第48話 出立(34)
「…そんなこと、思ったこともなかったな。嘉助さんやいとさんのことを、さんざん苛めた奴の心情なんてなぁ。疎道の最期に、同情はしないぜ」
やがて、和尚はもの思わしげに口を開いた。彼は、町なかで出会った人々に聞いた疎道のことを思い出していた。
「俺だって、後悔なんかしてねえ」
嘉助の友も、頑固な様子で、傲然、言い放った。
「でも、お前さんの言う通りかもしれないねえ…俺は、いろんなやつに話を聞いてまわって知ったんだが、乙梨って家は、代々、笛で天下に名を鳴らしてきた名家だそうだしなあ」
「そうさ。笛だけに。笛で、音も名も、鳴らしてきたんだ」
鬼は、応じた。
「疎道の親父の笛の教え方は、てめえの息子に対しては、相当なものだったらしいねえ…昔はよく、乙梨の屋敷の近くを通るとなぁ、奴の親父の怒鳴り声が聞こえてきたんだとよ。どっかの婆さんが、言ってた」
「ふうん…まあ、笛でなくとも、わざを伝える上では、よくある話だな」
「…そういうふうにだよ、子供のころから『お前には、これしかない』と笛を押し付けられ、人知れぬ苦労を重ねて、ひとかどの笛の奏者となった――そんな疎道が、ぱっと見、うだつの上がらない様子で『ただただ己がそうしたいから、笛を吹いている』というような嘉助さんと出会い…もし、嘉助さんのほうがわざが劣っていたなら、疎道も溜飲が下がったろう。しかし、その逆であったなら…疎道は、嘉助さんが妬ましかったろうな。憎くて憎くて、しかたなかったろう」
その和尚の言葉に、鬼は頷いた。
「そうともよ。
「ふうむ…」
和尚は、唸った。
「そんな、鬱屈したやつの前にだよ。生まれたときから、外でほんものの陽の光を浴びて、たくさん遊んで、いろんなものを見て、笑って泣いて、頑張って…そんなふうにして、ほんとうのものを学び取ってきたこやつが現れて、『お前さんが欲しかったのはこれだろう』と冒険の輝かしい成果を披露したら、どうなるよ」
「疎道は、嘉助さんをぶっ殺してでも、それを得たくなるだろうな」
「そうさ」
「疎道は、ほんとうのものがわかる眼は、持っていたのだな…」
「…それが、乙梨疎道の手柄だよ」
ぽつり、鬼は言った。
「ああ…そういうことだったのか。ようやく合点がいったよ。これなら、いとさんやその旦那に、嘉助さんの身に振りかかった出来事のわけを、きちんと話せる気がする。ありがとう」
深々と、和尚は頭を下げ…それに、
「礼には、およばねえよ。いとちゃんのことを聞けたしな」
朴訥な様子で、嘉助の友は応じた。その様子ににこと微笑んで…、
「お前さんの話を聞いてて、思い出したことがある…音楽ではないが、そういうことが、昔に
こう言って、和尚は今度は悲しげに天を仰いだ。
「ふうん。どんなことでだ?」
「侍の世界でのことさ…ま、いろいろあったんだよ」
「天才も、大変だねえ」
「そうだねえ…俺は、天才っていうのは、てっきり幸せなんだと思っていたけどねえ。たいていの野郎は、その
そう語る和尚の横顔を見据え、
「なあ…」
「うん?」
「お前、人か?」
朱雀門の鬼は、問うた。
「…人だ」
そう答えた和尚の声は、固かった。
「そうか…?」
「そうともさ…」
「なら訊くぞ。乙梨疎道ってやつぁ、善人か。悪人か」
和尚は、これを聞くと苦笑いを浮かべた。
「善人ではないな。悪人だろうな」
「泣いてた婆あは、奴の
「それも違うかもな…」
「なら、乙梨疎道は、なにものだ」
「人間だ。人間ってな、そんなもんなのさ。とらえがたい生きものだよ。人間の男なんざ、敵には嘘はつくし、必要なら傷つけたり殺すこともするが、家に帰れば、かかあにゃ頭があがらないしさ。子供も可愛いしさ。手塩にかけて育てた娘に男が出来たら、慌てるしさ。娘に男が出来なかったら、それはそれで慌てるってなもんよ。そのくせ、娘が嫁に行ったら、泣くんだぜ…な、わけがわからないだろう」
「見てきたように言うねえ」
鬼は、苦笑した。
「…いや、そういう男を山ほど見てきたから、言うのさ」
「へええ…不思議だ」
「不思議だろ。そのうえ、人間の女なんて、もっと得体の知れない生きものなんだぜ。俺にだって、いまだに女って生きものが、わからない」
「奇天烈だ」
「奇天烈だろ」
「…だが、お前が言うと、そいつらが好ましく聞こえる」
「そうかい」
「そうだ」
不意に、和尚は思い出したことがある。
「不思議といえばなあ。いとさんと、その旦那なあ、馴れ初めがふるっててなあ。疎道に雇われたあの悪い商人がいたろう」
「ああ」
「いとさんが、そいつや、その子分から逃げようとしたところを助けたのが、今の旦那だ。いとさんに言わせると、ずいぶんかっこよく、悪いやつらをぶっ飛ばしてたらしいぜ…旦那に言わせれば、『ちょうどその時、ひと暴れしたかった』のだそうだ…あの偶然は、お前さんの祈りのせいかねえ」
「へえ…どうかねえ…」
和尚は、嘉助の友の表情を確かめたものの…その真意は、わからなかった。それで気を取り直し、
「そいつ、医者なんだけどな。腕は立つんだよ。俺がしごいたからな」
こう続けると…、
「ぶは、っはっはっは…」
なぜか、こらえきれぬように、鬼は笑い出した。
「…なんだ。失礼なやつだなあ」
鬼は、まだ笑っている…笑いながら、その眼に涙を浮かべている。
「…嘉助のやつがさ。死ぬ前に、偉そうにいとちゃんに言ってたねえ。いとちゃんの旦那は、『おまえが泣いている時に現れて、泣かせたやつをぶっ飛ばす奴がいい』とか、『お前が病になったら困るから、相手は医者がいい』とか、無理難題を言ってたねえ」
「…ほんとか」
これには、和尚も吹き出した。
「こいつも、『やったぁ。言ってみるもんだねえ』と思っているだろうよ」
「ほんとだな」
「なあ…もう一度、訊くぞ」
「うん?」
「お前、ほんとうに人か?」
「…人だ」
「そうか…?」
「そうともさ…なぜそう思う」
「人ならば、そんな眼をしてないからさ。すべてを知ったつもりの眼のやつなら、確かにいるさ。でも、お前みたいな眼をした奴は、いないねえ」
「ふうん」
「そんなふうに、坊主のなりをしてるくせに、『おほけなく憂き世の民に…』(※1)の
「まあねえ。そうだねえ」
「…お前、なにが好きだ」
とつぜん、鬼は問うた。
「なんだ
(※1) おほけなく憂き世の民におほふかな我が経つ
百人一首。前大僧正慈円の歌。
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