第72話 黄瀬川(11)
伯言和尚は、ふと思い出したように、
「我が主のご先祖様が、お殿様の夢枕に立たれたと仰せでしたな」
そう言った。
「うむ。そうだ」
頷く盛時に、
「
伯言は、尋ねた。
「…気になるか」
「はい。
伯言はしおらしく、朴訥たる様子で、そう言ったことであった。盛時は、そんな彼の顔を見据えて、
「そんな真剣で、なにもかもを信じるような眼差しをされては、こちらも本当のことを言わねばなるまいよ」
と、小さく苦笑した。そして、
「…お前さんの主には、言うなよ。正直に言うと、似ていなかった。俺は、お前さんの主に、『目元がご先祖と似ている』と言ったが、…本当は、違う。お前さんの主は、ご先祖と同じく精悍な様子だが、どこか優しげな眼差しをしている。
こう言ったことであった。
「…」
「
「ははあ…」
それでも、
「お前さんの主・滝野義直と、同じぐらいな背丈な気がするな…きれいな顔立ちでな。でも、さきほどのあの刀のように、
「…そんな御方でしたか」
そう相槌を打った伯言の眼には、なんとも懐かしいような、感激に満ちた光があった。
「向こうで人を寄せつけなくとも、
盛時は、そう締めくくったことであった。
「そうでしたか…」
何故か、伯言の声が涙に湿っていた。
「お前さんの主に、嘘をついたことになるがな…、必要なことであったと思う。滝野義直という男は、あの若さでとても重いものを背負っている…あれほどの武芸と天才的な知略で世に知られたる英傑の血筋、人々の祈りによって、いままで続いてきた家系。ひと一人で、しかもあの若さで背負うには重すぎる荷だ…だから、奴の尊敬してやまない、ご先祖様の出番よ」
「出番と、仰いますか」
「そうだ。『お前には、尊敬するご先祖様がついているぞ。お前は、ご先祖様によく似ているぞ』…そう思えば、あの若者の力は万人力にもなる。背負ったものも、だいぶ軽くなろうよ」
すると伯言和尚は優しい眼となり、どこかひょうげた様子で、
「いつか、閻魔王に、その嘘を咎められたらなんとなさいますか?」
そう問うた。
これに、盛時は少し考えて、
「…ふん。『兵は
こう言った。
「『詭道』と
伯言がこう返すと、
「こやつ。うまいことを言う」
一同、笑いに包まれたことであった。
「俺は、滝野のご先祖に対しては、尊敬する以外は、憧れる以外は、なんにもして差し上げることができぬ。とうに亡い御方だものな。だがな、そんな俺でも、滝野義直には、なにかしてやれる。見守ることができるし、気が軽くなるなら、少しの嘘だって使う。そういうことだ。所詮、あの御方の実際を知る者は、もう生きていようはずもない…わかったな。お前の主には、黙っておれよ」
ひとしきり笑った後、盛時は怜悧な眼となって伯言を見据え、命じた。
「わかりました」
伯言和尚は頷くと、ふと…無言で庭へと視線をやった。
「――どうした?」
どこか愉快そうに、盛時は問うたことであった。
「あの忍びは…お味方ですか?」
伯言は、庭の方を見やって、問うた。
「そうだよ。お前さんたちは、ほんとうに面白い奴らだ」
盛時は、こんどこそは
「何故、わかったのだ? あれは、よほどの手練れだぞ」
そう問う盛時の眼だけは、笑っていない。
「何しろ、こちらも仲間に忍びがいるゆえ…勘が働きます」
「面白いことを言う」
「…会わせてはいただけませんか?」
「何故だ? 間者が、簡単に顔を晒してよいと思うか?」
この盛時の問いに、
『俺、そやつを、間違ってうっかり殺しちゃうかもしれませんから』
という言葉を吞み込んで、
「我等も、少ないながらも忍びを連れてまいりました。間違って味方同士で殺しあっては、お殿様の御為になりません。せめて一人は顔を晒しあい、合言葉などを決めておくことは、今のうちにしておいた方がよいと存じます…今でしか、もうできぬことでしょう」
伯言は、そう答えた。
「それもそうだ」
盛時は頷いて、その男を呼んだことであった。
小太郎という名の、忍びであった。
齢は、よく分からない。外見は三十路よりも上に見えたが、体の使いかたが、それよりも若い印象を与える男であった。
その後は、行軍の際の話となった。
伯言和尚と言う男が、諸国を渡り歩いてきたことを、盛時は石頭斎から聞いて知っている。
さまざまな土地を知る伯言から聞く、豆州の道、地理、その土地の人々の特性は、盛時にとって値千金のものである筈であった。
もともと、盛時はこのような役目を、伯言和尚や他の滝野主従に求めていたのである。
しかし実際は、伯言はそれ以上のものを盛時にもたらした。
この不思議な和尚は、なぜか道の幅や伏兵が潜みやすい場所など、実際に兵馬を動かす時に注意を払わねばならぬことをよく心得ていて、それを気前よく盛時やその
足利茶々丸の堀越御所までの経路が、伯言によって丸裸となった頃には、伊勢盛時にとってこの和尚は、これから先になくてはならぬ人物となっていたことであった。
伊勢盛時の前を辞した後、にこやかな笑顔をおさめると、
「…なるほど伊勢のお殿様は、あの御方に確かに会ったようだな」
神妙なようすで、伯言和尚はそう独りごちた。
そうして胸中で、彼岸にいるはずのその人へ、いくつもの「何故」を問いかけていた。
戻ってきた伯言和尚に、
「あの後、伊勢のお殿様とはどんなお話をなさったのですか?」
石頭斎は、こう尋ねた。
「うん。昔話だよ。お前のこととかな。なんにも言わないで怪しまれてもあれなので、軽くお前さんの身の上を話しておいた。だから、向こうはお前さんが花田元化の弟子であることぐらいは知っているよ。あと、ここから堀越御所への道とかだな」
「そうでしたか…」
「あとよ、退出するときに庭から人の気配がするのでそちらを見たら、あのお殿様、笑ってさ。『お前は、石頭斎と同じことをした』ってな…お前がはじめてここに来た時も、あの忍びがお殿様を守っていたのか?」
「あの忍びが、私の時と一緒かどうかはわかりませんが、いましたな」
石頭斎は、あの時を思い出しながら、そう言った。
「そやつの顔を拝んできたよ。あと、向こうとの合言葉も決めてきた」
「ありがとうございます…しかし、むこうはよく顔を見せてくれましたね」
「ほんとうにな…お殿様の忍びを束ねる、小太郎という男が出てきてくれたのだ。たぶん、奴にはわかったのだろう。奴の気配を勘づく技術がある俺だ。俺には、奴を殺しうる技術もあるやもしれぬとなあ。そういう計算を冷徹にして、顔を晒した。並の男ではない。相当に場数を踏んだ手練れだぞ…あれは、味方である限り何もしないしないが、敵となった途端に、どんな手を使ってでも俺を殺しにかかるね。青柳の兄弟にも、きちんと合言葉を伝えておかないとな。あんな奴の率いた忍びと同士討ちになったら、目も当てられぬ」
もの思わしげに、伯言は言った。
「して、その合言葉は?」
「え? 『青柳』と、『鶯』(※3)」
「…」
「『お殿様を奉じて戦うのだから、これでどうですか』と言ったら、伊勢のお殿様、笑ってたよ」
(※1) 『孫子』より。詭道とは、人をだますこと。
(※2) ここでは、『参謀など、本陣にいそうな人々』ぐらいの意味でよろしくお願いいたします。
(※3) 『出立(44)』参照。伊勢の和歌、『青柳の糸よりはへて織るはたをいづれの山の鶯か着る』より。
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