第69話 黄瀬川(8)
古河公方の奥方の病状を診るために御所を訪れた
例の話を聞き――花田元化は、目をぱちくりさせた。
「まずいことになったな…」
というのが、彼の素直な感想であった。
何故なら、かつて井澤重信を連れてきた伯言が、つい最近、ひさしぶりにやって来たかと思うと、こんどは疲れた様子で、
「急な話で申し訳ないが、井澤重信を連れて帰らなければならなくなりました」
そう言いだしたからであった。
これには花田元化もびっくりしたが、いちばん驚いたのは当の重信であった。愕然として、
「何故、そんなに急に…」
と、和尚に問うていた。
しかし、これを受けて和尚が重々しく語り始めた話には、それなりに尤もな理由が含まれていたのであった。
伯言によると、――重信の弟は、戦に駆り出されたのだという。
古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との間で享徳の年に始まった戦乱は、関東のさまざまなところを戦場とした。重信の弟もまた、そうした戦に雑兵として出ざるをえなくなったのだという。そして立派に戦ったが、流れ矢に当たって亡くなってしまった。
井澤家を継ぐ者が、重信より他にいなくなってしまったのだ。
これでは、是非もない。重信は、今までの礼を花田元化や
恨みがましいことは、
しかし、いつになくしょげたその背中が、
花田元化は見るに見かねて、あの時、あの背中になんと声をかけただろうか?
…そうだ。
「気を落とすことはないぞ。生きているかぎり、その気になれば、いつになっても、どこにいても、勉強はできる。わからないことがあれば、文を
と、彼は言ったのだ。
これを聞いて、重信は男泣きに泣いた――こうしたことが、あったばかりである。
花田元化は意を決して、品田某に、
「まことに残念なことですが…じつは、もう井澤重信はここにおりません。なんでも家で不幸があり、
そう答えた。
愕然の表情をした品田某に、
「まことに申し訳なく…」
頭を下げた花田元化は、こんどは自分のお供としてここに来ている伯言のところへ行った。
「せっかく古河に来たのだから、話のたねに、偉い人の屋敷が見てみたい」
と伯言が言うので、この日は荷造りに忙しい重信のかわりに、伯言が花田元化のお供をしていたのである。
「和尚さま、じつは…」
花田元化は、伯言に品田某の申し出のことをすべて話した。びっくり仰天し、目を瞠ったままの和尚に、
「――あとは、井澤重信とよくよく話し合って決めてください」
花田元化は、そう告げた。
「…そんなことを言って大丈夫ですか? あなたの立場だって、あるでしょう」
伯言は花田元化の身を案じて、呻くようにそんなことを言った。
ここでは、古河公方やその家臣が「黒だ」と言えば、白いものでも「黒」となる。彼等の意を無視して「選んでよい」などと言うのは、正気の沙汰ではなかった。
すると花田元化は声を励まして、
「だから、私は品田様に『井澤は帰った』と、そのように答えたのです」
そう言った。そして、
「ご存知とは思いますが、品田様は、今、古河公方のご家中でとても力のある御方です。その方に乞われて婿養子ともなれば、たいした出世となるでしょう…もし品田様の申し出を受けるなら、重信ともども私の家に留まっておいでなさい。家に帰った私が、『あっ! お前、いたのか』と大仰に驚いてみせて、『私の勘違いでした。まだ井澤は我が家におりました』と、品田様のところへ連れて行ってあげましょう」
そう言った。
「…」
「もし、品田様の申し出が迷惑であるならば、
「うまいことを考えましたな…」
その伯言の言葉に、
「…いいえ、ただの、小手先ばかりのごまかしです。まだ、これが上手くいくかどうかさえ、わかりません」
そう言って、花田元化は首を横に振った。
「私は、古河にこの身を置かせていただいている身です。よくしていただいている古河公方さまや品田様には、恩義があります…その一方で、私は弟子である井澤重信のことも大事なのです…あの真面目な若者に、己の行く末を選ばせてあげたい。もし去るつもりであるのに、重信が持ち前の義理堅さから、『師の顔を見てから、ここを去る』などと言いだしたら、それはかえって災いを呼ぶものだと、あなたから教えてあげてください。私も重信も、品田様をたばかったことになってしまうからです」
「…辛いことですが、仰るとおりです」
「なまじ、向こうは善意のつもりなのです。こういうのも、断るのは難しい。だから、申し出を受けぬのであれば、かかわらないうちに立ち去りなさい…なあに、偽名を使って文のやり取りなんぞ、いくらでも出来ます。あなたが持ってきてくれれば、すぐにこちらは、『これは井澤重信の文だ』とわかるのです。時間はかかるだろうが、これからも私は、奴になにかを教えることはできる…そう、どちらへ転んでも、あいつは私の弟子です。さあ! 行って、重信にこのことを話してあげてください。もう猶予はありません…」
花田元化はその日、予定にはなかったが、近くに住む彼の患者のところへご機嫌伺いに何軒か寄って…世間話をしたり、酒をふるまわれたりして、ずいぶん遅くに家に帰った。
そうして、それとなく家人に尋ねると、――井澤重信と伯言和尚は、とうにここを発っていた。
そろそろ、暗くなってきた。
無我夢中で、歩いたのだ。古河を離れてもうどれくらい経ったか、わからない。
一晩、雨露を
「…お前は、これでよかったのだな?」
伯言は、傍らで暗く硬い表情を浮かべている重信に尋ねた。
「あれだけ快く送り出してくださった義澄公や両親を思えば、なんということはありません…ただ、もっと花田元化先生の下で学びたかった。それだけです」
「どのみち、こうなってはそれも叶わぬことだろう。花田元化に、迷惑がかかってしまう…」
伯言のこの言葉を聞くと、重信はぎらりと眼を光らせ、近くの木の幹を
「ごすっ」
という大きな音がして、驚いた鳥たちの「ぎゃあっ、ぎゃあっ」という鋭い鳴き声が、あたりに
「…」
暗澹たる眼差しで己を見つめる伯言に、
「…世の中、うまくいかぬものですな」
重信は、弱弱しく微笑んだ。そして、己に言い聞かせるように、
「どのみち、登谷に戻るつもりでいたのです。それが早まっただけです…俺には俺で、登谷でなさねばならぬ事があるのです」
低い声で、そう呟いた。
「それは、誰が決めたものだ?」
伯言は顔を曇らせた。
もし古河を出奔した理由が、義澄公や自分の二親の意を汲んでのことであれば、ただただ重信という若者が
「…俺ですよ」
言葉少なに、重信は答えたことであった。
「そうか…で、お前のなさねばならぬ事とは何だ?」
「医者が近くにいないから、患者が手遅れになるのです。俺は、お幸さまが亡くなった登谷で医者をするのです。俺はこれから、きっと病の人を救います。若い娘さんが、病となる。『腹が痛い』と言いだす。すぐに俺はとんで行って、出来る限りの治療をしましょう。それでその娘さんが元気になれたなら、どんなに愉快なことでしょう」
「…」
伯言は、胸が熱くなった。
――ああ。お前は、ほんとうは、お幸さまを治してあげたかったのだね…
そのひとは、もう永遠に彼の前には現れない患者であった。
「花田元化先生のところに来た患者さんで、小さな子がいました。この子が、病の痛さをこらえかねて、父や母の名を呼ぶのです。子供というのは、『自分の親ならば、この痛みや苦しみをたちどころに治してくれる』と、無邪気に思うのですね。その声を聞く親の悲しく歪んだ顔といったら…」
「…」
「俺が、ほんとうに花田元化先生のごときになれたなら、先生のようにその子も救えるし、子の声を聞いて胸塞がれている親までも救うことができるのです…こんなに愉快なことが、ありますか…」
「ないねえ…ないねえ…」
いつしか、和尚の眼が涙に濡れている。
「そうでしょう。そうやって、年老いるまで医者を続けられたとしたら、…俺は、相当の数の病人を助けられるでしょう。そうして、いつか俺が死んだ時、
重信は、そう呟いたことだった。
その眼は、もうけして見ることの出来ない、亡きひとがついに浮かべることができなかった微笑を探していた。
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