第43話 出立(30)
陸尊和尚は、漂泊の人であった。
理由は、いくらでもあった。
たとえば、日頃の素行がもとで、その場にいられなくなる。
この前、和尚がぶちのめした盗賊が、仲間を集めて和尚の元へ仕返しに来る。そやつらが、また和尚にぶちのめされる。すると盗賊どもは、今度はさらなる仲間を集めてお礼参りにやって来るのだ。
だが所詮、和尚にとっては、たかが盗賊風情だ。和尚の敵ではない。
「めんどくせえ。束になって、かかってこいっ」
そう
ぶたれると痛い。打たれても痛い。口惜しい。だから、傷が癒えると、盗賊どもは和尚をつけ狙うこととなる。またもや、お礼参りをするつもりだ。
かくのごとくの面倒くさい、良い子が絶対に真似してはいけないことを、この和尚は日頃からしているのだ。ひとつところに、いられっこない。
こんなこともあった。
「おめえ、陸尊っていう坊主に似てるなあ」
尾張の街中でそう中年男に声をかけられ…、和尚はこの男を思い出せぬ。いろいろしでかしているので、いちいち覚えてもいない。持ち前の
「ああ、陸尊を御存知ですか。どこでお知り合いに?」
和尚は、そう答えたことだった。すると、男は、
「お知り合いもなにも、俺はやつに銭を貸しているんだよ。あれは今から二十年は昔のことだ。おめえの父ちゃんかぁ」
こう言われた方は、むろん陸尊当人である。
しかし、この和尚、そうした場数も踏んでいる。ここで、『あ、それ俺だよ。俺が、陸尊だ』というような馬鹿正直な男ではない。
「…はあ。そうです」
しゃあしゃあと、答えたことであった。
「父ちゃん元気か。俺は何某という男だが、父ちゃんに、銭返せって言っとけ。俺は覚えてるぞ。利息の分も忘れるなっ」
「はい…」
「で? 今、おめえはどこに住んでいる? 父ちゃんは? あん時は逃げられたけれどなあ、地獄の果てまで追いかけるぜ」
みなまで言わせず、和尚は脱兎のごとくに逃げ去った。この時もまた逃げられた哀れなる男は、なにやら向こうで彼を呼ばわっていた…
――俺、あいつに銭借りたっけ?
逃げ走りながら、和尚は首を傾げた。なんども言うが、いろいろしでかしているので、いちいち覚えてもいない和尚であった。
――とりあえず、しばらくの間、尾張には足を運ばないようにしよう。これであいつとはおわりにしよう。
和尚は、かたく心に誓った。彼の言う『しばらく』とは、この場合は二十年か三十年か、それくらいである。
そんなこともやっている。ひとつところに、いられっこない。
それに…、何年も、何十年も、同じところにいると、彼がいつまでも年を取らぬことが、人にばれてしまう。この和尚とて、もとは人の子だ。化け物を見る目で、見られたくは、なかった。
人に『化け物』と呼ばれぬようにするために、和尚は旅をする。
いろいろな土地を見てまわるのは、至極楽しいことであった。天と地のあいだの、この世の土地でさえあれば、この和尚はどこへだって行ける。山河はその雄久をもって、和尚を慰めてくれた。そうしたものは、四季の移り変わりで和尚の眼を楽しませてくれるのみでない。命あるものと違って、けして死にたえはしない。それが、この和尚には嬉しい。
或る山は、優しい、ぽってりとした形をしていた。別の山は、まるで槍の先っぽみたいな形をしていて、
「おもしろいな。まるで誰かが
と、和尚の眼を楽しませた(※1)。
他にも素晴らしい山はたくさんあったが、やはり富士の山は他に二つとない美しさであった。あの雄大の前では、和尚のような男でも、なにかしら崇敬の念が心に生じた。それに、この山は、あまりに高いため…どんなに遠くに行っても、ひょっこり顔を出してくれるのだ。
「おっ、雪化粧してらあ。そのおしろいは、俺に会うためかあ。きれいだな」
旅先で、思わぬ顔見知りと出会った心地がして、楽しくなる。このごつい見てくれで、寂しがり屋のところもある和尚に、富士の山はいつも優しかった…
それでも、どうにも寂しさに耐えきれなくなる時がある。人が恋しくなる時がある。そんな時は、和尚は、武蔵国の井澤の家を訪ねる。そこには、彼を家族として迎え入れてくれる人々がいるのだ。じつは、もうかれこれ数百年ものあいだ、井澤の家の人々は和尚に対してそのようにしていた。
陸尊和尚は、老いぬ。この男の存在に対して、井澤の家の人々はなにも疑問を抱いていないようにみえる。他所の家から嫁に来た女でさえ、はじめこそこの不思議な男についていろいろ詮索するが、家の者から事情を聞いたり、当の和尚と話しているうちに…だんだんと、もうどうでもよくなってくるのだ。家の者どもと、ともに飯を食らい、家の隅でごろ寝をしながら鼻糞をほじり、それをぴんっと指で飛ばしたあとにぶうっと屁をこく姿には、神秘性なんぞ微塵もない。
また、家の子供たちと遊んでくれ…
「和尚さんがいるとあぶないことができない。むこう行こうぜ」
と子供たちにうまくまかれ…子供たちはさんざん遊んで、和尚のことなど忘れて家に帰ってくる。そうとは知らずに、
「おおい、こぞうども。どこだあ」
と顔を青くして
「あっ、おまえら、帰っていたのか…」
和尚はことの真相を聞いて、今度は愕然、ふてくされていじけている。そんな和尚に、恐ろしさなんぞ微塵もない。
そうだ。こんな気のいい男を、子供たちの母は、怖がりはしない。
「和尚様は、わけのわからないところがあるけれど、いい人だ」
となる。それで詮索はお終いだ。
その昔、この和尚がしてのけたことなんぞ、井澤の当主しか知らない。だからこそ、この和尚はこの家で恐れられていない…
和尚は、そんなこんなで、井澤家の人々に愛されてきた。井澤家に来ると、この和尚は必ず、滝野家にも顔を出し、
「お久しぶりでござる」
と、持ってきた土産話をしてゆく。滝野家でも、この男はひじょうに歓待されている。
井澤家に、転がり込んだ奇妙な話である。
井澤家の当主の、頼み事である。
陸尊和尚は、もとは人に仕えたことがあったから、人が頼み事をするときの、
「時間のある時に、よろしくお願いします」
が、
「大至急でお願いします」
であることは心得ている。おまけに、いとは井澤重信の嫁である。あの笛を見たときの強烈な印象もある。
「とっとと行くか。都に…」
そうなった。
都で和尚が真っ先にしたことは、いとが父親とともに暮らしていた、あのあばら家を探すことであった。
「すみません。この辺りに嘉助さんという人がいませんか」
知らんふりして、そう訊いてみる。
「知らないねえ」
が大半であった。ほんとうに知らなさそうなのもいたが、『嘉助』の名を聞いて、ぎょっと眼を剥き…そのあとで不自然に眼をそらして、
「知らないねえ」
と言う者もいた。
これでは
「拙僧は、旅の僧です。嘉助さんという人に銭を貸した者に頼まれて、嘉助さんを探しているのですが、ほうぼう尋ね歩いても見つからなくて困っています。これでは拙僧の面目が立ちません。どなたか、嘉助さんの行方を知りませんか」
こう訊いて回ったところ…、
「お坊さま。その名を呼ぶと恐ろしいことが起こるかもしれませんよ。その御方なら、もう死んでしまいましたよ。もう探すのは、およしなさい」
このあたりに住んでいるという老婆が、声をひそめて、そんなことを言った。
「えっ、亡くなったのですか」
「はい」
「ご家族は? 奥さんやお子さんなら、会えますか?」
どこまでも知らぬふりをして、和尚は問うた。
「もうおよしなさい」
「面妖な…なんで、その名を呼ぶと恐ろしいことが起こると思うのです」
いかにも不思議そうな顔を作ってそう問うた和尚に、老婆は、
「だって…
恐ろしそうに、そう告げた。そして、これ以上なにか言うと己も祟られると思っているのか、もう何も教えてはくれなかった。
(※1) 槍ヶ岳。
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