第75話 黄瀬川(14)
こればかりは、誰かがせねばならぬことだ。
強次郎は、内心の落胆を隠して、
「畏まりました」
こう頷いたことであった。
そんな配下を気の毒そうに眺め、
「…すまぬな。お前ほどの剛の者なれば、さぞや華々しく堀越のほうで暴れたいだろうに。しかしな、今回がことは、俺はお前にしか頼みたくはないのだ…さきほどの滝野氏が連れてきた
大道寺太郎は、告げた。
「なんと…」
これには、強次郎も度肝を抜かれた様子となった。
「伯言という坊主が、滝野の配下にいてなあ。豆州にとても詳しく、まるで地元の者のようでさえある。ここから堀越御所までの経路をつぶさに教えてくれたが、『同道せよ』という殿の誘いを拒んだ」
「…」
「ああした小さな私兵だ。急ごしらえの軍隊だ。『己が主の側を離れられぬ』というのもわかる…しかし、我等を罠に嵌めて自分たちだけが生き残る方便ともとれるな。こちらとしても、寝返る可能性のある兵に、殿と同道してほしくはない」
「…はい」
「ここまで言えば、俺が『お前にしか頼めぬ』と言った理由もわかっただろう。もし、堀越に向かった我が軍になにかあった場合や、滝野の人々が敵方と通じた者たちであったとわかった場合、…遠慮はいらぬ。滝野の者等を根絶やしにせよ。さきほどお前を泣かせた話も、嘘っぱちだ。殺してしまえ」
こう命じた太郎の眼は、さきほどの、泣いた強次郎を見ていた時のようではない。もっと冷え冷えとしている。
強次郎はこれを聞いて、一瞬、とても寂しそうな顔をした。
『滝野義直は、俺を泣かせた話のとおりの人物であってほしい』
と、その表情が物語っていた。
しかし、
「わかりました。必ずや、そのようにいたします」
こう応じた強次郎の眼は、今は強い決意に満ちている。
初めて強面強次郎と会った時、滝野義直は他の人々と同様に、
『あっ、劉備って人に従ってた、あの張飛って、きっとこんな感じ…』
そう思った。
しかし、他の人々と同じようには、あの張飛みたいな人を恐れはしなかった。何故ならば、義直は熊を素手で殴り殺す大男を父に持っていたからである。
――ふうん。俺の父上の、次ぐらいには怖そうな人かなあ。
とつぜん現れた張飛にびびりまくる己が兵士らを尻目に、自分は丁寧に自己紹介やら挨拶なんぞをしながら、義直はぼんやりと、そう思っていた。
強次郎は、己が姿を見て胆を潰す人間を、いくらでも見ている。義直のそんな様子を見て、
――ああ。俺を見ても驚かない。びびらない。きっと、俺の心根の良さを一瞬で見抜いて、心を開いてくれたに違いない。なんて賢い、良い若者だ…
こちらはこちらで、そう勝手に解釈していた。
「大道寺様から、話は聞いておる。困ったことがあったら、力になるから俺に言いなさい」
義直にそう言ったのは、本心からであった。そして強次郎は、義直の左右にいた石頭斎や伯言にも、
「お前たちもだぞ。なにかあったら、遠慮せずに言いなさい」
と、声をかけた。
「ありがとうございます。何卒よろしくお願い致します」
そう素直に頭を下げた滝野主従の姿は、強次郎にとって、好感が持てるものであった。
大道寺太郎の言葉を思い出し、
――この者たちは、良い人たちであってほしい。
強面強次郎は、もう一度そう願ったことであった。
彼等のことをもっと探るために、強次郎は会話を欲した。しかし、彼は弁舌の人ではない。武人らしい話をするべきだろうが、滝野主従には武功がまだない。
それで、
「どんな馬を連れてきたかね? 見せてごらん」
となった。
義直の
「いい馬だなあ。逞しいし、きれいだ。なんという名前だね?」
強次郎が問うと、
「『
義直は答えた。
「ふうん…なにか、
「いえ、なにも…しいて言えば、よく
「あっ、そうか…」
強次郎は、そうとしか言えなかった。
「ならば、こちらの馬は?」
強次郎は、伯言の馬を指さした。
「『
こんどは、伯言が答えた。
「ふうん…なにか、謂れがあるのかね?」
「黒いから、『お前、黒いな』ということで、拙僧がつけました」
伯言が、どこか誇らしげに、そう言った。
『いや、それ、誇るほどのことか?』
強次郎は、内心つっこんだ。
きっと、当人には誇ることなのだろう。和尚は、『いい名前でしょう』という顔をしている。
人よりも、動物のほうが鋭い感覚をもっていることは、よくある。
伯言の馬・
伯言は
「おお、いい子だねえ。俺の正体が、わかるのかい。お前は賢いなあ」
と自ら秣を与え、優しく面倒を見た。そんなふうにして馴れてくると、黒稲のほうでも伯言の心根がわかってきて、彼と離れがたくなったのだろう。今では元来の力強さも取り戻し、伯言がいないと、この馬はとても寂しそうにしているという。
「ならば、こちらは?」
強次郎は、石頭斎の、赤褐色の
「『
「ふうん…赤いからだな?」
「はい。その通りです」
「…だよなあ」
馬の命名は、すべて伯言である。所詮、この男の命名のしかたなんて、こんなものだ。
強次郎は、これらのまったく役に立たない与太話を聞いて、
「ふうん。そうなんだ…」
しか、言えなかった。
今、彼の拝んだ馬は、滝野主従には不相応なほどに素晴らしい駿馬だ。
『
「ふつう、これをつけるか?」
という名前を付ける人々だ。月の夜、『ここで溺れ死んだ母馬が恋しい』と池の水面を眺める子馬を見て『
強面強次郎は、ぼんやりと、
――こやつらに、埋伏の毒なんていう役を任せようという馬鹿はいないだろう…できっこないもの…誰だって、わかる。
そう思って、その場を去ったことであった。
おだやかな風が吹いていた。
潮風だ。
愛鷹山から見る海は、美しかった。
滝野義直の佇む向こうでは、赤く染まった海がのたりのたりとうねっていた。
夕陽を浴びて、海面が、ところどころできらりきらりと光っている。
義直が海を見たのは、今回が初めてであった。
その茫洋たるようすを珍しげに眺める主君を、感慨深げに見つめ、
「今ごろの海とは、よいものですな。とくに、このあたりの海は…」
伯言は、言った。
伯言の正体が誰なのか、滝野義直は知っている。
この男の悲しい過去を、知っている。
だから、今、伯言が義直を見て、誰の姿と重ねようとして目を細めたかも、わかる。
義直は、どこか誇らしくも、身が引き締まる思いもした。無様な姿を、この男に見せたくなかった。
そのくせ、もう誰にも弱いところを見せられぬ寂しさをも、義直は感じた。その寂しさを、彼はあの消えていく太陽の方へと捨てた。
義直のそうした心の動きを知ってか知らずか、伯言和尚は与太話ばかりをして、義直を飽きさせなかった。戦に不慣れな主君に緊張をさせぬようにそうしていることが、義直にもわかっていた。
背後で騒ぐ兵士どもは、伯言和尚の、
「食って戦って、飲んで寝る。戦なんて楽なもんだよ」
という戯言を真に受けて、ただ酒とただ飯目当てについて来た、気の毒な連中だ。今もどこか、物見遊山ののりではしゃいでいる。
こやつらが、
「和尚に騙された!」
と気づくのは、いつになることか。
近いうちである。
(※1) 『
(※2) 『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。