第61話 黄瀬川(1)


 館は、慌ただしい空気に満ちていた。

 戦支度の、最中だ。

 行きかう人々は、みな浮足立った様子をしている。体はここにあっても、心はすでに戦地に向かっているかのようであった。

 「間に合いましたな。良かったですな」

 石頭斎は、嬉しそうに義直へ言ったことだった。

 石頭斎は、知らぬ。

 じつは、現在のこの騒然たる状態を作ったもとは、この翁であった。

 この館の主・伊勢盛時としては、突然ぽっとやって来た爺(石頭斎のこと)に、己がはらの内をぴたりと言い当てられたことで、或る危機感を覚えた。

 俗に『傍目八目おかめはちもく』というが、武蔵国登谷という辺鄙な所から盛時を見ていた井澤石頭斎が、

 『伊勢盛時は、堀越公方を攻めるに違いない』

 そう思ったのだ。

 おなじ『傍目八目』の視点を持つ井澤石頭斎のような者が、堀越公方の陣営にいたら、どうなるだろう? 方々へ檄を飛ばし、鉄壁の守りを固めることだろう。

 戦いは、拙速せっそくを尊ぶ(※1)。敵方にの攻撃に備えられては、たまったものではない。相手が油断しているところを急襲し、決定的な打撃を与えられれば、最高の戦果だ。こちらの意図に相手に気づかれていない時間こそ、値千金であった。

 また、戦いには、というものがある。盛時は、それが今だと思った。彼は、軍を動かす者にとって極めつけと言っていいほどの吉夢を見た――戦いの神とも言える御方が、夢枕に立ったのだ。そして、まるでその夢の内容を裏付けるかのように、機が、人のかたちをして、やって来た。

 盛時は、のことをまだ覚えている――機が訪れた、その時のことを覚えている。

 あの日、井澤石頭斎の姿をみとめて、彼は、

 ――ああ。この男だ。

 そう思ったことだった。

 あの夢で戦の神が言ったことは、となった。あんな刀を下げていれば、なるほど…「会えば、わかる」。血で血を洗う戦をくぐり抜けてきたが、「戦の時が来た」と告げていた。

 出陣の支度は、ほぼ出来ている。

 これだけ、彼の勝利を約束するすべてのことが揃っている。これで、なお打って出ないのは、むざむざこちらへ、

 「勝たせてやるぞ」

 と、微笑みかけてくれているかのようなに、惰弱だじゃくを曝け出しているかのようであった。

 ――そんな恥ずかしい真似を、俺はしない。

 この機を逃せば、戦の勝利も、人生の栄達も、逃げていく…盛時は、そんな心地さえした。

 なにより――これから、自らの知略、胆力、持ち得る全ての能力をかけて、るかるかの戦をするという事実は、伊勢盛時という男に、この上ないほどの喜悦を与えていた。伊勢盛時当人が、早く動きたくて、うずうずしていたのである。

 長い間、幕府の中枢で有象無象に交じって生きてきたのだ。さまざま他人の思惑に翻弄される者どもの悲哀を見ている。そんな彼は、

 『どうせ泣いたり笑ったりを繰り返して生きていくのであれば、己のそうした未来を決定づけるのは、己でありたい。己のなしたことが元で成功を手にして笑うのも、それが元で失敗して泣くのも、受けいれよう…しかし、周りに翻弄され、笑われたり、泣かされたりするだけの人生を、俺は認めない』

 と、思っていた。

 そのためには強くなければならぬし、能動的に動かなければ駄目だとも思った。

 今は、早く動かねばならぬ。

 時機と意志、軍備が整ったのだ。

 「俺には、わかる。いま動けば、必ず勝つ」

 唇を歪めてそう呟いた主に、近習どもは畏敬に、おのずから首を垂れた。

 彼等は、こうした恐ろしい男を敵ではなく、主として持てた果報を喜んだ。

 この男のすることには、いちいちもっともな理由がある。ずっと今まで、そうだった。

 この男が『進むべき』と決めたときに見せる、勇猛や大胆さを、彼等は知っている。

 この男が『退くべき』と決めたときの、狡知や細心を、彼等は知っている。

 長年そば近くに仕えてきた彼等にとって、主・伊勢盛時こそは、畏敬の念を起こさせる誰かであった。

 乱麻の世となりつつある時代を生きる者にとって、伊勢盛時という男は、敵とするに、これ以上に恐ろしい男はいなかったが、味方の…己が主とするなら、これ以上に頼もしい主は、いなかったのである。

 


 『滝野義直が、小規模ながらも立派に装備の整った兵を連れて馳せ参じた』

 その知らせを受け、盛時はすぐに目通りを許したことだった。

 ――歴史に名を刻んだ、あの立派な武人を俺の夢枕に立たせ、あの爺さんが入れ込んでいる滝野義直とは、はたしてどんな若者かな。

 前々から盛時はこう思い、彼と会うのを楽しみにしていた。

 彼は、はじめから、

 「どんなみすぼらしい格好で現れても、滝野義直を大切な家臣としてとりたてよう」

 そんな心決めをしていた。しかし、今、目の前にいるのは、戦装束に身を包んだ立派な若武者であった。井澤石頭斎・伯言和尚を従えて、盛時の前に現れた滝野義直は、武家の作法をわきまえた、生粋きっすいの武家の若者に見えた。

 が、面立ちがなんとも優しく、美しい。とても戦場に立つべき人間に見えなかった。

 ために――盛時は若者に、どうしてもこう言わずにはいられなかった。

 「まずもって、お前に尋ねたいことがある」

 「はい」

 「お前の家は、ずいぶん長い間、雌伏の時を過ごしていたな」

 「はい」

 「その間に、見えてきた景色もあるだろう…武蔵野の一田夫として生きれば、修羅道(※2)に堕ちなくてもよい。人間道(※3)にあって、人の道を行く。それが、人にとっての幸せではないか?」

 「…」

 「なるほど、俺はお前の先祖にお前を用いることを約束した。しかし、お前は若い。じっさいにお前と会った俺が、『こやつを連れて行ってよいものか。それは、許されることなのか』と戸惑うほどにな」

 「…はい」

 「お前は、すがしく見える。俺が、『こやつを戦場というきたないところへ導いてよいものか』と思うほどだ。俺は、お前の先祖がそれを許したとして、神仏がそれを許すかを危ぶむ」

 「…はい」

 「お前がこれから入っていこうという世界はな、お前が夢想するほどばかりではないぞ。男ならば、こうした華々しいものへ憧れを抱くというのは、わかる。しかし、実際は荊棘けいきょくの道だ。嘘と殺戮の世界だ。『お家再興』の志は、たしかに立派だ、しかしお前はこれから、そのために見たくないものを見、聞きたくないものを聞くことになるぞ。その覚悟は、あるか」

 義直の一挙手一投足も見逃さない様子で、盛時は問うのだった。

 これに対し、凛然――

 「長いあいだ、我等一族が世に出ようとしなかったのは理由がございます。何故といって…戦いのある時しか、某の一族はが、ありません。戦いがなければ、某の一族のようなものを、為政者は重く用いないでしょう。某の先祖は、主に無用の長物とされることを嫌ったのでしょう」

 そんなことを、義直は言った。

 引き締められていた盛時の口元が、ゆるんだ。彼は、若者の直截的ちょくせつてきな物言いに好意を持った。

 「ほほう…世の衆生は世の安寧をこそ求めるものなのに、お前の一族は、ずっと乱世をこそ、望んでいたことになるぞ」

 

 

 (※1) 孫子。

 (※2) 仏教における六道の一つ。阿修羅の住む世界。

 (※3) 仏教における六道の一つ。人間の住む世界。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る