第65話 黄瀬川(5)


 「お前の話も聞きたかったが、じつは、石頭斎についても、俺は訊いてみたいことがあったのだ…あいつは、どう考えても並のきもではない。いったい、あいつはどういう生まれ育ちをして、今までどういう暮らしをしていたのだ?」

 盛時は、再び口を開いて、そんなことを問うた。

 「当人は、どんなことを言っておりましたか」

 「武蔵国登谷むさしのくにのぼりやで医者をしていると言っていたな…」

 「さようです。やつは井澤重信といって、生まれも育ちも武蔵国登谷です。しかし、早くからよい師匠に読み書きや武芸を教えられ、見聞を広めるために、その師匠に連れられて日本のいろんなところを旅したものでした」

 伯言は、あの頃を懐かしむようにこう答えたことだった。

 「ほほう。それであんな度胸がついたのだな」

 「夜盗に襲われたりもしましたが、これを返り討ちにして金品を巻き上げておりましたな」

 「あやつ、とんでもないやつだ」

 「いい路銀のたしになりました」

 昔を思い出すように、伯言は言った。

 「まるで当事者のようなことを言う」

 「あ…これはしたり」

 盛時の苦笑いに、伯言もまた苦笑いを浮かべて頭をかいたことだった。

 「…しかし、見聞が広がった分、視野も広くなり、井澤重信の父親にしてみれば困ったことが起きました。ちょうど、今の義直様と同じぐらいの年頃でしたが、重信もまた、登谷を出て外の世界で己が才覚を試したみたくなったのです」

 「ほほう」

 「この時は、周りの大人が大変だったと聞きます。二親ふたおやは、重信を持て余しました。若いころの井澤重信は、腕力はある。弁舌もある。おまけに頑固者でしたからね」

 「それは大変だ」

 「重信の師匠などは、拳固でやつをぶん殴ったもんですよ。あんまり聞き分けがないんですから、拳にものを言わせました。も、これにはようやくというわけでした。へたってましたね」

 まるで『まさに、この拳でぶん殴りました』というように、伯言は己が拳を握りしめてみせた。

 「お前さん、時々、まるで見てきたようなこと、やってきたようなことを言うぞ」

 「あ…これはしたり」

 またもの盛時の苦笑いに、伯言もこれまた再びの苦笑いをとなった。

 「ところが、その騒ぎもむこととなりました――」

 さて、ここまで言って、伯言は口を噤んだ。

 これから続くことの真実を、すべて言ってしまうのは出来かねた。


 重信が義直と同じか、もう少し若かったあの頃、滝野家には当主・滝野義澄の娘御で、『おゆきさま』というひとがいた。義道の、叔母にあたる人だ。重信よりも三つ上の、淑やかで優しく…重信にとっては、憧れのおねえさんであった。

 重信は、お幸さまに恋焦がれた。しかし、しょせん、主の家の娘御であって、懸想することじたいがおそれ多いことであった。重信は、悶々と悩んだ。忍ぶ恋が高じた重信は、

 『ここを出て、戦で手柄を立てて名を上げてこよう。見事、立派な名乗りを上げられるほどな武士になって戻ってこよう。そうすれば、滝野の皆さまやうちの二親も、俺がお幸さまと見合う男であると認めてくれるかもしれない』

 遂には、一途にこう思うようになった。永享の乱(※1)や結城合戦以来、関東は不穏が絶えていない。数年前には享徳の乱(※2)があり、いまだ戦いはんでいない。そうした陣営になんとかして潜り込み、名をあげて滝野家の方々に認めてもらおう、というのであった。

 重信の父も母も、己が子供のことだし、鼻たれの小僧の頃からがお幸さまを好きなのは知っている。大きくなってお幸さまの背丈を越えても、お幸さまの前では顔を真っ赤にしてぎこちなくなって、言葉が少なくなっていただ。ゆえに、戦に出たいという息子の魂胆もわかっている。

 重信は、強い。けして戦で遅れはとるまい。しかし、功を焦れば蛮勇となるだろう。こんな理由で戦に出るのが危険なことぐらい、誰にだってわかる。井澤家の跡継ぎとしての義務を放棄してすることでもない。

 当然、重信の二親は彼に反対した。当時の伯言だって、止めた。

 ところが、それどころではなくなる事件が起きた。当のお幸が、病となったのだ。

 当時、登谷には医者がいなかった。だから、

 「腹が痛いというから、腹が悪いのだろうな…」

 ぐらいしか、わからない。伯言は、慌てて知り合いの医者を呼びに走っていった。

 しかし、お幸の病は、急激に進行し…伯言が、お医者さんを連れてきたときには、もうお幸は冷たくなっていた。

 急に愛娘を失った滝野義澄夫婦は、悲しみひとかたならなかった。

 こういう立場なので、表立って泣きわめきはしなかったものの、重信も一人になれるところで、思い切り泣いたのだろう。いつも、泣きはらしたような真っ赤な眼をしていた。

 そんな重信が、お幸の弔いのすんだ後、滝野や井澤の大人たちの前で、決然――

 「外で己の武芸が通じるかどうか試したく思って皆様を困らせておりましたが、…それは、諦めます。申し訳ございませんでした。しかし、別なお願いがございます。ぜったいにここに戻って参りますから、俺に医者になる修行をさせてください。医者になって、滝野の皆様にお仕えしたいと存じます。『病こそは、滅ぼすべき憎い仇』と、某は思い定めました。きっと良い医者となって、戻ってまいります」

 こう、願い出たのである。

 重信は、己がお幸さまに捧げたこの恋を、誰にも言っていない。

 『自分が世に出たいと願った行動の理由に、お幸さまへの恋があることなんて、みんな知らない。知りっこない』

 と、そう思いこんでいる。

 だから、今、己がとつぜんこんなことを言い出して、

 「あれだけ騒いでいた侍としての立身出世の道をさっと捨てて、『こんどは医者になりたい』なんて言いだすとは、なんて軽薄なやつだ」

 と、親に叱られ、お幸さまの親である滝野のご夫婦に呆れられる覚悟は、できていた。そして、そうした叱責を甘んじて受けるつもりであった。

 そうだ。重信だけは、己の行動の変化のすべてが、『お幸さま』で理由づけられていることなんて、皆にばれていないと思っていた。

 「な…なんてことを言い出すのだ…」

 父親の、なんとも悲痛な声が耳に響いて、

 ――ここまで情けない思いをさせて、俺って親不孝だな。

 重信は、胸が塞がる思いとなった。気丈な母が、わっと泣き出していた。これまた、

 ――息子が情けなくて、泣き出したのだろう。

 そう重信は思っている。

 そして、…お幸の父たる義澄は驚愕し、目をかッと見開いている。その奥方も、悲痛に声を放って泣き出した。

 「申し訳ありませんが、こんどこそこの思いを違えません…どうか、お許しください」

 こうしぼり出すように言って、重信は俯いた。

 すると、だ。

 義澄は、大股で重信に歩み寄り、がッとその肩を掴むと、

 「ありがとうっ」

 そう吠えるように叫んだ。そして、

 「けなげなやつ…殊勝なやつ…うちの娘はこんなに若くして死んだが、こんなにも深く慕ってくれた若者がいた…」

 こう言い放つと、男泣きに泣いた。そして、また感極まったように、

 「一途なやつよ。お幸を、そこまで好いてくれてありがとうっ」

 義澄はそう叫んだことであった。

 一瞬の呆然の後、重信は、己が初恋がよりにもよって、お幸さまのお父上にばれていることに気づいた。

 ――どうして…どうしてばれた…?

 立ち直れない重信へ、こんどは滝野の奥方が、

 「ほんとうに、ありがとうね…うちのお幸も、口では言っていたけれど、女の私にはわかるっ。あの子も、しげちゃんのこと、大切に思っていたのよ」

 涙声で、こう言い放ったから、たまらない。

 更に重信は、恥ずかしくなった。

 そうだ。忍ぶ恋は、ちっとも忍べていなかった。重信の恋は、お幸さまにもいた。しかも、お幸さまに何か言われていたらしい。母と娘のお喋りの話題にされていたらしい。何を言われていたのか知りたくも思ったが、どうせ聞いたら、こっちの心がになるような内容な気がする。

 ――は、恥ずかしい…恥ずかしすぎる…

 重信は、身の置き所がなくなった。穴があったら入りたい。逃げたいけれど、どこに逃げたらいいかわからない。

 そんな重信へ、

 「許す。医者となって戻ってこい」

 肩に置いた手に力を籠めて、義澄は吠えるように告げたことであった。このとき飛んできた義澄の唾が、重信の頬にかかり…それを拭くわけにもいかず、重信は固まった。




 (※1) 永享の乱…永享10年(1438)、鎌倉公方・足利持氏を討つべく、将軍・足利義教が持氏を朝敵として追討を命じたことにより起きた戦い。

 (※2) 享徳の乱…享徳3年(1454)から始まった、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の戦い。

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