第62話 黄瀬川(2)
「それは、戦うことこそが我等の生きる道だと、一族みんなでそう思っているだけのことです。天下を騒がす戦乱はその後、起こることはありませんでした。それでも某は父に教えられ、父は祖父に教えられ…、武芸や
義直は、言った。
まるで、『喉が渇いたから水を飲むのだ』と同じような口調で、それを言った。それに気づき、盛時は眉を顰めたことであった。
「ふむ。そうか…しかし、これまで戦の機会は何度かあったぞ。その間、お前の先祖は静かにしていただろう? なれば、若い身空で自ら命を危うくすることもないのではないかと、俺は思うのだ。お前の家の直系は、お前しかいないと聞く。家を断絶させて、よいものか」
「…」
これを聞くと、義直は俯いた。それへ、
「石頭斎から、お前はそれなりに武芸をたしなんでいることは、先に聞いている。勇気を持つのはよいことだ。しかし、勇気と蛮勇は、似て異なるものだ…戦場では、どんな奴でも、死ぬときは死ぬぞ」
盛時は、こう言い聞かせた。義直の後ろで平伏していた石頭斎や伯言の肩が、この時かすかに震えた。
義直は決然、これに対しては――
「今の幕府が開かれる前の混乱の最中、某の先祖で、『戦いに出たい。もう一度、世に出たい』と思った者がいたそうです。しかし、その者はいざ行こうという時になって不慮の事故にあい、自由に体を動かせぬ身となりました」
そんなことを言った。
「ふむ…」
「その者は、病床でずいぶん
「…」
「父もまた、長享の頃の山内上杉家と扇ガ谷上杉家の戦い(※2)の時には、戦に出たいと願った身でした。これは、某があまりにも小さすぎて、やめたと聞きます…父には、某しかうまく育った子がなかったのです。父は、某や母を置いては行けなかったのでしょう。その鬱憤を晴らすのに、狩りはちょうどよかったというわけです」
「…」
「戦場でなにを見るか…それは、覚悟の上でござる。ただ、某の生きる道は、乱世にこそあり、戦場にこそあるのです。生きているうちに、せめて戦場に立ちたいと強く願うのです」
「…そうか」
義直の述懐を聞くうちに、盛時の表情は、はじめに彼に声をかけた時の気づかわしげな様子は消えていた。
「お殿様が、若い某に温情をかけてこうまで仰せになったことは、まことにありがたいことと存じます…その上で、お願い申し上げます。先祖の名を辱めたり、主たる御方の名を汚す真似はいたしませぬ。どうぞ、某を御家来衆の末席にお加えください」
こうまで告げた若者の眼には、優しげな面立ちに似合わぬ
盛時は、義直をまじまじと眺めて、なにかを言いあぐねた末に、
「――獅子の裔は、やはり獅子だのう。なれば、獅子の道しか歩めまい…その生き方しか、できぬのだからな。約束どおり、お前を用いよう。励めよ」
そう言ったことだった。
彼は、『阿修羅の裔は、やはり阿修羅だ』と本当は言いたかった。ただ、『阿修羅』という恐ろしい存在の名を、前途ある若者の名を飾る言葉としてぽんと口に出すのが憚られた。そして、その阿修羅の家系の人々が昔になしたることを思い出し、得体の知れぬ深い谷の底を窺がうかのようなうそ寒さを感じた。
盛時としては、滝野義直が強いのか弱いのかさえわからないが、当人がここまで言ったのだ。
――どういう結果となっても、このても、この若者は受け入れる覚悟があるのだろう。俺の夢枕に立った、この若者の先祖も同様に…
と思い
「お前を俺の家臣とするのは、一人前の男と見込んでのことだ。これよりは、俺の態度は、年長の者が若い者に対するものではないぞ。世間にも俺にも、甘えはいっさい通用しないと心得よ」
「はい。しかと肝に銘じてお仕えいたします」
義直はじめ石頭斎や伯言は、深く低頭したことだった。それへ、
「俺はお前のことを、『昔に
盛時は、あたたかい声で言った。
驚いた三人に、
「嘘はこれっぽちもついてはおらぬ。俺とて、お前の先祖の話を聞いて育ったくちだ。故郷の西国でな」
茶目っ気のある眼差しを盛時は浮かべ、
「お前たちは、できうる限りの見事な兵を連れ、着到したと聞くぞ。さぞ大変なことだったろう。であればこそ、俺はこのように周りの者どもに言うことができるのだ…よくやったな」
こうも、言った。
これには、石頭斎と伯言和尚が、思わず顔を見合わせて喜びを分かち合ったことであった。
「ときに――お前の父は、狩りをよくしていたと聞いているが、お前もそうであったのかな?」
盛時は、先ほどよりはうちとけた様子で、こう義直に尋ねた。
「はい」
「戦果は、どうであった」
「はっ、…未熟者にて、到底、父のようにはいかず…」
義直はこう言うと、白皙の美しい顔を恥ずかしそうに赤く染め、俯いてしまった。
「さもあろう。なにしろ、お前はたしか、齢十六であったか。なれば、父親のようには、いかぬさ。恥ずかしいことなんぞない」
盛時は、微笑ましくこう言ったことだった。
「ありがとうございます」
「包み隠さず、どれくらい仕留めたか、言ってみよ」
「はい。熊なれば、三頭しか、倒しておりませぬ(※3)」
これには、盛時も耳を疑った。
「えっ、今、なんと申した?」
「はい。父は、一日で熊を二頭ばかり倒す
「…」
「数のうちに入るならば、山犬、猪の類なれば、たくさん仕留めてまいりました(同じく※3)」
「…」
「これも、はじめは数えていましたが、だんだんどうでもよくなりまして、数えておりません…お恥ずかしいことです」
伊勢盛時という男は、優れた男であった。しかし、いかに彼のような男でも、我が耳、己が常識を疑うことはある。たとえば、目の前の細身の美青年が、
「某、熊を三頭倒しました。少ない数で、お恥ずかしい限りです」
と恥ずかしがって、頬を赤らめた時である。
――この若いの、さきほど『一日に二頭の熊に会うのは僥倖』と言っていなかったか? 気のせいか? 気のせいだと言ってくれ。
人間と言うものは、熊を恐れるものである。襲われるからだ。
滝野義直とその父は、熊を恐れない。襲うからだ。
『なんだ、それは。ちょっと待ってくれ』となった。
考え込んだ盛時の表情をどう受け取ったか、
「恐れながら、義直様の父君も、そうしたことはたまたまです…そのぅ、
なにかの助け舟をするように、伯言和尚が言った。
「熊というのは、あの熊か。狐狸の類ではなく、…大きな、猛獣の熊か?」
大道寺太郎が、念のために尋ねた。
「左様です。あの大きな、ふつうの、熊です。熊の胆は、素晴らしい効能を持つ高価な薬となるのです」
石頭斎が、そんなことをもっともらしく言った。これには、
「いやいや、そういうことではなくて…」
太郎が、困惑した声を上げた。
「いったい、熊なんぞ、どうやって倒すのだ」
「それは、ふつうに刀でですな」
「義直様の父君は、正拳突きでいきましたな(※4)」
石頭斎と伯言は、それぞれ、そんなことをのたまった。つっこみどころがわからない。
――こいつら、みんなどうかしてる…
それが、盛時の感想であった。太郎の顔を見てみると、太郎もまた、盛時と同じ思いでいるらしい。
こいつら三人はどうかしているけれど、心がないわけではない。
どこまでも自然体で、どう考えても芝居をしているようには見えない。
しかし、実際に戦場に立たせてみないと、真価のわからない三人であった。
(※1) 兵法書。
(※2) 長享の乱。扇ガ谷上杉定正が太田道灌を殺したことに端を発した、扇ガ
谷上杉氏と山内上杉氏の戦い。
(※3) 義直の真似はしないでください。
(※4) 義道の真似はしないでください。
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