第51話 出立(37)


------------------------------------------------------------------------------------------------

※今回の話は、暴力シーンがあるわけではないのですが、食事中の方の目にとまると、嫌な心地となるであろうシーンがございます。15歳に近い方には、お見せしないほうがよいだろうな…の事故シーンもございます。そうした方々のために、『出立(37)・改』を用意いたしました。食事中の方や、15歳に近い方は、どうぞそちらをお読みください。よろしくお願いいたします。

------------------------------------------------------------------------------------------------


 さて、井澤家からお役御免となったは、

 『己が娘を重信の嫁にねじ込み、己も井澤家に入り込んで余生を送る』

 という壮大な野望を打ち砕いたを、許さなかった。

 ――あの女さえ、現れなければ…

 そう恨み続けているであったが、もしほんとうにが現れなければ、すべての思い通りとなったのか。

 答えは、否である。ばあやには残念なことに、重信にだって、意志がある。女の好みがある。そして、さらに残念なことに、ばあやの娘は、彼の好みとは遠い。

 しかし、そこまでは考えない。なるほど彼女の娘は、実際どうかは別として、

 『重信さまの嫁になれば、とそれなりの生活ができる…』

 と踏んでいるから、重信とすれ違えば、それはもう熱心なる秋波しゅうはを彼に送っている。

 取り合わぬ重信を見て、

 「照れ屋さんなんだから」

 と、にやついていた母子であったが、重信は、

 ――こちらにを飛ばしてくるあのは誰だっけ…ああ、ばあやの娘さんか。

 という感想より他にない。

 ばあやとその娘は、なにか壮大な勘違いをしていた。

 そうしたわけで、

 『うちの娘は、重信さまと両想いっ』

 『私は、重信さまと両想いっ』

 と、勝手に思い込んでいた母子にとって、とつぜん現れて、井澤の家に棲みつき、そのまま重信の嫁におさまったは、

 『両想いの、仲良しの若い二人を引き裂いた、とんでもない

 ということとなった。

 世の中には、己の思い通りに事が運ばないときに、己のせいにする人間と、他人のせいにする人間がいる。『まあ、いろいろあらあな』と鼻糞はなくそをほじって忘れる、重信の師匠である、あの和尚のような人間もいる。ばあやは、他人のせいにする人間であった。こうしては、娘のところに婿にやってきてくれそうなうっかりした男が、この母子の意地の悪さに辟易へきえきし…

 「やっぱり、やめます」

 と逃げていった時も、

 『そもそも、うちの娘が井澤のところに嫁にいっていれば…』

 と、いとを恨んだ。

 いま、ばあやは娘とともに農家の手伝いをして暮らす日々である。

 いとのお腹に子がいるうちに、

 「ぶつかってやろう」

 と思ったことは、数知れぬ。だが、重信が怖くてやめた。

 やがて腹の子が生まれ、その子を背負っているを見て、

 「ぶつかってやろう」

 と思ったことも、数知れぬ。だが、やはり重信が怖くてやめた。

 口惜しくてしかたがない。しかたがないから、或る日、外で彼女が一人でいるのを見かけたときに、すれ違いざまに、

 「ぶす…」

 と小声で言った。

 いとは、ちょっとびっくりした様子を見せたきりだったが、ばあやは満足であった。一緒にいた娘と顔を見合わせ…、

 ――言ってやった、言ってやった。

 ふふんと嘲笑ったであった。

 次にと出会った時には、

 「ばかー」

 と、また小声で呟いてみた。

 ――子供のとき、こういうのあったなあ。

 いとは、一瞬、いやそうな顔をして…小馬鹿にした笑みを浮かべたが、何も言わなかった。いととしては、こういう手合いを相手にしたくなかったのである。

 それでも、ばあやは満足であった。

 いとが、言い返さないのである。何度言っても、言い返さない。

 ――私が、こわいんだ。だから、言い返せないんだ。

 ばあやは、なんだか自分が偉くなった気がした。いとを服従させているような心地となり…、

 ――私は、えらい。

 鼻の穴を広げて、またと笑った。

 こうして、いき遅れた娘と共に二人してとして、

 「あの女、ばかだよねー」

 と、いとについて言いあって喜んでいたので、近所の人々も、これに気づいている。

 登谷の人々は、

 『こいつらと、関わり合いになりたくないなあ』

 そう思っているので、ばあやたちにも、いとにも、むやみに近づかずにいた。

 何年も何年も、こんなことが続いた。いとは、二人目の子を腹に宿している。

 或る夏の、暑い盛り――畑へ向かう途中のばあやは、坊やの手を引いたの姿を見つけて、露骨に嫌な顔を浮かべた。いとの腹は、もうずいぶん目立つようになっている。

 ――さあ、また言ってやろう。

 すれ違いざまに、妊婦にむかって言ってやる。

 「ぶすー」

 いとは、知らんふりだ。言い返さない。

 言い返せないのだと、ばあやは思い続けている。あれから何年も何年も、単調な「ばかー」「ぶすー」を言い続け…相手にしないが弱いやつだと、ばあやは思い続けている。

 今は道に、誰もいない。遠くに行った、あの憎い背中に、もう一回、こんどは大声で言ってやろう。

 ふふんと笑って、

 「ば…」

 なにか言おうとしたばあやは、道端に落ちているなにかを踏み、足をとられた。

 天地が、ひっくり返った気がした。

 犬か人か…落とし物の主は、誰だかわからない。悪口を言うことに気を取られて、道端に落ちているふんを「ふふん」と踏み、…すってんころりと頭を打ったであった。

 その足は、ひねって、奇妙なほうへ折れ曲がっていた。

 ばあやのことを相手にしたくないは、もう姿が見えぬ。振り向きもせぬ。

 底抜けに青い夏空を見上げ、ばあやは己がなにを言おうとしていたか、反芻はんすうしている。

 「ばかー」

 そうだ。そう言うつもりであった。

 近くの木に蝉がとまって、けたたましく鳴き始めた。道端に生えた青々とした雑草が、湿気を帯びた熱い風に揺れた。

 やがて、向こうから…人がやって来る。彼女をみとめた誰かが、驚きの声をあげた。

 登谷は夏の盛りだ。

 ぶうんぶうんと、大きくりっぱな蠅が寄って来る――ばあやの足元から、草いきれに負けぬ、糞の臭いが立ちのぼっている。


 『世間というのは、意外としっかりと人を見ているだろう。人の悪口なんて、よその人にしてみればだし、あのがぎゃあぎゃあ言っても、他所よその人は信じないだろう』

 いとはそう思って、たちの悪口を放置していた。むしろ、彼女たちを相手にして、同じ土俵に上がることじたいを、恐れた。

 しかし、なるほどとその娘のまき散らした、いとへの悪評は、すべて信じられたわけではないが、すべて信じられずにいたわけでもなかった。というより、娯楽の少ない田舎では、こういう『あの人のすねには傷があります』といった話題が、ないよりはあった方がよかった。

 こうして、ばあやの言った、『ないことないこと…』は、『あることないこと…』と人々に思われ…結果、いとは登谷で友だちがいなかった。

 ――ふうん…登谷でのって、そんなものか。

 とは思ったものの、いとは、それでもよかった。

 いちど、いとの悪評を重信が聞きつけ、

 「ばあやに文句を言ってやる」

 と言ってくれたが、

 「こういうのは、くだらないことです。あなたが相手にするほどのことではありません」

 と、いとが止めた。

 今の彼女には、重信と、彼との子供たちがいる。ほんとうのひとりぼっちでは、ないのだ。

 医者として働く重信を裏から支え、二人の息子たちと一人の娘を育てることに、いとは心を砕いた。そして、稀代の名人であった嘉助から教わった笛の技術を、彼女は自分の子供たちにすべて伝えていった――あの、嘉助の破滅の原因となった畢生ひっせいの曲も、もちろん教えた。

 『お父さんは、たしか、このように教えてくれた…』

 いとは、父にしか笛を教わったことがない。だから、しぜん…いとは、記憶の中の父と、また向き合うこととなる。そして、父が教えたそのままに、子供たちへ教える。

 いとの子供たちは、それを、己が子へ伝えていく。

 音楽のなかに、嘉助は生きている。

 「この調べはねえ、お前のお母さんのお父さんの…つまり、お前の母方のお祖父さんが作った…」

 これもやがて、

 「この調べはねえ、お前のご先祖さまがだな…」

 となっていった。

 足利義政に名前を付けられることのなかった

 

 『よし、決したぞ。その曲の名は――』


 義政がそう嬉しそうに声を弾ませ、名をつけようとした曲は、後々のちのち『お祖父さんの曲』、『ご先祖さまの曲』と呼ばれ…、井澤家の者ならば、誰もが耳にし、笛で奏でることのできるものとなっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る