツーショット写真を眺める。

『愛する先輩と。残り五公演。一つ一つ頑張っていきたいなって思ってますので応援よろしくお願いします。』

 舞台上では先輩のマオリの方が背が高く見えるが、猫背気味に演技をしているユミちゃんが写真内では姿勢を良くしているせいか逆転している。世界崩壊寸前の過酷な舞台上とは異なり、リラックスした様子で微笑む二人に、心の底から安堵を感じてもいる。

 できれば、末永く仲良くしていて欲しい。そんな理想を思い、写真の中の二人のことを眺めた。


「ただいまぁ」

「おかえりなさい」

 玄関に入ってすぐ、母親がとたとた足音を立ててやってくる。紫のニットにベージュのジーンズを来た母に笑顔で応じ、上着掛けにコートをかける。

「今日も楽しめた?」

「うん、最高だった」

 先程まであった興奮を口頭で伝える。その際、先程まであった熱量をあまり漏らさないようした。全身全霊で感想を伝えると、お母さんが困ってしまうのではないのか、という懸念が、溢れんばかりの情熱を押しこめる。

 洗面所で手洗いを済ませ、居間までそそくさと歩けば、父親がぼんやりとニュース番組を眺めていた。理緒は、ただいまぁ、と口にしてから、テーブルに座りこむ。

「おかえり。今日もまた、劇を見に行ってきたんだってね」

 父は娘へ振り返って、さほど興味なさそうに問いかけてきた。理緒は、うん、とだけ答えて、テレビを覗きこむ。テレビでは議員の不祥事らしきものに対して、識者たちが各々にそれらしいことを口にしていた。毎日不機嫌そうな顔をして大変そうだな、と理緒はぼんやり思う。

 程なくして、母親が温めたたてのビーフシチューとサラダを持ってきてくれる。ありがとう、とお礼を言って、手を合わせる。

「いただきます」

 手早く告げてから、スプーンで掬ったシチューに息を吹きかけ口に含む。牛の旨みとシチューのどろっとした感触とともに、体が温まってきた。先程の二時間ほどで消費された元気が急速に補給されていく。

 おいしい、と口にすると、向かいの席で頬杖をついた母親が微笑んだ。その後ろで、父はいつの間にかチャンネルが変わったテレビを見てさもおかしい気に声をあげている。なんだか、ものすごくほっとした。


 食後、会社での仕事の確認や電車の中に引き続きSNSでの感想の渦に身を任せたあと、母親に促されるまま湧きあがったばかりの風呂をもらう。

 軽く体を洗ってから、足の先からゆっくりと全身を浸からせた。頭の中にある芯が解けていくような感触に身を任せ、天井近くに設けられた電球をぼんやりと眺める。

 一口目のビーフシチュー、ユミちゃんの凛々しい顔、お母さんの嬉しそうなお粗末さまでした、マオリちゃんの横で微笑むユミちゃん、お父さんの同じ劇を見てて飽きないのかという素朴な疑問、果敢に武器を振るったにもかかわらず吹き飛ばされる亀子、書類のミスに対して頭を下げた際の上司に対する申し訳なさ、穂波を守るために怖いのに前に出て行く亀子の姿……。

 諸々の記憶が頭の中を巡る巡る。紐付けられた感情もどこか穏やかなものに変ぜられていた。今日もなかなか大変な一日だった、とぼんやりと他人事のように振り返りつつも、たしかな満足感が胸に満ちていく。

 明日もまた、適当にやっていきたいな、などと思った。


 風呂を出た理緒は、両親におやすみなさいと告げてから、自室に戻ってベッドに転がる。スマホの画面を覗きこんで、増えた感想に身を浸す。急激に押し寄せてくる眠気に身を任せたくなりつつも、頭の中では今後の予定に思いを巡らせた。

 仕事の忙しさと資金的に、この舞台を見られるのはあと一回か二回といったところだろうか。加えて、観劇一回ごとに奪われるエネルギーを鑑みれば、無限に見られるというわけでもないのだから。理緒自身はまだ、二十代だったが、昨今、体力の衰えの足音のようなものを聞きとっている。ゆえに計画的に間を開けつつしっかりと残りの公演を楽しみたかった。できれば千秋楽だけは見逃したくない。ユミちゃん演ずる亀子がマオリを演じる穂波とどこまで高みに上れるのかをこの目でなんとしてでも見たかった。

 全ての公演が終わってしまったら……千秋楽という単語が理緒の頭に浮かび、少し寂しくなる。きっといつものユミちゃんが演じる舞台が終わった時と同様、激しい喪失感が襲いかかってくるだろう。だが、それと同時に次のユミちゃんの活躍への期待も膨らむ。今はまだ、次の出演予定の発表はないものの、ユミちゃんのことだ。次もまたきっと最高の演技を見せてくれるはずだ。そんな確信を抱きながら自らの個人ブログを開く。眠い頭のまま文章を打ちこむ。SNSで書いたことを半ば写したあと、ふと、まだ一箇所、表に出していない感動があったことを思い出し書き加える。脳汁が噴きだした気持ち良さとともに、理緒は意識を手放した。


 *


 スマホの画面をスクロールさせる。巨大SNS上には自らと出演している劇に対する誉め言葉が氾濫していた。舞台の世界観を愛しているゆえか、誹謗中傷はいけないというネットリテラシーがそうさせるのか、否定的な意見は稀だ。その空間に心地良さをおぼえつつも、どこか虚ろさをおぼえてもいる。誉めてもらえるだけありがたい、と頭では理解しているものの、多くの人々の声と、今の自分自身が得ているものの少なさのギャップに擦り切れそうになった。加えて、同じところにいる仲間たちの多くは、自分よりも素晴らしい活躍をしていて、ちょっとした努力では一生届きそうにない有様だ。

 やめちゃおうか。胸の内から浮きあがってきた一言に身を任せたくなる衝動を一瞬だけ受けいれ、そうだよそうだよ、と同意してから、大きく溜め息を吐く。止めたところで、お金や仕事が降ってくるわけではないし、そこからはまた長く苦しい道がはじまるのだと。ただ、次の舞台はまだ決まっていないのでちょうどいいタイミングとも言えた。

 どうしようかなぁ、とため息を吐いたあと、自らの名前と出演した劇の名前でエゴサした際に出てきたブログを開く。そこにあるのも、最近虚ろに思っている誉め言葉の数々だ。文章もどことなく拙く、書き手の情熱ばかりが目立ち少々辟易とする。けれど、

『亀子さんが影芝居でずっと穂波さんを頼るように見ているんだけど、終盤は自分が守るんだっていうみたいに前に出て目を合わせなくなるところに、すごく覚悟と力強さを感じたんだよね。』

 見て欲しかったところだと。ユミは苦笑しながら安堵し、天を仰ぐ。ほんの少しだけ心が晴れた気がした。

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