第64話 黄瀬川(4)


 ひと通り話が済んで、滝野主従が退出しようとしたところ――

 「伯言よ。お前と話がしたい」

 盛時は、伯言を呼び止めた。

 こうして伯言は一人、盛時の前に残された。

 「右京兆さまのお側近くまで潜り込むとは、たいした忍びのわざだな(※1)」

 盛時は機嫌のよい様子で、彼にこう声をかけた。

 「ありがとう存じます」

 そう頭を下げながら、

 『あれは、事故です。向こうから、やって来たのです』

 という言葉を、伯言は呑み込んだ。

 「そんな格好をしているが、お前さん、戦えるのか?」

 まず、それを盛時は尋ねた。

 彼にしてみれば、目の前の坊さんは、ただのよろうた若い坊さんであった。人数合わせで、『お前さんも、ちょっとよろしく』と石頭斎に言われて、鎧をと渡されたようにも思えた。

 伯言は、盛時と同じ三十路に見えた。

 『まだまだ、人生これから…』

 と盛時本人が思っているのだ。伯言だって、

 『まだまだ、人生これから…』

 だろう。

 ――そんな男を、戦場に立たせてよいものか。

 戦のあとで、ありがたい念仏を唱えてもらうほうが、よほどいいように思えたのである。

 すると、伯言は自信満々、

 「はい。戦えます。むしろ、間者の働きより、こちらの方がよほど性に合っております」

 こう応じた。

 ――まるで、歴戦の猛者のようなことを言う。

 盛時は、内心あきれた。武芸があるかどうかは、その人の所作をみればちょっとはわかるものだ。しかし、さきほど、義直のあまりに優しげな美しさに目を奪われていた盛時は、伯言のほうをあまり注目していなかった。だから、伯言の身のこなしを知らぬ。

 戦の際に、「怖いよう」と泣きだされても困る。しかし当人が、

 「俺はできる!」

 と、こうも力強く言っている。

 『なら、やってもらうしかない…』

 となった。

 「で――右京兆さまのことだが」

 「はい…」

 追いかけまわされた伯言は、こうとしか言えない。右京兆さま――細川政元との顛末は、あのとき間者としての働きをもっとしていたかった伯言にとって、迷惑この上なかった。あの騒ぎのために、彼は都の様子を満足に探りきれなかった。都のうまいもんもうまい酒も、もっと味わいたかったのに駄目だったし、お土産も買えなかった。目の前の御仁は、その細川右京兆と政治の上では関りがあるのだった。

 「…以前、右京兆さまから書状が来てな。『都にいらしていた陸尊りくそんという偉い坊様と出会い(※2)、師とも仰いで慕っていたが、この御方は世俗を嫌がって都を去ってしまった。もし東国でこの御方を見かけたら、なんとか説き伏せて都に寄越してほしい』となあ…」

 伯言の肩が、震えた。それを面白そうに見つめ、

 「…俺は、伯言という坊主しか知らぬ。お前もそのつもりでいよ。ただ、が出回っているからには、注意しておくことだな」

 「ありがとう存じます」

 どこか、ほっとした様子で伯言は首を垂れた。

 「…お前は、あの御方をどう見た?」

 「あの御方…、右京兆さまですか」

 「そうだ」

 「…真面目で、頭の良い御方ですな」

 「ふむ」

 「ずいぶん世間話をいたしましたが、機転が早い。話上手だ。才気煥発とは、ああした御仁のことでしょう…世の中、すごいお人がいるものだと思いました」

 「ふむ…まるで、欠点なんぞないな」

 そう答えながら、

 『こやつ。まだ俺のことを警戒しているな』

 そう盛時は苦笑した。無理もないことであった。石頭斎が以前ここで話した、

 『伊勢盛時公は、政治の上で細川右京兆さまとと協調関係にある…』

 という情報の出どころは、この伯言だ。相当、幕府の内部のことを探り当てているとみてよいだろう。そういう男は、盛時が細川政元の歓心を欲しいならば、簡単に『陸尊』を売るであろうことを、知っている…

 「ただ…その御方から逃げ回っていてこれを言うのもおかしいですが、…あの方が、心配です。右京兆さまには、どこかで気を抜いて、楽に生きてほしいな、とは思います…琴の弦は、張りすぎても緩すぎても、良い音は出ませんな。弓の弦だって、引き締めすぎては切れてしまいます」

 「ほう。お前さんは、含蓄のあることを言う…」

 「…あの方は、理想を追いすぎる。白黒をはっきりつけすぎる。ここは、雑多な、灰色の世界です。ならば、己もそのように振る舞わなければ、ご自身で生きにくいでしょう」

 伯言は、ぽつりと言った。

 「ふむ…」

 「…これはご本人にも申し上げたのですが、右京兆さまは、もとはあんなに才能のある御方です。本来向くべきほうを向き、ご自身の務めを果たせば、どんなに後世、その名を慕われる立派な為政者となられることか、わかりません」

 この伯言の言葉を聞いて、盛時が抱いた感想は、

 『それを、よりにもよって、お前が言うか…』

 であった。陸尊が去って後、政元がしきりと旅の僧や修験者を用いることとなったのを、盛時は都の伝手つてから知っていた。誰かの行方や面影を求めてなのかもしれないし、元からそちらへ興味があるのかもわからなかった。わからない以上、目の前の坊主にそれを伝えることは酷である心地もした。目の前のは、いかにも男らしくて、優しくて情があって、頼もしく…そして、ある意味で残酷であった。相手がこんなにも慕わしく思っているのに、逃げ回るのだ。そしてそれが、さも相手のためであるかのように振る舞うのだ。残酷だが、誠実でもある。政元にとっては、悲劇であった。

 『こんな男に出会ったら、あの右京兆さまのことだ。そりゃあ、慕うさ…』

 盛時は、政元のいつも張りつめた様子の面影を思い出して、そう思った。細川政元は、己が持っているおそろしいほど膨大な権力に擦り寄ってくる人々の心根を、その怜悧さから見抜き、嫌気がさし、ついに世俗が大嫌いになった人間だ。若いぶん、純粋で潔癖でもある。そんな男が、こんなに清々しい『世俗の外』の男と出会った。あの騒ぎは、誰が悪いのでもない気がした。しいて言えば、二人が出会ったのが、悪かった。

 暗澹となった思いを断ち切るために、盛時はわざとこう問うてみた。

 「その務めとやらは、誰が決めるものだ? 右京兆さまご本人か? ならば本来向くべきほうを向いていると言えるだろう。もし陸尊という坊主がそれを決めるというのであれば、それは増長ではないか?」

 「人の務めを決めるのは誰かといえば――からの国で言う『天』であり、この日本で言う、『神仏』でしょうな」

 「ふむ…そうきたか」

 「…今まで、さまざまな人々の死にざまを見てきました。注意深く己と向かい合って生きていれば、己がなにをこの世でなすべきかを、はらのほうでわかるものです。己が務めを果たして亡くなった人物は、どんな顔でも拙僧には清しく見えました。戦場で、苦悶のうちに亡くなった屍でも…拙僧には、立派に見えましたな」

 「…もう、何十年も生きてきたような口を言う」

 「…」

 「そう言いきるお前の、務めはなんだ?」

 「滝野家の方々をお守りすることや、井澤家の者たちを、見守ることですな」

 「そうか…右京兆をお助けすることは、天下のためのように思うが、それはお前さんの務めとは思わなかったのだな?」

 「天下ですか…」

 不意に、伯言の顔になんとも皮肉な笑みが一瞬、揺らめいた。ほんの一瞬で、かき消えた。なにを思い出し、打ち消したか…それは盛時にも、周りの近習にも、わからぬことであった。

 「天下のことは、拙僧の器には。拙僧には到底務まりませぬ。その任を負うべきは右京兆さまであり、また伊勢盛時公であることと存じます」

 どこか、突き放したふうであった。

 『たしかに、世俗を嫌う男だな』

 盛時は、伯言に対してこう思ったことであった。

 そして、伯言は伯言で、こんなことを考えていた――

 ――なぜこの御仁は、俺に右京兆さまの印象を訊くのだろう? 右京兆さまがどんな男なのかなんぞ、ご自分でよく知っているだろうに… 

 目の前の盛時は、人好きのする温和な笑みを湛えている。

 ――どうも、この伊勢盛時という男、まだまだ他に企みがあるな。

 伯言は、そう感じた。

 そうだ。

 伊勢盛時は、腹に何かを隠しているやつの表情を、いまも浮かべている。


 

 (※1) 『愛鷹山(6)』参照。

 (※2) 伯言は、昔、『陸尊』と名乗っておりました。細川政元からの追手をか 

     わすために、伯言と今は名乗っています。

 

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