第56話 出立(41)
「粟手さま…さきほど、あなた様は、ずいぶん大きな声で、この若者の名を侮辱しました。ご自身の娘御の縁談に障るようなことも、申されましたな――これから、よからぬ噂がたったら、容赦なく、力づくでもその噂を消していただきたいと存じます。当方のためにも、あなた様や娘御のためにも、なりません。我々は、ここを去る身です。しかし、あなた様や娘御は、これからもここで生きてゆくであろう身だ」
石頭斎は、こればかりは厳しい声で、あわてんぼうに告げた。
「無論…そのようにしよう」
「それと…そこの従者ですが、はやく医者にお診せになったほうがよろしいと存ずる…私は、診ませんぞ。
従者は、がっくりしたまま、まだ起き上がってこない。その様子をいたましげに眺め、
「そういたそう」
粟手太郎は、言った。
従者は、近隣から人手や戸板をもらい受けて粟手の館へ運んでいくこととなった。
彼等を連れて去ってゆく粟手親子の後姿を見つめて、
「とんでもない騒ぎでしたな…」
石頭斎は、疲れた表情で言った。
「ほんとうにな…なんだったんだ、まったく」
「それにしても、春には花が咲き、やがて甘い実がなるのみならず、…恋のしりぬぐいまでするとは、梨というのはとかく人の役に立つものですなあ」
「おうよ。いうことなしだぜ」
和尚はそう応じると、義直に向き直って、
「いやあ、拙僧はびっくりしましたぞ。義直様は、光源氏でしたなあ」
そう、からかうように余計なことを言った。
義直はこちらも疲れたようすで、
「…たしかに俺は、源氏だけれど…」
真顔で、これだけ答えたことであった。
以前、爺が講釈してくれた源氏物語のなかの歌やさまざまな和歌集では、月やら草花やらが人の恋とともに歌われていた。義直は勉学が嫌いなほうではなかったが、こうした分野が大好きというふうではなかった。
それでも自分を好きになってくれた女子を、花にたとえ、傷つけずに良い思い出だけを残せたなら、彼にとっては退屈であった花鳥風月を愛でてそうな時間は、無駄でなかったことになる。
――人間、なにが役に立つか、わからないな。
とも感じたし、
――俺も、人に恋をすることなんぞあるのかな。
そうも思った。
源氏物語よりも源平の合戦ものを読むことを好む義直には、己が恋だの愛だのにうつつを抜かす時が来るかどうかさえ、わからなかった。
『今は、それどころではない』
そういう思いさえ、あった。
「もう、行くことにしましょう。これ以上ここにいては、こんどはなにがあるかわかりませんぞ」
「ほんとにな。鬼が出るか
そう和尚が言った時であった。
「おや、粟手様がいらしているということでしたが、…」
一同は、その声に振り向いた。
鬼も蛇も出なかった。
しかし、この近辺でいちばん有力な農家の
あれだけ、粟手太郎が騒いだのだ。
「これは大変だ」
と、誰かが郷農田さんのところに走って知らせたのだろう。
「いや、粟手様の勘違いでしてな。疑いも晴れて、粟手様はお帰りになられました」
「ほう、どのような勘違いを?」
「いや、それはわかりかねます。粟手様がとつぜん怒鳴り込んでこられたものの、すぐに勘違いに気づいて立ち去られたものですから、こちらはなんとも説明を受けませんでした」
石頭斎がこうしらばっくれると、
「そんなばかなことはないだろうよ。いいから言ってみろというんだ。勘違いするなよ、どちらが偉いか」
郷農田は
「俺は、いつだってお前さんをここから追い出すことができるのだからな」
と、凄んだ。
『いつだってお前さんをここから追い出すことができるのだからな』
は、この男が気に入らない村人を脅す時に使う、いつもの言葉であった。
あれだけ、あわてんぼうが騒いだのだ。きっと、その内容も郷農田の耳には入っているのだろう。この地の有力者・粟手太郎の恥は、この郷農田にとっては値千金の価値があった。
「いえ…粟手様しか、わからぬことです」
どこまでも、石頭斎は、こうしらばっくれた。石頭斎は、いい年をした、気のいいおじいさんだ。目の前の男の言うなりになって、まだこれから前途が広がっている若い娘さんや義直に迷惑となるようなことをする気は毛頭ない。
「ふん…」
郷農田は、不機嫌そうに鼻を鳴らし、こんどは抜け目なく人々のようすを見回した。
「おや、井澤さん。旅にでもお出かけになるのですか?」
石頭斎、義直、伯言和尚は、もとより旅装であった。
「はい」
「お
これもやっぱり、村の誰かが見ていて、郷農田に知らせたのだろう。
石頭斎は、この際、こうなってはしっかり話していかねば角が立つと思い、
「はい。じつは我等は思うところがございまして、皆でここを引き払うこととなりました。今までありがとうございました」
こう言って頭を下げた。
驚いたのは、郷農田である。こうなろうとは、思っていなかった。
この登谷に住む者には、うまみがある。近所に名医がいるのだ。良心的で、どんな体の不調もぴたりとあてる、『井澤さん』という医者だ――石頭斎のことだ。
このお医者さんがいなくなっては、登谷に医者がいなくなってしまう。
「それは、困る…」
こうして郷農田は、
『いつだってお前さんをここから追い出すことができるのだからな』
と凄んだ舌の根の乾かぬうちに、こんどは井澤さんを引き留めることとなった。郷農田は、登谷でどんなに皆が助け合って暮らしているかを説いた。そして、その中に井澤さんも、もちろん入っていることも説いた。
しかし、当の石頭斎は、ここにいい思い出も少しはあったが、それは細君がいた頃のことであった。
そして、その細君を除け者にしたのが、助け合って生き暮らしているはずのここの人たちであったから、郷農田のおためごかしもなだめすかしも、功をなさなかった。
井澤石頭斎は、いい年をした、気のいいおじいさんである。
「『いつだってお前さんをここから追い出すことができるのだからな』と、さきほどあなたは言っていただろう」
などとは言わぬ。そして、『これから先どうするか』を郷農田にしつこく問われても、何も答えぬ。
「お世話になりました」
そう
「お前たちもはやくおいで。今日中にはここを出ろよ。余計な事は言うな」
と、家族にそれだけ言うと、
「もうこれ以上の長居は無用ですな」
と、義直や伯言和尚を促し、その場を去った。
「お屋敷の前を通ってから行きましょう。もう、当分、来ることはないやもしれませぬ」
石頭斎の言葉に、義直は感謝した。
幼い頃より何度も何度も歩いた道を、今、ふたたび歩いている。
家路という名の、道だ。
かつて、この道を歩くということは、父と母とのあたたかな団欒を意味した。
かつて、この道を歩くということは、父と母に守ってもらえるしあわせな場所へ戻ることを意味していた。
ところが、どうだ――
雑草の生命力は、すさまじいものだ。もう、その道は、なかば草に覆われていた。かつて優しくあたたかであったところへの道は、いまや失われつつあった。
かつて、うんとちいさかった頃に、父・義道に『たかいたかい』をせがんだ庭は、もう朽ちて、自然と一体となりつつある。
屋敷は、静かにそこにあった。石頭斎と伯言和尚が打ちつけた木の札のみがが新しかった。
「…」
もの言わず、義直は己が家を見つめた。もう人が住んでいる気配のない家屋だ。もう、あの戸を開けても、彼を安心させる母の笑顔は、ない。
今、この家には、病がある。
今、この家には、死がある…きっと、まだある。
義直は、あんなに力強かった父と、あんなに優しかった母を打ち負かした死が、どんなに力強いかを肌で知った。生ける者が、どんなにその魔の手から抗えぬものかも思い知った。
人には、寿命があるという。己が寿命のその長短を、義直は知らぬ。知らぬが、であればこそ、
――この命は、なにかをなすために費やすべきだ。
そう義直は思った。
かといって、生まれてから死ぬまでのあいだに、人一人が何をなしえるか…それを思うと、己がいかにもちっぽけな、頼りない生き物に思えた。
『死よ。俺と勝負だ! お前が俺の前に現れる前に、俺はお前にできるかぎりの復讐をしてやる。命あるうちに、俺がこの世でなしえたことで、俺はお前に復讐をするのだ。俺はお前に、きっとお前の非力をわからせてみせるぞ!』
義直は、心の中でそう雄々しく叫んだ。
しかし、そのためには、まず彼は別の敵と戦わねばならぬ。
彼の前に広がる世間という名の
心には闘志を
「ありがとう。これで未練はない。さあ、行こう」
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