第73話 黄瀬川(12)


 「それにしても…、伊勢のお殿様は、口では厳しいことを言いながら、義直様にずいぶん元気づけることを仰っていましたな」

 気を取り直したように、石頭斎は言った。

 「そうだったな」

 「情がある。賢くもある。先に甥御(今川氏親)をお助けになったように、己がと決めたことを実現させるほどに、覇気も持っておいでだ。あれは、たいした人物ですな」

 べた褒めであった。

 「ああ。俺もそう思う――ただなあ…」

 伯言和尚は、さきほどの会話を思い出し、言葉を選びながら、

 「じっさいに顔を突き合わせて、長いこと喋って感じたことだが…、あの御仁はきっと、ときに化けるぞ…」

 そう、告げた。

 その言葉の、あまりの毒々しさに、石頭斎は驚いた。

 「化けるとは、どういうことです?」

 すると伯言は、

 「…人も化けることがあるだろう」

 こう応じた。

 「化けますか」

 「そうさ…人をくらって生きていけば、人だって化けるさ…と言っても、ほんとうに食べるのではないぜ」

 「…」

 「『人を喰う』とは、…たとえばなあ、妻子や友の前で、庭の花なんぞを『美しい』と誉めそやしながら、腹の中では『よし。邪魔になってきたを、そろそろ殺しておこう』と考えることが出来たり、それを実行できるほどの冷たさを持つということだ。いにしえの源頼朝公に出来て、義経公がついぞ出来なかったことさ。その哀れなというのは、遠くにいて、人を喰らう奴のために健気けなげに働いているやもしれぬ。今、目の前にいるやもしれぬ…」

 「…」

 「わかったな」

 伯言は、石頭斎の顔を覗きこみ…、すっかり表情が硬くなった弟子へ、

 「そんな顔をするなよ。世の中っていうのは、いろんな奴がいて、それぞれが外面だけではわからぬものだ。皆、苦界(※1)を生き抜くために、温厚な奴の面や賢い奴の面、したたかな奴の面なんぞを、とっかえひっかえかぶって暮らしているのだ。お前さんだって、患者の前では医者の面を被っていただろう」

 と、言った。

 「そうですね…」

 「盛時公は、それだけ見事な役者であるということさ。あの御立場では、必要なことだよ…考えてみろよ。あのお殿様、生き馬の目を抜く政治の中枢を生き延びてきたのだぜ。並の人間にできることか? それとも、単なる僥倖ぎょうこうか?…俺には、僥倖には見えないねえ」

 その伯言の言葉に、

 「はい。伊勢のお殿様のご才覚であったと思います。到底、並の人間には出来なかったことでしょう…」

 石頭斎は、頷いたことであった。 

 「…いずれにせよ、我々の上に立つ人間のは、よく知っておいた方がいいよ。伊勢盛時という御仁が単純な男ではないということは、覚えておいて損はないね。情があっても、一筋縄ではいかぬ御方だ…どうも、あの御方はまだ何かを腹に隠している心地がするが、それが何なのか、俺にもわからない。なんだろうな…お前、そうは思わないか?」

 「わかりません」

 「そうかい。俺の思い過ごしかな?…まあ、こちらとしては、あの殿様に翻弄されぬようにすることだ」

 「…はい」

 そう答える石頭斎の表情は、暗かった。

 「これだけのことを言って、お前をびびらせておいて、あれだけどよ…言っておくがな、他の奴の下について伊勢盛時公を敵とするよりは、ましだぞ。我々は、我々の立場で、いちばん良い選択をしたよ。それだけは、間違いないね」

 伯言は、そう言った。

 「そうですか…そうですね」

 「ああ、そうだとも。どうせ、自分たちを売りつけるのだ。賢い奴に、高く買ってもらおうぜ。そして、使い捨てにされぬように、上手く立ち回ることだ…俺はさっき、あの殿様にずいぶん役に立ちそうな事を教えたぜ。しまいにはあの殿様、ご自分の行軍の際には側近くにいろ、と俺に言うのだ…それは、丁重に『我が主・滝野義直様のお側にいたい』と、お断りしたねえ」

 伯言は、その時の盛時の表情を思い出し、苦笑いした。

 「なぜ断ったのですか?」

 石頭斎の問いに、

 「それはお前、義直様の価値を高めるためだよ。『拙僧が従っているのは、滝野義直様ただお一人にです』と、いうことだ。盛時公は、義直様を用いなければ、俺の知識を使えない、ということだよ」

 こともなげに、伯言和尚は言った。

 「これはまた、大きく出ましたな…」

 石頭斎は、呆れた声をあげた。

 「『出来る限りのことは、申し上げました。若い主のことが心配なので、お許しください』と言って、頭を下げてきたよ。向こうも、もう十分だと思ったのだろう。俺が義直様の側についていることを、許してくれたよ」



 強面強次郎こわもてすねじろうは、勇士である。

 大道寺太郎の配下で、一番の猛者と言ってよい。

 今、この勇士が泣いていた。大きな、ぎょろりとした眼を真っ赤にはらし、虎髭とらひげを涙に濡らして、泣いていた。

 大道寺太郎は、強次郎とは長い付き合いである。その太郎でも、彼のこんな姿は初めて見た。いつもは眠たそうにも見える太郎の重たげな眼が、今は仰天して、できるかぎりのまん丸に見開かれていた。

 泣きぬれたていとなった勇士が、目の前にいる。

 泣いたわけが、太郎にはわからない。ほんとうにわからない。

 何故といって――大道寺太郎は、強次郎を叱責なんぞしていないのだ。

 太郎は、ただ、彼が面倒を見ることとなった滝野義直を、強面強次郎に側で助けてやってほしいから、

 「これからの者が入ってくるから、お前もよく助けてやってくれ」

 そう言って頼んだだけだ――その結果、かくの如き有様となった。

 まだまだ、強次郎は泣いている。大道寺太郎は、素直に、

 ――こいつを、どうしよう?

 と思った。こちらはこちらで、困惑の態となっていた。

 向こうで、強次郎の家来が、

 「何があったのだろう?」

 「豪傑・強次郎様が泣いていらっしゃる。どんなことを言われたのだろう?」

 と、はらはらした様子でこちらをうかがっている。太郎は、自分が悪いことをした心地となり、居たたまれなくなった。

 「強次郎よ、お前…どうした? 大丈夫か…?」

 心配そうに、太郎は強次郎に尋ねた。

 そんな太郎は、強面強次郎のすべてを知っているわけではなかった。

 人と言うのは、表面だけではそのすべての人格なんぞわからぬものだ。強面強次郎は、見た目こそは『まるで古の張飛翼徳ちょうひよくとくみたいなやつ』なのに、道行く子供が彼を見て泣き出すほどの強面こわもてのくせに、心根こそは、優しいことこの上ない男だったのである。

 彼の好きな物語は、見た目と立場に反して、軍記物語ではない。古今の軍記物語は、それなりには彼の心に響いたものの、彼のなかの一番ではなかった。彼は荒々しい物語とはほど遠い、心やさしいお話が好きであった。

 彼は昔、姉に『源氏物語』を借りて読んでみたことがあるが、光源氏を、

 「なんかよくわかんないけど、器用なやつだなあ。歌とか詠んですげえなあ」

 とは思ったものの、憧れはしなかった。ただただ呑気に、

 「俺は、めんどくせえし、花散里はなちるさと(※2)ひとりにに会えりゃあいいよ」

 と思った。

 強次郎は、花散里みたいな女性が好みで、

 「こういう女の人と一緒になりたいな。どこかにこういう人、いないかなあ」

 と、ただただ念じていた男であった。そして実際はどうであったか…それは、言わぬが花の末摘花すえつむはな(※3)である――ともかく、強次郎は、花散里でなくても細君を大事にした。

 こんな呑気で直情的な、心やさしい男が、

 「零落した家を立て直すため、慣れぬながらも身を鎧い、兵を集めて伊勢公のもとに馳せ参じた若者がいるのだ」

 と、健気な話を聞いたのである。 

 戦場での艱難辛苦かんなんしんくを知っているだけに、この気のいいおじさんは、涙腺が崩壊した。

 「なあ…、お前…どうした? 大丈夫か…?」

 もう一度、太郎は尋ねた。

 「なること、この上なしでござる!」

 流れ出る鼻水を「ずずずっ」とすすり上げて、強次郎は力強く答えた。

 その返答に対して、

 ――うむ…ちっとも大丈夫じゃなさそうだな。

 大道寺太郎は、こう思ったことであった。

 見ると向こうでは、強次郎の家来どもが、さらに顔を青くして、まだ己が主のことを心配していた。



 

 (※1) 苦界…仏教用語で、人間界。

 (※2) 花散里…『源氏物語』の登場人物。良妻賢母型のひと。

 (※3) 末摘花…『源氏物語』の登場人物。不細工な女性であったという。鼻が赤かったため、『末摘花(べに花)』。


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