第74話 黄瀬川(13)
――もう、嫌だ。俺が悪いみたいじゃないか…
太郎は、溜息をついた。そして力なく、
「…強次郎よ、いやなのか? 『こんな、ぽっと出の私兵と共に行動するなんぞ、己の武士としての面目が立たぬから嫌だ』というのか? であれば、それは違うぞ。俺は、お前の強さや頼もしさを見込んで、伊勢のお殿様からお預かりした大切な人々を託すのだ。さっきも言ったろう…その滝野義直という若者は、伊勢のお殿様が西国の偉い人から頼まれた人物だ」
こう言った。
すると、強次郎は、凄まじい音をたてながら鼻水をすすり上げ、
「いえ…嫌などと…、さようなことではなく…嫌なことなんぞ、一つもなく…」
だみ声で、そう応じたことであった。
「では、なんだ?」
「いっ、いまどきっ、そんな
強次郎は、涙ながらに語った。
「――…ええっ?」
これには、さすがの大道寺太郎も困惑した。
強面強次郎は、以前に大暴れした地域で、今も恐れられている。
そのうちの或る村で、泣きやまぬ子どもを持て余したその母親が、
「やめなさいっ、でないと、強次郎が来るんだからねっ!」
と叱ったところ、手も付けられぬ様子であった子供でさえも、びびって泣くのをやめた、という逸話を持つ男だ。
武士として、栄誉とされる逸話だ。
そんな我等が誇りの強次郎が、武士の面目でも、名誉でもないことで、かくも心を動かされていた。そして、泣く子も黙る奴のくせに、己がわんわん泣いていた。
これでは、わけがわからない。
――どうしよう? もう、どうしようもない…
その太郎の困惑をよそに、強次郎はぎょろりとした眼をかっと見開くと、
「うちの娘もっ、…俺の顔を見て、怖がって逃げ出す俺のちっちゃい娘もっ、大きくなれば俺を怖がらなくなりますかね…娘が、俺を見ると顔をこわばらせてかかあの背後にまわるあれ、地味に傷つくんですよ…」
こう、吠えた。
男一匹・強次郎が、長年にわたって秘めたる悩みを、力いっぱい吐き出した瞬間であった。
これを聞いて大道寺太郎は、
――そんなこと言われてもなぁ。
こう思った。
太郎には、まだ子供がいない。人の父ではない。
だから、娘に怯えられる父親の切なる願いなんざあ、はっきり言ってよくわからない。
それでも、太郎は、何かを言わねばならぬのだ。
ここで何かを誤っては、強次郎がだめになってしまうのは、容易に想像が出来る。
それを聞いたら、誰もが納得してぽんと膝を打つような、そして強次郎が元気づけられるようなことを言わねばならぬ。
大道寺太郎は穏やかに、そして明瞭に――
「小さな娘さんなんて、どこの家の子だって、そんなものだ。成長して道理がわかるようになれば、自然と父親を尊敬するものさ。俺の親戚のところの娘さんも、そうだったぞ。今では、娘さんも父親を尊敬しているよ」
こう、言いきった。
「…そんなものですか」
「そうだとも。その娘の父親も、はじめは娘さんとうまくいかなくて、しょげていたものだよ」
力強く、太郎は頷いた。
この、『俺の親戚のところの娘さん』が、じっさいにいるかどうか…それを強次郎は、知る
そして太郎は、
「でもな。いいか、考えてもみろ。お前を怖がるのは、娘さんに恐怖心という知恵があるからだ。これが、娘さんをさまざまな悪いものから守ってもいるのだぞ。万一、娘さんにこの宝が備わっていなかったら、大変だ…そうは思わんか。娘さんが、人さらいを警戒せずについて行ってしまったら、どうする? いい年頃になった時に、くだらん男にひっかかったら、お前はどうするのだ?」
こうも、言った。
「そいつは大変だあ。許せませんな!」
万万が一、そうなったときは、娘を害する人さらいを殴り殺し、くだらん男を蹴殺しそうな強次郎は叫んだ。
「そうだろう。恐怖心万歳だ。万々歳だ。娘さんは賢いということだ。これから娘さんが学ぶべきは、『
「おおっ、そうですか…そうだったのですね」
強次郎は、得心がいったように大きく頷いた。今や、彼の心には一条の希望の光が差していた。その光は、明るいほうへと彼を導いている。娘が「おとうさん」と笑いかけてくれる、優しい未来である。
「父親なんて、そんなもんさ。俺は親戚のその親子を見て、『父というものの偉大さとはこういうものか』と、学ばせてもらったね」
「…そうでしたか」
「そうだよ。大丈夫。お前さんは、背中で娘さんにいろいろ語っているよ。いつか、娘さんもわかってくれる。今は、我慢のときだ…」
そうも言い、いまや感極まった様子で、先ほどとは違う理由で泣きそうな虎髭のおじさんを眺めながら、見たことも会ったこともない強次郎の娘に、
――娘さんよ、頼むっ。こいつの愛情、わかってやってくれっ。お前さん、愛されているんだぞっ! こいつの愛情なんか、もう、値千金だぞっ! きっと、お前さんのためならば、こやつは力は山を抜き、気は世を
太郎は、そう強く念じたことであった。
かくの如くのやり取りの後、いろいろと神経を使い果たした大道寺太郎に、もう並の声を出す気力なんぞなかった。
小声でもう一度、こう問うた。
「で…さきほどの話だが、お前、滝野家のこと、頼まれてくれるかね?」
今や、強次郎は元通りの勇士である。今度こそは力強く、
「他の人に頼まれちゃあ、大変だ。そんな健気な若者は、俺がしっかり見守ってやりたいものですな。承知いたしましたっ、この強面強次郎、命にでもご期待にこたえてみせまするっ!」
こちらは、割れ鐘のような大声で誓ったことであった。
強次郎の立ち直った様子に、向こうではらはらしていた人々が、
「やれやれ」
「良かった、良かった」
と安堵している様子を見つめ…、太郎は大きな困難が去ったことを知った。おそらく、今日もっとも大道寺太郎を精神的に追い込んだのは、敵ではない。味方の強面強次郎だろう。
「それとな…お前にだからこそ、ここで先に言うのだが…悪いが、お前が滝野とともに討つのは、堀越の御方ではない」
太郎は、声をひそめて言った。
「と、申しますと…?」
こちらも声をひそめて、強次郎は応じたことであった。
すると太郎は、
「本来はこの話をするために、こうして人々から離れて話をしておるのだ」
と告げて…、
「
堀越公方初代からの重臣の家の名を、口にした。堀越の北東に位置する
「はい」
「これからの戦に介入せぬ約束をしていた籠田氏の当主が、討たれた」
「なんと…」
強次郎は、息を呑んだ。
「敵方も、なかなか食えぬな。思ったように動いてくれぬ。下手を打てば、いままで盤上で差してきた駒が、すべて無駄となりかねぬ…こちらが、じわじわときかせていたはずの毒に染まらぬ奴がいたということだ。堀越御所の御仁を攻めているときに、横っ腹を噛みつかれぬよう、お前たちには籠田氏を討ってもらう」
大道寺太郎は、言った。
(※1) 抜山蓋世。力は山を抜き、気は世を蓋う。項羽の故事より。
(※2) 籠田氏…架空の家名。
(※3) 夏増…架空の地名。
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