第59話 出立(44)
『滝野の若様が、お家再興のために動いている』
と、いうことは、以前から石頭斎や和尚に聞いて知っていたし、なにしろ当の若様や皆が使うために買った馬や武具の類が、ここに預けられている。それに、若様は、ここまで来て、乗馬の手ほどきを頻繁に受けている。ここは、人が住むところからは少し離れたところにあるし、間違って盗賊がここに入ったとして…女には逃げられたが、それはそれ、これはこれだ。次郎は
ようやく滝野の若様が仕える相手も決まったらしいが、その相手の名を、まだこの兄弟は聞いていなかった。
あらためて――若様とともにやってきた石頭斎の口からその主君の名を聞いて、
「おい、どうするよ」
忍びの兄弟は、あからさまに慌てた。
『伊勢さんって人に、若様がお仕えしたら…俺たちが先祖以来の、あの姓を名乗るのは申し訳ないし、不敬な気がする…』
と、いうのであった。
「爺さん、どうすればいいよ」
兄弟は、石頭斎に尋ねた。
「なにが?」
「俺たち、今のこの姓を名乗っちゃ駄目だろう…」
すると石頭斎は、もっともらしく頷いて、
「お前さんたちがそうなるだろうと思って、もう考えてあるぞ」
こう言った。
「昔の歌人でなあ、伊勢というのがいたのだ」
「ふうん」
「きれいな
「ふうん」
「その伊勢という人が、こんな歌を詠んでいる。『
「うん。よくわからん」
「風雅で、よい歌だぞ。この歌から、『青柳』というのをもらって、『青柳太郎』『青柳次郎』と言うのは、どうだ? まだ青々とした葉の柳だ。柳のように、しなやかに
太郎と次郎としては、
『なんだかわからないけれど、風雅でしなやかでしたたかというなら、それでいいだろう。それに、そこはかとなく、伊勢っぽいしさあ』
そう思ったし、念のため、兄弟の母親に聞いてみても、
『物知りな井澤さんのいうことに間違いはないだろうから、それでいい』
と、いうことであった。
「これから俺は、『青柳太郎』かぁ」
太郎は、内心、
――むかし、がきの頃、『俺たちに弟ができたら、ほんとうの名前を名乗る時に気後れするだろうな。可哀そうだ』と真面目に悩んでた時があったが、無駄だったな…なんで、あんなに悩んだんだろう。
ぼんやりと、そんなことを思った。
太郎、次郎、ときたら、次はどう考えても三郎であった。なんだか、忍びの教えを和歌のかたちで世に残してそうな、彼等のご先祖様の名前そのままとなってしまうのだ(※2)。
そんなことはおくびにも出さず、
「かあちゃんも、あとからここに来る井澤さんの息子さんたちと一緒に行くんだぞ。荷造りしとけよ」
うっかり、自分も彼等についていかなければならないのを忘れて、
「行ってらっしゃあい」
と、彼等を見送ってしまいそうなのんびり屋の母ちゃんに、太郎は釘を刺した。
「あいよ」
「俺たち、もうここに帰ってこないぞ。ここに、かあちゃん一人じゃ、なんにもできねえんだからな。大事なものを持って、皆にしっかりついていくんだぞ」
「わかってるよぅ」
こうして、一同はようやくここで身なりを整えた。
ここで預かっていた、義直や石頭斎、伯言、そして太郎次郎が使う、派手さはないがしっかりとした甲冑は、職人に頼んで作ってもらった、質のよいものだ。
「こうしたものは、良いものを揃えねばいかん。動きやすくなければ、戦場でのはたらきに響くからな」
と和尚は言っていたが、効果はそれだけではなかった。
身に着けるもので、人の印象も変わるものだ。
誂えた
そして、伊勢公へ馳せ参ずる途中には、和尚が前もって集めていた、それなりの数の雑兵が、彼等を待っていた。和尚がどうやって彼等を雇ったか…忍びの兄弟には、首を傾げるところであった。
そうだ。
この小さな軍隊の武具や兜、胴丸などの装備。集まっている兵士。義直や石頭斎たちが使う、上等の甲冑…それらはすべて、伯言和尚が銭を払っていたが、その銭の出どころがどこなのか…それは、この忍びの兄弟にもわからない。
「滝野家や井澤の家の家財を売った」
とは聞いたが、それではもちろん、こんなのは
しかし、なにしろ、当の伯言和尚が、昔から不思議な存在なのだ。不思議な奴が不思議なことをするのだ。訝しんでは、きりがなかった。
どうせ、わからない。
「わからなくてもいいや」
となった。
こうして滝野主従は、伊勢盛時公のところへ…風雲のあるところへ、たどり着くこととなった。
(※1) 伊勢の作。後撰和歌集。
(※2) 『義盛百首』のこと。
これで、『出立』の章はお終いとなります。
読者の方々、★や♥で応援してくださった方々、フォローやコメントをくださった方々、どうもありがとうございます。大変うれしく、書く励みとなっております。
深く、御礼申し上げます。
次回からは、伊豆を舞台とした話となります。これからもよろしくお願いします。
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