第76話 黄瀬川(15) 豆州・夏増(1)


 その日の夜に、伊勢盛時は黄瀬川を渡った。

 盛時がこのとき動かした兵は、一説に、今川家の加勢も含めて五百人であったという。

 ――この黄瀬川を、こうしたかたちで、また訪れることになろうとはな…

 伯言和尚は、川を渡りながら、そんなことを思った。

 気が遠くなるほどの時を生きて、すっかり癒えた筈の心の傷が、今更ながら再びうずいた。


 「兄上は、俺を受け入れてくれるだろうか?」


 と、緊張した面持ちで『兄』に会いに行くの姿が脳裏に蘇り…、心の中で、

 「ばかばかしいから、おやめなさい! 奥州へ帰りましょう!」

 今になって言っても詮無いことを、その背中に向かって叫んだ。

 そうした痛みを、あれから幾星霜を経た今でも感じるおのれに、和尚は驚いた。

 この伯言和尚という男は、飯を食えば「うまいなあ」と満足し、悲しいことには涙を流し、笑いたいときには腹を抱えて笑うくせに、

 『俺、長く生き過ぎて、心がすり減っちゃったよ』

 と、思い込んでいた。

 繊細なところもあるくせに、

 『俺は、鈍感だ』

 と、そう思い込んでもいた。

 きっと、たくさんの「さようなら」を経験してきたから、そうなったのだろう。

 去ってゆく人々との別れが辛すぎたので、平気なふりをし続けた結果、こうなってしまったのだろう。 

 ふりかえっては悲しい思い出ばかりのこの川に、

 『義直様を、と同じ目には合わせないぞ!』

 伯言は、心に固く誓った。

 なにかが伝わったのだろう。

 黒稲が、このとき、びくりと震えた。

 「…お前、俺の気持ちがわかるのかい。いい子だねえ…」

 愛馬に声をかける伯言のその眼には、温かみがあった。

 安心させるように馬の首を優しく撫でるその手は、かつて数多あまた武士もののふの命をあの世に送った手だ。

 


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 お知らせ


 黄瀬川が出てきましたので、筆者はルビコン川を渡ります。

 滝野家のご先祖様の名を、しっかりと出します。

 既に皆さまお察しの通りかと存じますが、滝野家のご先祖は、皆さまご存知、あの御方です。

 源義経です。

 伊勢盛時が黄瀬川を渡りましたし、川を渡りまくりな回となった『滝野物語』ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。



黄瀬川篇・終わり                 

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豆州・夏増編


 

 足利茶々丸は、その素行の悪さから、父・政知によって牢に入れられていたという。

 『茶々丸』とは、幼名だ。

 政知という男が、どのような眼を茶々丸に向けていたか。あたたかい言葉をかけてやったか。父としての情があったか――今となっては、わからない。

 ただ、押し込められていた牢を抜け出した茶々丸には、影の如くにつき従う男がいた。そのことは、わかっている。早くから茶々丸に通じ、看守を殺したのもこやつであると、世の人は言う。

 名を、遅松策之介おそまつさくのすけという。(※1)

 茶々丸は、策之介をよく信じ、円満院や潤童子を殺害して堀越公方となった後も、彼の言を重んじた。

 ひるがえって――茶々丸は、亡き父の寵臣・外山豊前守らを信用しなかった。茶々丸にとって彼等は、茶々丸の入牢を黙って見ていた人々であった。ために、彼等には恨みしか抱かなかった。

 己が主がそうした心持ちでいるのを見てとった策之介が、或る時、こう囁いた。

 「外山や秋山といった奴輩やつばらは、茶々丸様を差し置いて、潤童子様を堀越公方にしたいと願った者どもです。そのうち、きっとあなた様の災いの種となるでしょう。今は、ただでさえあなた様の足元を固めねばならぬ、大切な時です。佞臣を誅滅ちゅうめつし、正義がどこにあるかを明らかにすれば、豆州の民の心は安堵して、皆あなた様に心服することでしょう。これぞ、かつて漢の高祖が三尺の剣をもって白蛇を斬り、後の覇業のいしずえとした故事に似る偉業です」

 茶々丸は、まったくな無学の人ではなかった。しかし、人にあまり触れていなかった。長いあいだ牢に暮らしていたため、彼のような身分の者によく浴びせられる阿諛追従あゆついしょうにも慣れていない。

 策之介の、いかにももっともらしくおもねった、その言の裏にあるものなんぞ、わからない。

 漢の高祖の名前が出てきたので、己がものすごい人物である気がして、

 「それもそうだ」

 と、茶々丸はいたく喜んで、人をやって、外山たちをことごとく誅殺してしまった。

 こうした粛正は、策之介の言ったとおりの効果を生むことはなかった。

 かえって人々の心は動揺し、豆州を混迷の渦においやった。後世に、『豆州騒乱』と称されるものである。

 いつの世でも、権力闘争は有機的な動きを見せるものだ。その性質上、周囲の勢力と無関係である由もないからだ。豆州の人々も同様であった。長享の乱(※2)は未だ終結していない――或る者は山内上杉家の側につき、また或る者は扇ガ谷上杉家の側についた。堀越公方・足利茶々丸は山内上杉家と連携し、伊勢盛時の属する扇ガ谷上杉氏の陣営と敵対している。

 血族同士で血を流すことも、よくある。

 夏増なつますを守る籠田こもだ氏にも、それが起きた。

 籠田家の当主・籠田師吉こもだもろよしは、豆州騒乱を起こした足利茶々丸を早くから見限り、伊勢盛時と通じていた。外山氏らの悲劇を見てきた師吉である。

 「次は、俺の番であろう…」

 という思いがあった。  

 その動きを察して、師吉を討った男がいる。

 師吉の叔父・師許もろもとであった。

 師許は、遅松策之介を通して茶々丸からの了承を得ると、すぐさま師吉の館を襲撃し、籠田家の師吉派の人々を粛正した。茶々丸は、これをいたく喜んで、籠田家の家督を師許のものとした。

 殺された師吉には息子・師祥もろさちがいたが、敵の凶刃をかいくぐって落ち延びたきり、行方知れずとなっているという。

 


 夏増は、もうすぐそこである。

 「疲れてはおらぬか?」

 強面強次郎は、滝野義直に問うた。

 慣れぬ行軍に疲弊しているであろう彼を、思いやってのことであった。

 「ありがとうございます。大丈夫です」

 しかし、そう応じる義直の眼の下には、しっかりとくまが刻まれていた。

 ――初陣だものな。それにこの若者、が良いかんじがするから、もしかして、今まで野宿なんぞしたことなかったやもしれん。そこいらにごろ寝をし、顔を打つ朝露に目を覚ますなんぞ、これが初めてだっただろうよ…

 強次郎は、気づかわしげに、若者の顔を覗きこんだ。

 そして、

 「休めるときには、休む。動くべき時に、動く…義直どのは、此度こたびの戦いが、初陣ういじんだろう。血気にはやるのもわかるし、功を焦る気持ちもわからなくもないが、まずは後方で俺たちのやりようをよく見ておきなさい。後は長いのだ。生きておればな。だから此度は、目で見て、見習う!…そのようにしなさい」

 そう告げて…呆然たる義直に、こんどは思い出したように強次郎は、

 「命を、軽々けいけいに捨てるなよ」

 武士らしくもないことを言って、立ち去った。

 「ご主君、…わかっておいでと思いますが、あれは意地悪ではありません。真心ですぞ…強次郎殿の仰せの通り、見習うべきです」

 井澤石頭斎は、強次郎の背中を見送る義直へ、こう告げたことであった。


 

 夏増は、堀越御所を見下ろす丘陵地帯にある要衝だ。堀越の様子が手に取るように見て取れることから、盛時等は籠田氏を調略し、茶々丸方はそれを阻止した。

 夏増城に至る途中に、その砦はある。大きな街道から夏増へ抜ける道を抱え込むような造りで建てられたものだ。規模としては大きなものではないが、周囲をぐるりと堅牢な柵で囲まれて、櫓門が行く手を阻んでいた。

 近ごろは、ごろつきのような者どもがそこを守っているので、地元の人々は怖がってそこに近づきたがらない。

 朝まだき――

 強面強次郎や滝野の軍は、この砦を急襲した。

 砦の門扉は、当然、閉ざされている。

 「門が閉まっている? そりゃあ、門だもんな。通せんぼをするために、あるんだもんな」

 強次郎は、門扉の前まで駒を進めると、下馬し、両手に「ぺっ、ぺっ」と唾を吐きかけ、掌にすりこんだ。

 そして、

 「よっしゃあー!」

 と一声、気合を入れると、

 「どぉええいっ!」

 地をも揺るがす大声を上げるや、門扉に体当たりした。

 巨大な岩が、坂を転げ落ちるかのような衝撃であった。丈夫そうな木の扉が、哀れな悲鳴をあげた。

 門の向こうで、

 「うわっ!」

 という小さな悲鳴が聞こえた。居合わせた、気の毒な門番の声であろう。

 「うむ! いける! もういっちょう‼」

 目をぎらつかせて強次郎は呟くや、

 いま一度、

 「どぉええいっ!」

 を、やった。

 轟音が響いて――あとは、扉なんぞ存在しない。あるのは、元門扉であった残骸が転がっているばかりである。

 「うっしゃあー‼」

 強面強次郎は雄たけびをあげ、その配下は、

 「わあいわあい」

 と、歓声をあげた。

 口をあんぐり開けた義直に、

 「…義直様。あれは、見習ってはなりませんぞ。あれは左様、名人芸というのです」

 ぼそりと、傍らの石頭斎が呟いた。


 

 

(※1) 遅松策之介…架空の人名。 

(※2) 長享の乱…扇ガ谷上杉定正が太田道灌を殺したことに端を発した、扇ガ

谷上杉氏と山内上杉氏の戦い。



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