第70話 黄瀬川(9)


 「おお、おかえり」

  井澤重信が家に帰ると、酒に酔った様子の父・重兼が、熟柿じゅくしのような臭いを口から放ちながら彼を出迎えた。

 「おかえり…」

 母は、諦めきった眼を良人に投げかけて、それから重信に目交めまぜで何かを訴えていた。

 「まずは、無事にこうして帰ってきたのだ。少し付き合え」

 こう言われて父に杯を差し出され…、そのうちにわされる父と母の会話を聞いたり、父の様子を見続けるうちに、重信にも先程の母の目交ぜが、

 『お父さんに酒をやめるように言ってくれ』

 ということだと気づいた。

 次男の戦死にひどく打ちのめされた重兼は、深酒の味を覚えていたのである。

 「あいつも帰ってこないかな。お前がこうして、帰って来てくれたように…」

 「…」

 『あいつ』とは、重信の弟のことなのだろう。重信は、返答に窮した。

 「『ただいま戻りました』と…、『あれは、誰かの見間違いです。俺はこのとおり、しておりますよ』と…、今ならあいつも、その見間違えたやつのことも許してやるから…帰ってこないものかな…」

 そう呟く重兼の口ぶりには、期待ではなく、諦めと寂しさが滲んでいた。

 「…」

 重信は杯を持たぬほうの手を、膝の上で強く握りしめた。

 「…なあ、重信」

 「はい」

 「…お前には、すまぬことをした」

 酔った父は、訥々とつとつ、息子に謝った。

 「父上が悪いのではありません」

 重信は首を横に振った。

 「…でも、もっと学びたかったろう」

 「どのみち、俺はここへ戻って来るつもりでした。それが少し早くなっただけです」

 「そうか…」

 「そうですとも」

 重信は、請け合った。実際、彼が花田元化のもとで学んだ日々は、濃厚であった。重信がそこにいることができたのは、多感な時期を数年間といったかたちであったが、それでもの医者よりも腕は優れているという自信が、今の重信にはあった。何故と言えば、当時の医者というものは、本人が望めば、学ばずとも誰にでもなれた。ために、ひどい藪医者も沢山いたからである。

 すると重兼は、こんどは悲痛に顔歪め、

 「…あいつにも、悪いことをした」

 そう言って…、

 「――俺は、なにをあいつに教え損なったのだろう? 俺はあいつに、何をしてやれなかったのだろう…」

 こんどは、頭を抱えて嘆いた。

 「『落ちぶれていても、我等は武門の家柄よ』と、俺はお前にもあいつにも、いろいろ教えたつもりでいた…『あいつは大丈夫。絶対に戦で死なぬ』と思っておくり出したのに…それでもあいつが亡くなったのは、なぜだ?」

 「…」

 「それは…俺たちが、あまりに長く戦と離れていたせいで、俺があいつに実際の戦場での立ち居振る舞いを教えてやれなかったせいではないか…俺は、そう思うのだ」

 重兼はそうしぼり出すように告げると、自責の念にかられたのか、力任せに己が頭を掻きむしった。かと思えば、顔を両手で覆った。そうしてその手を顔から外すと…絶望しきった人間が、どんな悲愴な表情をするのかの見本があった。

 重信は、このとき齢は十八であった。まだ弱冠にも満たない。まだ誰かの父親となたことなどないから、重兼の苦悩のすべてを理解などできはしなかった――かといって、父の苦しみの奥底になにがあるのか、その情愛に気づかないほど情に疎くもなかった。

 ――俺たち子供に厳しい人だったが、父上は父上なりに、俺たちが大事だったのか…

 それがわかったのは良いことかもしれないが、そのきっかけがこれでは、あまりに悲しすぎた。

 『お前は、こんなにも父上に愛されていたのだぞ』

 父親にただただ弟に、そのことを教えてやりたいと重信は思ったが、

 『あいつは、今の父上の姿を見たくないだろう…』

 という気もした。

 重兼は項垂うなだれて、息子の顔を見なかった。何度も己を責める問いかけをしながら、その答えを恐れていた。そのくせ、自分と一緒に息子たちに武芸や学問を教えてくれた伯言の名は、一度も口にすることはなかった。重兼は、そうやってなにもかもを己一人おのれひとりで背負い込んでいた。

 「父上が悪いのではありませんよ…そんなことは、ありません。あいつは戦場でも、どこででも立派に振る舞ったことでしょう。武芸にしても、あいつは十二分にうまくやったに決まっています」

 その言葉に、

 「…そうだろうか?」

 父は、顔を上げた。すがるような眼差しが、

 『いま告げられたことを、全て信じたい』

 と、言っていた。

 「そうですとも」

 重信は、力強く請けあった。ふと視線を感じて彼がそちらを見ると、母がやさしい眼差しでこちらを見ていた。

 その後も重兼は、何度も己を追い込むような問いを繰り返した。その問いの向こうに、

 『どうか、違うと言ってくれ。俺が悪いのではないと、言ってくれ。俺はに、与えられるものは全て与えることができたのだと、言ってくれ』

 …そういった意識が透けて見えた。

 いくらでも、重信はその要求を満たしてやった。酔っぱらってと同じことを問う父親に、

 『あなたが悪いのではない』

 と、何度も言った。

 「…俺はな、代わってやりたい。あいつの代わりに、死んでやりたい。まだ、これからって年齢じゃないか…なあ。やっぱり、俺さえそれを知っていて教えてさえいれば、あいつは戦場で雨のように降って来る矢でさえも、うまくしのげていたに違いない…」

 重兼は、たいそうな量の酒を飲んだ。まずそうに、味なんぞわからない様子で飲んで、己が体をいじめていた。

 「俺は、そうは思いません…思い出してもみてください、いにしえの佐藤継信(※1)がことを。一本の矢で倒れた男ですが、今生こんじょうの面目(※2)となったではありませんか」

 重信は、この人の息子だ。父親がの故事にならば納得するのを、よく知っている。そしてもちろん、こんな酒の飲み方なんぞ体にいいわけがないということも知っている。

 「…」

 「あれほどな英雄でも、運命の矢に倒れたのです」

 「…そうか…そうだな…」

 「運ですよ、武運がなかったのです。父上のせいではない。あいつのせいでもない…父上、酒も過ぎれば毒です。もう今日は、これくらいにしておきましょう」

 息子に穏やかにこう言われ、

 「うん…医者にそう言われちゃあ、しょうがないな」

 そう素直に頷いた父・重兼は、背を丸めてしょげきっていて、重信が古河へ旅立つ前よりも、ふた回りは小さく見えた。


 息子の重信が立派に成長して帰ってきて、滝野家に挨拶に行った時に、

 「お前、見違えるほどだな…よかった、よかった」

 と、滝野義澄に褒められたりして、よほど嬉しかったのだろう。いちどは酒量が減った重兼であった。

 しかし、長男が帰ってきても、次男は帰ってこない。

 『あいつ、なぜ死んだ…』

 その鬱憤は、消えることがなかった。すぐに酒の量は戻った。

 細君が、

 「長男の重信が帰ってきたんだから、もうそんな真似はよしてください」

 と頼んでも、重信が、

 「深酒でいいことはありませんよ」

 となだめても、見るに見かねた義澄が、

 「もう、それくらいにしておけ」

 とたしなめても、人に隠れて酒を飲んだ。

 そうして、とつぜん寒さが増した或る日の朝――、雪隠せっちんから出たところでばったり倒れ…井澤重兼は、そのまま、帰らぬ人となった。

 




 (※1) 佐藤継信…源義経の家臣。義経を狙った矢から主を庇って戦死した。

 (※2) 『平家物語』。

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