第71話 黄瀬川(10)
「お父さんたら、帰る家はここなのにさあ。自分の家で帰らぬ人になるなんて、とんちきな人だねえ…そうは思わないかい、重信」
「…」
重信は、もういちど父親の脈を診てみた。
やはり、重兼はこと切れて、脈はなかった。
「でも、こうして、私たちに死に顔を見せてくれたんだからねえ…こうして、体はここにあるしさあ…」
母の声が、涙に濡れた。
自分の息子のひとりが、見知らぬ土地に、もしかしたら誰からも弔いを受けずに眠っているかもしれない――きっと母は、それを思い出している。
重信の母は、良人の肩を渾身の力でがっと掴むと、
「ねえ、…ねえ、…起きて…」
ゆっさゆっさと揺らした。
悪い夢を見せるうたた寝から、良人を起こしてやろうという仕種であった。
「…もう、父上はほんとうに亡くなったのです。もう、動けないのです。このまま、寝かしてあげましょう…」
涙に濡れた声で、重信は、ようやくそれだけ言えた。
「…そうね…そうだねえ…」
悲しさや寂しさを押し殺して、重信の母は肩をふるわせて泣いた。
そんな彼女は、辛苦に耐えかねて酒に逃げていた良人にも、帰ってきた重信にも、己が胸に出来た腫れ物のことを打ち明けられずにいた。
それでもやっぱり痛いものは痛いので、家にいるはずの息子に見せぬよう、聞かせぬように庭に出てうんうん歯を食いしばって苦しんでいたところ…木刀を振ろうと庭に出てきた重信に、ついにばれた。
「なんで黙っていたんですか…」
重信の母は、なにも言えない。重信も、その
患部を初めて診た重信は、愕然とし…次に、無理矢理に平然とした顔を作った。かつて彼を育ててくれた乳房は、できものによって
声を放って泣き出したいのを堪えて、
「これからは養生してください。もう大丈夫です。俺がいます。母上ひとりが、なにもかもを背負うことはありません。家のことは、俺がやります。この病には、養生がいちばんですよ」
重信は、明るい声をつくって、優しくそう告げた。
そんな息子を見て、
――大人になったねえ。
重信の母は、思った。
――大人の嘘をきちんとつける、大人になったねえ。こういう男に育ったからには、もう大丈夫。この子は、ひとりになっても生きていける。ほんとうに、もう大丈夫となったのだ…
そうも、安堵した。
今は病んだこの胸で、そんな男を育てたのが、これなる母の誇りだ。
この胸で育てたもう一人の子を、戦で亡くした。それが、これなる母の怨みだ。
死んだ良人の仇が酒と、彼女は思っていない。
『良人のまことの仇は、死んだ次男の仇とおなじだ』
彼女はそう思い、死の間際まで声にならぬ言葉でそれを憎み続けた。
「――その後、品田様は、ずいぶんと長いあいだ重信を探したようです。間者まで使ったと聞きます。しかし、見つかりませんでした。なにしろ、花田元化は品田様に井澤重信の
「ふうむ…」
「なるほど、品田様のような御方に、『婿にならぬか』と言われたのは大したものです。あいつが医者を志す前に欲しかったものも、
「なんという贅沢なやつ…しかし、やつの家の役目を思えば、いたしかたのないことか…やつが気の毒でさえ、あるな」
盛時は、井澤重信こと石頭斎がここに初めて訪れた時に話した、井澤家の由来を思い出して、そう言った。
「はい。そうしたわけで、或る時まで、重信は
「ほほう。なにが起きた?」
「或る日、重信は人さらいの現場に居合わせました。若い娘がさらわれようとしていたのです。これを見咎めた重信が人さらいを問い詰めたところ、人さらいときたら、あろうことか古河公方さまのお名前を持ち出して、しげのやつを脅かしたそうでして…」
「ほう…」
「人さらいにしてみれば、しげが若いものだから世間知らずだと思って、てきとうにこっちの偉い人の名を言ったのでしょう。『俺たちは、古河公方さまとつきあいがあるのだ。この娘は、古河公方さまの奥方の下で働く予定の者だぞ』と、さんざん噓っぱちを並べた
「…」
「…馬鹿な奴がいたもんです。奥方さまが亡くなったのなんか、重信は花田元化からの便りで知っていました。しげも奥方さまのお顔を見たことがあったし、花田元化が心を砕いて診ていたのは知っていたので、その死をずいぶん悲しがっていたものです」
「…では、人さらいどもは、知らず知らずのうちに、井澤重信の心の傷口に塩を塗っていたということか」
「はい。そのとおりです…こう言ってはなんですが、重信が花田元化のところにいられなくなったのは、古河公方様と品田様のせいです。重信の弟が亡くなった戦は、
この伯言の言葉に、
「ハハハ…愉快だな」
盛時は、心底おかしそうに笑った。
「ぶちのめされた奴ら、
「ハハハ…」
「いろいろあったしげですが、その後は嫁さんをもらい、穏やかな日々ばかりとなりました。
これを言って、
『あ、…笛だった。ま、べつにいいや』
伯言は、思った。
「それでか…」
盛時は、合点がいったという風に、深く頷いた。
「どうなされました?」
「いや…井澤石頭斎と初めて会い、言葉を交わしたとき、『こやつはなんとも穏やかな男だ』と思った。満ち足りた人生を歩んできた男の顔であった」
笑みを含んで、盛時はそう言ったことであった。
「…花田元化には、感謝しかありません。結局、花田元化がしたことは、古河公方様や品田様にばれもせず、お咎めもなく済みました。重信も拙僧も、ずいぶんほっとしたことでした…ただ、こうした経緯があったため、花田元化が亡くなった時に表立って墓参りも出来ず、重信はとても悔しがっておりましたな」
しみじみと、伯元は言った。
「花田元化も、たいした男であったな…」
「はい…」
「それにくらべて、石頭斎の武芸の師匠とやらは、ろくなことを教えぬ男よ。悪党から金をちょろまかすとは、
盛時のその言葉に、
「…いや、そんなことはないと思います。聞くところによると、とても心持ちの良い男であったと聞いております」
伯言和尚は、どこか必死で石頭斎のもう一人の師匠を褒めたたえた。
「なんだ。知り合いか。もしかして、お前の師匠か」
盛時は、問うた。
当の、ろくなことを教えぬ師匠とやらが、目の前の男とは知らぬ。何故ならば、本来、石頭斎の師匠ならば、この世に生きているはずがないのだ。伯言は、どう見ても三十路ぐらいにしか見えなかった。
「はあ、…ええ、まあ…、そんなかたちでして…それは気の優しい、漢気のある人物でした…」
自称、『気の優しい、漢気のある人物』は言った。
「ふうん…」
まだまだ続きそうな伯言に、盛時は気のない返事をした。
「それはそうとして…話しているあいだ、お前は、お前こそが重信の武芸の師匠で、重信に花田元化を引き合わせ、やつが登谷に帰って来る時もその場に居合わせたかのようなことを言っていたぞ。ついつい、話に興が乗ってしまって、そうなったかな」
「はあ…申し訳ございません…」
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