第47話 出立(33)


 「…いいやつじゃないか。義政公ってのは」

 「うん。そうだな…俺はあのとき、花の御所の屋根の上で、あいつらの様子を見ていた。こやつ(※嘉助のこと)は、やったよ。とても美しく、素晴らしい曲を演奏した。皆、うっとりと聴き惚れていたね。花の御所なんてのは、まつりごとの場だ。人の心の汚さや欲に満ちた、世俗のめみてえなところだ。でもなあ、あの調べが響き渡ったときは、それこそ、この世のなにもかもが美しく見えたねえ。ふだんはぎらぎらした皆の顔つきも、き物が落ちたようになってよ」

 「すごいじゃないか」

 「うん。すごいよ。こやつが吹いたのは、うんと曲だ。泣きぬれて、その涙で紡いだような調べだ。しかし、それだけじゃない。心の奥底から滾滾こんこんと湧き出る、今は亡い嫁さんへのいとおしさで作り上げた調べでもある。『死よ! 千曳ちびきの岩(※1)くらいで、この思いが断ち切れるものかよ。絶対に無理だぞ!』…こやつの曲は、こう高らかに歌っているように聴こえたねえ。そうさ。あれは、生きている者たちが、死に向かって歌う凱歌がいかだ。人々の断ちがたい悲しみを癒し、これからへの強さへと変える希望の曲だ」

 「…途方もないことを、嘉助さんはしたな。とても人のわざとは思えない」

 ぽつりと、和尚は言った。

 「そうともさ。演奏が終わると、義政公は、感極まって泣いてたよ…ところが、その曲にけちをつけたやつがいる。乙梨疎道さ。こやつが笛を吹いているとき、皆は、こやつのことしか見ていなかった。しかし、俺は疎道の様子も見ていたぞ。だってな…やつはなあ、こやつの笛を聴いた途端、雷に打たれたようになってたよ。そうして、顔を青ざめさせて、神経質な様子でぶるぶる震えてなあ。俺はそれを見て、『なんだ、この薄気味の悪い男は』って…不思議に思ったのだ。だから、見ていた。今となればわかる。あいつは、こやつの笛をちょっと聴いただけで、『俺じゃ嘉助に勝てない』って、すぐにわかったんだろ。だから、自分の『笛の大家』の看板を守るために、あんなにきれいな曲に、『亡国の音』と…皆が忌み嫌い、怖がって二度と聴きたいとも思わなくなるような名札を張り付けて、葬り去ろうとしたのだ」

 「ひどい野郎だ」

 和尚は唸った。

 「ひでえだろ」 

 「うん。ひどい」

 「かわいそうに、嘉助は見る影もなく、泣いて家に帰ったねえ」

 「ひどい話だなあ。乙梨おとなしっていうからには、くしてればよかったのだ」

 和尚は、大真面目にとぼけたことを言った。

 「義政公は、乙梨疎道のに気づいていたねえ。その後、疎道を呼びつけて、えらく叱りつけていたよ」

 「そのあと、義政公はどうしたんだい? そんな優しい奴なら、嘉助さんを呼びよせて、慰めの一言でもあったんだろ?」

 和尚の問いに、嘉助の友は、

 「…なかったねえ」

 そう首を横に振った。

 「なんでだ」

 「義政公は、なんといっても、将軍だ。政治家なんだよ。『亡国の音』に触れることは、許されない。なにかこの世に良からぬことが起こったら、どうする? 『亡国の音』を寵愛したからだ、と人々になじられるよ。昔々その昔に、たくさんの人々の血の犠牲の上に成り立った幕府を、義政公は個人の嗜好で危うくできるかよ。室町幕府の頂点を預かる者は、お耳が綺麗でなければならねえんだ」

 「…そうか」

 「だから、それでしまいさ。義政という男は、政治家であることをまず第一に、自らに課していたのさ。非情にならねばならぬ時に非情になれる、そんな度量もある男だったのさ…そうさ。それで、終いだ。義政公と嘉助は、もう二度と顔を合わすことはなかった」

 「…そうか」

 「だがねえ。知性の部分で親しい人を切り捨てることができたとして…情の部分でもそれができるかといえばねえ、無理だったねえ。花の御所での事件があったあと…、義政公は、事あるごとに溜息をついて、おつきの者しかいないところで、ぽつりと『嘉助よ、すまぬ』と呟いてみたりしてさあ。悶々としていたねえ。それからだよ、彼が周囲の者たちに、自分の跡を継ぐ者の話をするようになったのは。もう、なんだか、世俗のことがなにもかも嫌になったんだろ」

 「ふうん…」

 「なあ…商売敵を詰るのに『亡国の音』という言葉を持ち出すなんざぁ、疎道は余計な事をしたねえ」

 「そうだねえ」

 「詰るにしても、これはあんまりだよ…これが、皆の悲しみの理由になるなんて」

 ぼそりと、これなる鬼は悲しそうに呟いた。

 「そうだねえ」

 この時は、『皆、ってのは嘉助さんやさんのことだろう』と思って、なんの気なしにそう応じた和尚であった。しかし彼は、その後に都で起こった大乱の話を人から聞いたときに思い出すことになる…この時の、嘉助の友であった鬼の眼の悲しさを。そして、ついつい考えるのだ。あの『皆』が、どういう『皆』であったのかを…

 鬼は、なにか物思いに沈んでいたが、やがて気を取り直したように…、

 「そんなかたちで、こやつの笛の奏者としての地位は失われた。しかし、疎道はそれだけではおさまらなかった。なまじ、音楽の素養があるものだから、こやつの作った曲のほんとうの価値がわかっている。だから、それが欲しくて欲しくてたまらなくなったのだ。それで、こやつの知り合いや妹を抱き込んだり、ごろつきを雇って脅したりして、こやつからあの曲をもう一度聴こうとした」

 そんなことを、言った。

 「一度聴いて、どうする」

 「どうしようもないだろうよ。疎道のほうでどうにかしたくたって、どうしようもない。一度聴くだけじゃ、駄目だろう。『もう一度、聴かせろ』となるだろうなあ。そして、またもう一度…またもう一度、となあ。奴は、そうやって覚えていくより他にないのだ。世の中には、『どんな曲でも一回聴いたら、自分でも吹ける』という奴も、たしかにいる。どっちかというと、こやつがそんな奴だった。しかし、乙梨疎道は違う。奴は、努力の男だ。持ち前の才能を努力で伸ばして、『笛の大家』と言われるまでとなったのだろうよ」

 「ふうん…」

 「じつは、疎道を殺したあとなあ、俺はとっとと逃げ出してやったんだが…、その後、疎道の屋敷で、やつの名を呼んでしくしく泣いていた女がいた」

 「ほう。奴のか」

 「いんや、違う。奴と、そのは、冷え切っていたよ。なにせなあ…いや、やめとこう。いろいろ、あったのさ…話を戻すと、とにかく泣き声がする。『なんだろう』と思って、とって返して隠れて覗き見ると、奴の親族らしい婆あが、奴の亡骸なきがらにすがって泣いていたのだ。疎道に向かって、『あんなに血を吐くような努力をして立派になったのに、亡国の音のせいで死ぬとはなんということだろう』とさあ、嘆き節とくらあ…あれは、奴の妹か姉ちゃんか、そんなだっただろうよ。近くで疎道の努力を見ていたんだろう。その婆あにとっちゃあ、疎道というやつぁ、誇らしい、偉い野郎だったんだろうよ」

 「ふうん…努力の才能は、あったことになるな。そして、婆あにとっちゃあ、疎道は涙に値する人間であった、と」

 皮肉をこめて、和尚は言った。

 「そうだな」

 「努力家であることじたいは、とってもいいことなのに、婆あにとっては周りに誇れるくらいな奴なのに、疎道は、なんでこんな酷いことになったのだ」

 「…わからんのか」

 鬼は、問うた。

 「わからんよ」

 「そりゃあ、こやつっていう…嘉助っていう、稀代の天才に出会っちまったからだよ。努力だけでのぼりつめてきた男が、『努力だけじゃ、どうしようもない。かなわない』と、そうこちらに思わせるような、とんでもない天才野郎と、出会っちまった。これが、努力の男にとって、どれだけ恐ろしくて残酷な事か、おめえ、わかるだろう…疎道にとっちゃあ、これまでの己の人生すべてを否定された心地になっただろうなあ」

 その鬼の言葉に、

 「…」

 和尚は、黙り込んだ。


 (※1) 千曳の岩…あの世とこの世とを隔てる巨大な岩。

  

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