第50話 出立(36)
「…ううむ。どうしたもんかねえ」
長い旅路を歩きながら、和尚はまたぼやいた。
――いとさんや重信に、なんて言えばいい? なんと言えば…
考えることは、そればかりである。
都へ行って、知ったことは多々ある。
嘉助は、すごいやつであった。
それだけではない。笛を通して、朱雀門の鬼と友達になったすごいやつであった。
他にも、時の将軍・足利義政公に目をかけられていたことなど、すごいこと、枚挙に
しかしまた、それだけにとどまらないのが、この嘉助という男であった。
「よく親父さんに叱られていた」
「よく母親にも𠮟られて、泣かれていた」
「
「別な野郎に喧嘩をふっかけられたが、それを受けて立つ度胸も力もない。『だらしねぇやつだ。よしっ、俺の股をくぐってみろっ。そしたら許してやるっ』と言われて、四つん這いになってそいつの股をくぐったものの、うっかりそいつの股間のいちもつを頭突きして砕いてしまった」
など、いとさんや重信に、あまり聞かせたくないような話も、多々あった。
最後に挙げた話をしてくれたお爺さんは、
「玉ぁ砕かれた野郎のほうはのう、ばったり倒れてのう。それはそれは痛そうにして動かんかった…嘉助のやつぁ、青くなって逃げ出していたのう。めったに見ない珍事なので、大昔にあったことなのに昨日のことのように思い出せる…」
感慨深げに、そう締めくくっていた。股くぐりだけに、
――よくやったなあ、嘉助さん…
和尚はそうかんしんした(※1)が、同時に、
――これは、あの若い二人に、ぜったい言っちゃいかんだろう…
とも思った。
印象としては、『嘉助は、すごい』の話が四割あるが、残りの六割は『嘉助って情けない』の話であった。
ために、これから話を持ち帰る側としては、
「…ううむ。どうしたもんかねえ」
となるのである。
それだけではない。
「嘉助の弔いまでしてくれた、あの気のいいおじさん、じつは鬼だったよ。朱雀門に棲んでた、あの鬼だ」
…そんなこと、あの
――あんな綺麗な、妙齢の
和尚は、そんな心配をしている。
じっさいのいとは、おじさんを鬼だと認識しながらも、その心根の優しさを見抜いて『いい御方だ』と判断し、敬意をもって接していた。和尚は、いとがそんな
この男はこの男なりに、女に対してはまだ美しく、淡く無邪気な幻想を心のどこかに抱いていたのである。女はきっと男よりも肝が小さいだろう。女はきっと愛に生きるものだろうし、きっと銭よりきれいな花が好きだろう。きっと男よりも心がきれいだろう――そう、思っている…
「畠山義就が
という話も、かすんで見えた。
ちょっとだけ、昔に仲良くなった奴を思い出して、
「せっかく
と思ったが、やめた。なにしろ、こっちは道を急いでいる。遠回りをしたくはなかった。
それに、これなるあんちゃんは、数年前に顔を見せたところ、
「なんだおめえ、十数年前と変わってねえなあ」
と、和尚を見るなり、ひどくびっくりしていたのだ。じつは数年前と変わらぬ姿どころか、出会った頃とまったく変わっていない――そんな姿で現れたら、こんどこそ和尚は、己がばけもの扱いされそうな気がした。
――もう、あのあんちゃんとは会わんほうがいいだろう…
和尚は、そう考えなおしたのである。
それに、きっと今ごろは、あんちゃんはもう、あんちゃんじゃない。
――もう、きっと桶屋のお爺さんとか言われてそうな
そう、和尚は思った。
「いとさんがお前さんにした身の上話は、どこまでも本当のことであったよ」
帰ってきた和尚は、けっきょく重信には、韓信もどきの話以外は全て話した上で、どこまでいとに告げるか、彼と相談した。
結局、いとには『嘉助って情けない』の話は、言わないこととなった。
『嘉助さんの友だちの、あの気のいいおじさん、じつは朱雀門に棲んでた鬼だ』というのも、論外であった。重信もまた、いとをびっくりさせたり、傷つけたくなかったのである。
いとは和尚から、『嘉助は、すごい』の話ばかりを聞いて、深く感謝し、
いととしては『お父さん』のことはなんでも知っている心地でいたのだが、世間においての『嘉助という男』は、彼女の知っているのとは、また別の姿であった。
「家ではああだったけれど、外では偉かったのね…」
いとは、『元気な頃のお父さん』の背中なら、いくらでも思い出せる。最期の姿は、辛すぎて思い出せない。
幼い頃、いっぱしの楽師として、
「行ってくるよ」
と家を出ていくときの父の背中は、それはもう、眩しかった。
零落して、慣れぬ力仕事に出る時も、いま思い起こせば…こう、背筋がしゃんと伸びていて…それは、世間と戦うためであったように思える。世の中には、いろんな人がいる。すべての人が、優しいわけではない。これから、虚実わからぬ面をかぶった人々の群れに飛び込んで、銭を稼がねばならぬ。そのためには、あのように背筋をぴいんとして、『何があっても平気の
彼にちっとも優しくない世間に、嘉助が恨み言の一つも言わずに働いて、それがどうしてなのかと言えば、いととの生活を守るためであったに違いない。
「お父さんは、どこまでも私のお父さんだったのねえ…」
いとは、重信にばれないように、声をたてずに、さめざめと泣いた。
「ありがとう」
記憶の中の、あの背中に言ってみる。
きっと、きっと、その声は届いている。
『嘉助の友だち』の正体については、
「和尚様は、お父さんの友だちの正体、わかったかなあ」
そうは思ったものの…いとは、それについて、触れなかった。そんなことを知っている女子、鬼と喋ったりした女子なんて、人にどう思われるか、わからない。
こうして、三人とも、
「嘉助さんの友だちの正体については、俺たちだけ知っていればいいのだ」
「お父さんの友だちの正体については、私だけ知っていればいいのよ」
と、それぞれが腹の中にしまっておくこととなった。
こうして、皆が知っていることながら、皆が知らないことになっている『嘉助の友だち』は、井澤家で表立って語られることはなかった。
しかし、
「じつは、うちに伝わっているこの笛はね…、お前のお母さんのお父さんが…つまり、お前の母方のお祖父さんがだな…」
が、やがて、
「じつは、うちに伝わっているこの笛はね…、お前のご先祖さまがだな…」
となり、名を『
(※1) 韓信の股くぐりを参照願います。
(※2) 嶽山城の戦い…畠山義就と室町幕府の戦い。寛政4年に終わる。
(※3) 堅田…滋賀県大津市にある地名。
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