第55話 出立(40)
そうしたことを聞き――
「お話は承りました。かわいい娘御のことだ。父御としては、さぞ、あわてたろうとは存じます」
石頭斎は、粟手太郎に言った。
「まことに、すまぬことをした…」
先ほどの威勢が嘘のように、今の粟手はしゅんとしていた。
日頃の粟手太郎は、あきらかに己が悪かったり間違ったりしても、けして謝ったりなどしない。持ち前の
しかし、今は、そうはいかぬ。
娘の手前がある。
彼は、己のいやなところを、これっぽっちも娘に見せたくはなかった。娘の前でだけは、ものわかりのよい、優しい父親でいたかった…娘に、嫌われたくなかったのである。ために、このようにしおしおと大人しくしていた。
「みなさま、まことに申し訳ございません…ですが、お父さま、私はこのお方が好きなのです…お慕いしているのです…」
娘もしゅんとして、…しかし、言いたいことは、しっかり言っていた。
娘は娘で、父親が自分に甘いことを知っている。
『私がこう言えば、お父さまはこの人と私を結婚させてくれるかもしれない』
と、まだ期待している。
滝野義直は、これなるしおらしい父と、しおらしくもちゃっかりしている娘とを、しばらく無言で眺めてなにか考えているようすであった。
やおら…意を決したように、義直は娘に歩み寄った。
そして、恥じらう娘に、
「あなたは、俺を見かけたことがあるかもしれません。しかし、俺としては、俺があなたと会ったのは、これが初めてです」
そう、告げた。
「…はい」
せつなそうに、娘は頷いた。
この若い二人の会話を聞いて、娘の父は、なんとも筆舌に尽くしがたい顔となって、
「ああ…」
と呻き、頭を抱えた。
もう、じゅうぶんすぎるほどじゅうぶんに大人の粟手太郎は、いまの二人の会話で、娘の恋の結末がどういうものとなるか、わかった。
地元の権力者として…また、一人の父親として、今回まとまった娘の縁談は、
『娘に安定した幸せをもたらし、粟手家にも喜ばしい縁をもたらすものである』
そう、この男は確信していた。
しかし、反面…そのために必要とわかっていても、娘が恋に破れて流す涙を見るのは、彼には忍びなかった。
ならば、この恋が実ればよいのか。
『この娘に取り入って、縁談なんぞぶち壊し、粟手の
という心づもりになったとしたら、それはそれで娘は喜ぶかもしれない。しかし、そんな判断で生涯の伴侶を選ぶ奴なんぞ、ろくなものではない。それに、いったんまとまった縁談をぶち壊したとなっては、さまざまなところに影響が及ぶ。先方にも、娘や粟手の家にも、恥辱しか残らない。根も葉もない、ひどい噂も立つだろう。そうなれば、どのみち娘の幸せは長く続かぬものとなるだろう…そうも、思った。
そうした案じ顔の粟手を、こちらも複雑そうな眼差しで眺め、
「俺を憎からず思ってくれて、ありがとう」
そう、義直は告げた。
「! では…」
喜色を湛えて声を弾ませた娘に、
「しかし、俺はこれから旅に出る身です。あなたを幸せにするのは、俺とは別の御方です」
そうも、はっきりと告げた。
「ええっ、…」
娘の顔は、こんどは蒼くなった。それへ、
「これから、あなたは幸せにならなければなりません。あんなにあなたのために真剣になってくれる、あなたのお父上のために。そして、ほかならぬ、あなた自身のためにも…縁談が、来ているそうですね。あなたのお父上が持っていらした話です。いい話であろうことは想像がつきます。お父上の話を、よく聞いてごらんなさい」
そう語る義直の口調は、理路整然として…真面目に彼女に向き合っていたが、恋を語るものではなかった。
「でも…」
娘の眼は、口ほどにものを言い…、
『私は、あなたと結ばれたいのだ』
と、雄弁に告げていた。
義直は、首を横に振った。
「今の話を伺っていると、あなたは、かってにご自身の理想を俺に重ねているにすぎません。あなたが夢見ている俺と、じっさいの俺とは、おそらく…いや、ぜったいに違う。それは、互いにとって不幸です。それに、俺はこれから、いくらでも苦労せねばならぬ身です。あなたを幸せにはできない。あなたを幸せにできぬとわかっているのに、
彼は、
「でも…」
娘は、なにか言いたそうに、もじもじとした。
この義直という若者は、『あなたが思い描いている俺の姿と、じっさいの俺の姿は違う』と、そう言った。
しかし、そう真面目にこの恋に向き合ってくれている義直は、娘が恋したとおりの、素晴らしい若者であった。さきほど初めて聞いた義直の声は、低くて優しく、彼女の想像していたより、うんと美しい響きをしていた。近くで見ると、その身長は、高い。そばから見れば、見上げるほどだ…五尺五寸以上(※1)は、あるのではないか。並の男より、頭が一つ分ほどには背が高い。その肉体は、
『このお方は、ご自分では、そう仰るけれど…ほんとうは、私が思い描いているより、もっと素晴らしい人なのではないか』
彼女は、そう思った。
そんな娘の心の動きを知らず、――また、あえて
「それに、あなたはこのあたりを治めるお方の、娘御だ。そして私はまだ、何者でもない。この差が、わかりますね?…ご覧なさい、あの花を」
こう続けると、井澤の庭の木に咲いている花を指さした。
言われるままに、娘はそれを見つめた…そして、その、桜とみまごうような、白く可憐なようすに、心を躍らせた。
そのようすを見て、
「俺にとって、あなたは、あの花ですよ。美しいからといって、摘んでしまうにはしのびない…あの梨の花は、親である木とともにあるべきだ」
義直は、初めて娘に笑いかけた。
最初で最後の、彼女にだけ向けられた微笑であった。
「…そうすれば、花はいずれ、実となりましょう。花にとっても、それが良いのです。あなたのこれからも、実り多いものとなることを、祈っています」
そうも、言った。
彼の言葉の意味がわかって、粟手の娘は、己が初恋が終わったことを知った。彼女は眼にいっぱいの涙を浮かべた。
泣いた、泣いた。
ぽろぽろ泣いた。
それへ、
「あなたは、俺のような、これから旅立つ者に手折られるべきだはないのだ。わかりましたね? 幸せになってください。俺は、あなたの幸せを、願っています」
やさしく、義直はそう語りかけたことであった。
その背後で、娘の親父もまた…
『これだけの迷惑を起こした娘に、この若者は、なんて優しいことを言ってくれるのか』
と、目に涙を溜めていた。
粟手太郎は、
「義直どの。申し訳なかったな」
それだけ言ったが、その声は先ほどとはうって変わって、あたたかなものとなっていた。
(※1)この時点での滝野義直の身長は、五尺六寸あたりです。一尺が30.3㎝として…約170センチ弱といったところでしょう。
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